22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2001年03月

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3年前に、大夕張を訪れた。初夏の北海道は、花の色が鮮やかで、大夕張への道のりは印象的であった。
すでに、大夕張が数年内にダムで水没することは決まっており、私が訪れた時には、早くも一部の建物を
除いてすべて撤去されていた。アスファルトの道路の両側には何もなく、一定間隔で電信柱が立つだけで
あった。10年前のこの時間、小学生の遊ぶ姿や買い物をする主婦の姿があったかとにわかに想像ができ
ない。
帰り道、旧南大夕張駅跡に放置されている列車を見物した。ガラス窓は破られ、木の床は抜け、ホームも
自然崩壊に任されていた。現役当時を偲ぶよすがもない。こうして朽ち果 ててゆくのか--。
今月の「あの駅はいま…」は、南大夕張駅を取り上げる。三菱大夕張鉄道保存会会長・奥山道紀さん(7、
8を除く)と★事務局長・今井一郎さん(7、8)に語っていただく。 三菱大夕張鉄道保存会では、ホー
ムページを開設している。ぜひ、ご覧いただきたい。

1.「ナハフ1」を復旧せよ
★平成11年3月、廃止後旧ホーム傍らに野ざらしにされていた客車が転倒した。★三菱大夕張鉄道唯一
の自社発注客車「ナハフ1」である。そのニュースを知った私は、当時から交流のあった夕張の郷土学習
グループ・シューパロ塾の有志を募り、対応を協議した。調べてみると、★車両は閉山時に、三菱から夕
張市に譲渡されていた。復旧には、市の理解と協力が不可欠ということになる。私たちは、行政に訴える
べく、車両復旧のための署名運動を開始した。
運動の成果が現れた。市の協力が得られたのである。転倒から半年を経過した12月13日、2台のクレ
ーン車を導入した大掛かりな復旧作業がなされた。当日は、天候は曇りがちで寒さの厳しい日だったが、
心配していたほどの悪天候とはならず作業は順調に進んだ。
こうして、「ナハフ1」はみごと復旧した。市民と「三菱大夕張鉄道保存会」の活動が実った瞬間である。

クレーンを利用して起きあげる(写真:★三菱大夕張鉄道保存会)
無事に復旧は終了(写真:★三菱大夕張鉄道保存会)

2.★私と三菱大夕張鉄道
南大夕張駅は、私にとって思い出深い駅である。私の通っていた南部小学校は、駅の背後の高台にあった。
幼少時から鉄道に触れることになり、自ずと興味は高まることになった。
高校時代は、★清水沢まで毎日、この列車に乗って通った。当時の思い出は、やはり、「だるまストーブ」
だろう。雪深く、底冷えする冬、列車内の唯一の暖はこのストーブだけであった。しかし、ストーブ周辺
は、上級生たちによって占拠されてしまい、下級生である私たちは遠くから暖をとるので精一杯であった。
ストーブは例年、夕張岳の頂が白くなる11月から翌年の4月までの間設置された。今ではまったく見られ
なくなってしまった光景である。

昭和36年当時のだるまストーブ(写真:星良助氏)
★客車の屋根からT字形の煙突が突き出す(写真:奥山道紀氏)

3.人命の保証はいたしません
三菱大夕張鉄道は★大夕張炭砿の専用鉄道として、明治44年6月に清水沢・二股(後の南大夕張)が開通
したのがその始まりである。昭和4年に★炭砿が北部に移転したのにともない、通洞(後の大夕張炭山)ま
で延長された。
鉄道は、石炭輸送だけではなく、森林鉄道からの木材輸送にも利用される他、★道路が未整備な沿線住民の
貴重な足としても重要な役割を果たした。
しかし、当時から、輸送の主は石炭であり、混合列車で運ばれる「人」はいうならば、”ついで”であった
ことは否めない。また、施設も悪く、危険が多かったこともあり、★昭和14年、晴れて地方鉄道になるま
では勘合証(キップ)の裏面には「人命の保証はしない」という注記が付されていた話は有名である。

