









①■珠洲駅とともに
#1-1:ふるさと列車「おくのと」
#1-2:大歓迎の珠洲市民
私が生まれたのは昭和39年10月9日、珠洲駅開業が同じ39年の9月21日--。私の人生は、珠洲駅とともに歩んできたといってもよい。
小学校に上がる前、父に連れられてよく珠洲駅に遊びに行った。毎朝、8時30分頃、ディーゼル機関車に牽引された貨物列車が到着するのだが、その入換え作業を見るためである。その帰り道、近くの本屋さんで汽車の絵本を買ってもらうこともあった。
私は貨