待ち人で賑わう大夕張駅のホーム(写真:飯田雅人氏)
★竜田沢を埋め立て工事の9200形SL(写真:夕張市石炭博物館)

4.★三菱大夕張炭砿閉山
戦後、石炭は復興の国策の柱と位置付けられたが、石油や外国産の石炭、そして政府のエネルギー政策に翻
弄されながら、全体としては、下降基調をたどっていた。
しかし、夕張は産出されるその良質な石炭、そしてそれを経営する財閥系企業の底力を得て、順調に業績を
伸ばしていた。特に、★南大夕張砿は全国的に閉山が相次ぐなか、★国のスクラップアンドビルド政策の中
「ビルド鉱」として、新鉱開発が行われた。そして、昭和45年8月、★三菱南大夕張炭砿の操業が開始さ
れるに至るのだ。
しかし、その一方で、奥地にある★大夕張砿は採炭現場の悪化に伴い産出量が減少、先細りの様相を呈し始
めていた。そして、昭和48年、★三菱大夕張炭砿は閉山。これにともない、三菱大夕張鉄道の南大夕張・
大夕張炭山間は廃止、★同時に機関車もSLからDLに転換された。

夕張駅構内での入れ替え(★写真:夕張市石炭博物館)
※夕張駅は国鉄駅で直接大夕張鉄道に関係してきません。
星良助さん当たりで相応しい写真無いでしょうか?
下記サイトにも大夕張炭山での石炭積込みの写真(昭和40年頃)があります
http://club.pep.ne.jp/~shuparo/images/9607B.jpg

★北菱炭砿の石炭積み込みポケットにて(写真:本間正雄氏)

5.三菱の企業城下町として
大夕張という街を語る上で外すことのできないのが、三菱という企業である。そもそもこの大夕張の地は国
有地であった。それを三菱鉱業が借り受け、★炭砿開発にあてたという経緯がある。
何もない★山中に、鉄道、工場をはじめ、病院、映画館、住宅、道路、水道などのインフラに至るまで、す
べて三菱が整備した。行政が関わったのは学校だけというわけである。まさに、三菱の企業城下町というに
ふさわしい。
戦後間もない昭和28年には、大夕張地区を夕張市から切り離す、いわゆる分町運動が盛り上がった。結局、
市議会で否決されたが、それだけ自らのコミュニティに対する住民の意識が高いことの証左であろう。
国策の要ともいうべき石炭を扱っていたことから、大夕張への人の出入りは制限された。戦後しばらく経過
するまで、道路が整備されなかったのは、こうした人の出入りを制限するもので★あったともいわれる。
現実に、戦後になるまで、旅客列車は、清水沢の直前に「新清水沢」という駅を設けて、そこで乗り降りさ
せることにした。あえて、国鉄清水沢駅と直結させなかったのである。

メーデーに集う人々(写真:本間正雄氏)
「裸まいり」の気合い(写真:本間正雄氏)

6.★映画の街・夕張

★炭砿は若者の街だ。そうした若者が集まれば、娯楽が求められる。当時の娯楽といえば、やはり、映画で
ある。★大夕張には、「協和会館」と「大夕張劇場」という映画館があり、いつも炭鉱労働者で賑わってい
た。私も映画好きの父によく連れて行ったもらったものだ。
同時に、夕張は数多くの映画の舞台ともなった。「女ひとり大地を行く」(昭和28年・炭労制作)、「あ
の橋の畔で」(昭和37年・松竹制作)、「幸せの黄色いハンカチ」(昭和52年・松竹制作)等多くの名
作が夕張を舞台としている。
撮影地としては、「皇帝のいない8月」(昭和53年・松竹)が挙げられる。この映画では、南大夕張駅構
内にブルートレインのセットを組み、自衛隊の夜間襲撃シーンを撮影した。★また、「 鉄道員(ぽっぽや)
」の高倉健も2回ほど三菱大夕張鉄道に映画撮影に訪れている。
★炭砿閉山後、夕張市は「石炭の歴史村」「レースイスキー場」等の観光開発を推進し、平成2年より夕張
国際映画祭を開催するなど「映画のある街・夕張」をテーマにした街づくりを推進している。

昭和30年代の大夕張劇場入り口(写真:佐藤次男氏)
ブルートレイン「さくら号」が出現(写真:奥山道紀氏)

7.5年後には、駅長に
私が三菱大夕張鉄道に入社したのは、昭和59年の秋。それまで3ヶ月ほど、★坑内に入っていたのだが、
鉄道に求人の口があり、それに応募したのだ。
私が勤務していた当時、★1日5往復(昭和62年の廃止時で混合3往復+貨物3往復の計6往復です。間
違いでは?)の列車が清水沢とを結んでいた。ふだんから忙しくないのに、日曜日になれば、通学生がいな
いので、列車は間引かれる。朝、清水沢からの★列車を迎えれば、次は夕方まで★列車は来ない。
職員は将棋を指したり、たばこを吸いながら散歩したり、詰め所で昼寝をしたりしていた。今にして思えば
、のどかな職場であった。
当時、駅には、駅務を担当する「内勤」が5人、操車や転轍を担当する「外勤」が7人の職員がいた。50
代以上がほとんどで、皆、私よりも年長の人ばかりであった。
「お前、あと5年もすれば、駅長だな」
と冗談とも真ともとれぬことをよく言われたものだ。しかし、それは実現することはなかった。

★大夕張駅を出発する混合列車(写真:本間正雄氏)
三菱マークが見える南大夕張駅(写真:奥山道紀氏)

8.「合理化」の名の下に
私が南大夕張駅に勤務したころ、すでに石炭は冬の時代を迎えていた。「合理化」の名の下に、人員カット
が遂行され、★炭砿は閉山へと向かっていた。
昭和60年5月23日、南大夕張砿でガス爆発事故が起こった。未曾有の大惨事で、62名の尊い命が犠牲
になった。炭砿には事故はつきものとはわかってはいたが、こうした大きな悲劇を目の当たりにして、背筋
が凍る思いがした。炭砿が操業を停止したため、駅には、次から次へと送り込まれる「セキ」がヤード一杯
になり、私はそのやり繰りに忙殺された。
南大夕張砿は平成2年に閉山になるが、今にして思えばこれがきっかけであったようだ
しかし、鉄道は一足早く、昭和62年の春、三菱より鉄道廃止の通知がなされると、何の抵抗もなく、★7
月21日を持って廃止された。★76年の歴史であった。

★閉山反対のペイントを施したSL・昭和48年(写真:本間正雄氏)
放置されたままのラッセル車(写真:飯田雅人氏)

9.ダムに沈む町
大夕張は現在、建設中の★シューパロダムによって水没しようとしている。すでに、★大夕張の町全体の建
物は取り壊された。何でも、水没するとき、浮いてきて困るので、すべて破壊・除去してしまうのだという。
この町で、運動会、祭などを思い起こすと、胸を裂かれるような思いにさせられる。かつてこの地に、鉄道
が延び、人々が暮らし、文化が花開いたことも、遠い記憶の彼方に沈もうとしている。
町の★記憶を残す意味でも、南大夕張に★遺された列車をしっかりと★守っていくことがそこを古里とする
者の使命と思う。

鹿島小学校(写真:飯田雅人氏)
壊れた鹿島小学校門と記念碑(写真:ヒロ三浦氏)
http://www1.mat.muroran-it.ac.jp/ishigaki/gio/image/PA210043.JPG



■23(木)

北斗星?

■24(金)

札幌 
15:00 奥山氏面会

幌加内?

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加計駅は広島県北部の山あいの駅だ。私は7年前、一度訪れたことがある。その加計駅がいま、存続の危機を迎えている。可部線の可部駅以北が近々廃止として俎上に上げられているのである。

今月の「あの駅はいま・・・」は小田豊隆さんに、加計駅を語っていただく。小田さんは加計町で生まれ育った。当然、加計駅に並々ならぬ愛着を持っている。小田さんは言う。

「単なる採算という指標だけで、地域の切り捨てがあっていいものでしょうか? JR西日本という一民間企業にそのような権限を持たせていいものでしょうか・・・」

結論は3月末に出される。

小田さんのサイトでは、可部線存続に向けての活動が紹介されている。ぜひ、ご覧いただきたい。

 がんばろう可部線
 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kabeline/index.html
                               
                            (清水正夫)

①■加計駅の思い出

加計駅開業は昭和29年、私が生まれる前の年のことである。

開業の日、5歳になっていた姉は、父の押す自転車に乗せられて加計駅に行った。真新しい加計駅には、大勢の人集まり、一番列車の到着を待っていた。すると、突然爆音が周囲の山々にこだました。

大人の背に取り囲まれて周囲が見えない姉は、思わず上を見上げたらしい。爆音の主は新聞社の写真撮影用のセスナ機であった。

「大人の背で空しか見えなかった。子ども達みんなは、”汽車”ではなく、空の”記者”を見ていたんだね」

姉は、当時を冗談交じりに振り返る。

②■待ちこがれる町民

開業日のようすは、加計正文さんが書いた「本郷線開通のよろこび」から引用するのがいいだろう。加計さんはその名の通り、この町の名士で、可部線延伸にたいへん努力された方だ。

 ***

 加計は……本年布・加計間の工事が完成して、三月三十日愈々開通式が挙行 されることになった。

 六十年来待ちに待ち焦がれていた沿線町村民の喜びようは到底筆舌に尽くし がたいほどである。そのため工事中も大人、子供の見物は絶えず、架橋工事 を弁当持ちで終日見物する老人があるかと思えば、工事用無蓋車の運転を見 て、雨天には傘を持って乗らねばならぬかとつぶやく老婆があると云う、嘘 のような話さえ随所に聞かれたのであった。

③■「万歳! 万歳!」

 愈々開通式の三月三十日、弥生の空は雲一つなく天気は正に上々、招待客臨 時列車が加計駅着予定の時刻十二時数分前、ホームにも線路両側の柵外にも 至るところ数千人の歓迎の人々が溢れ、国旗を手に手に固唾をのんで待って いる。正にあらしの前の静けさである。

 やがて南方遙に汽笛の音が鳴り響いた思うと間もなく、太田渓谷の緑山碧水 を縫うて白煙を長く棚曳かせながら汽車がどんどん進んで来る。
 交叉した国 旗を前部に飾った機関車が、待ちに待った汽車が加計駅ホーム に滑り込んだ。一瞬、静まりかえっていた黒山の人から一斉に万歳の声が起 った。この感激はみんな生涯忘れられないだろう。

④■町民の歓迎ぶり

 続いて開通式、祝賀会が型通りに終ると、さあ大変である。近村近郷、地元 各部落の餅撒き、田楽、手踊り、仮装行列、俵もみ等々趣向をこらした数々 多彩の催し物がくり拡げられ、加計の町は興奮の渦に巻き込まれてしまっ  た。そしてその伴奏でもあるかのように駅に発着する汽車が高く汽笛を鳴り 響かせば、踊るものも見るものも益々勢いづき興奮其の極に達しいつ果つべ くもない。

 この町に溢れた大衆は三万余り、さんさんと降りそそぐ春光を浴びて老いも 若きも喜びに満ち充ちて堪えがたい顔、顔、顔。まったく私達には涙なしで は見られない情景である。……

  広浜鉄道期成加計同盟会長・加計正文の「本郷線開通のよろこび」
  広島鉄道管理局機関誌「ひろしま」六ニ号所収

⑤■可部線の来歴

古来、加計は陰陽連絡路の要衝として殷賑を極めてきた。長きにわたって、川舟、筏を使用した太田川舟運が交通の主体であったが、明治になり、鉄道が各地に敷設され始めると、鉄道のあるなしによる地域格差が歴然とし始め、加計に鉄道を引こうという動きが活発化した。

明治三十年代には早くも「広浜鉄道」の敷設が出願された。川筋の道路が、必ずしも期待通り機能しなかったこともあった。

柿本正廣さんは可部線開業当時をこう振り返る。

 当時、線路にかかって移転することになった家があって、その新築のための 地突き言うて、家を建てる前に地面を固めることをするんですが、<途中略 >あの頃は何かあったらすぐ隣近所、地区の者が集まって協力しあってやっ ていた。祭でも何でも。

 可部線もそうやって作った線路なんですよね。農地を提供し、山を削りして 通した線路が、今もう役にたたないと言われると・・・時代の流れとはいえ 残念だねーと思うんです。今の若い方には車が便利なんでしょうが・・・。 私のような者には、町に汽車が通ったと喜んだのもついこの前のことのよう な気がするんですよ。

こうした地元の期待を背負って、昭和29年、可部線は加計駅まで到達した。
⑥■かつての加計駅

加計駅開業当時の利用客は、昭和29年度の年間乗客人員が、7万9300人であった。その後増え始め、昭和33年に、9万6000人でピークを迎えた。しかし、その後は、次第に減り始め、昭和38年には、同29年の約三分の二までに落ち込んでいた。

一方、貨物の取扱いでは、昭和30年当時、1日1往復の貨物列車が運転され、加計からは木材、木炭、鉄鋼、機械などが運び出され、逆に、セメント、機械、鉄鉱石、肥料などが運び込まれた。貨物輸送に関しては、地元企業の帝国製鉄に依拠するところが大きかった。

⑦■神楽囃子で夜は更けて

加計町は私の生まれ育った土地だ。山間の小さな町であるが、山陽・山陰を結ぶ交通の要衝として、古来、栄えてきた土地だ。

町の名物といえば、まず挙げられるのが、神楽である。町には、神楽団と呼ばれる組織があり、日夜、加計神楽伝承のための稽古が行われている。

温井ダムは加計の新名所である。アーチ式ダムでは黒四ダムに次いで全国第2位の堤高を誇るこのダムは、平成12年11月に完成した。周辺には、ホテルや観光施設が整備された。

⑧■未完の「広浜鉄道」

乗客の減少をしり目に、昭和39年、戸河内へ向けての建設に着手し、44年には、三段峡まで開通した。可部線は、さらにここから山陰本線・浜田まで延伸される予定であった。--広浜鉄道である。
しかし、この構想が実現するはずもなかった。すでに、鉄道の時代は終わりつつあったのだ。

私が勤務する島根県金城町には、この延伸鉄道の工事跡が多数ある。トンネルや鉄橋がほぼ完成したまま放置されているのである。

⑨■加計駅はいま・・・

乗客の減少にともない、鉄道本数も減少するという悪循環の結果、昭和63年には、国鉄の赤字ローカル線として、その存続が危ぶまれるようになった。地元にも、可部線廃止という危機感が走り、廃止反対運動が盛り上がった。

地元住民の反対運動が功を奏して、このときの廃止は免れることとなったが、可部線の利用者減少には歯止めがかからなかった。
あれから13年、再び、可部線に白羽の矢が立った。

この2月12日、JR西日本による試験増便が終わり、3月中に、結論が出されることになっている。開業から45年、先人たちの悲願であったこの駅が、今、存亡の危機を迎えている。

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 がんばろう可部線
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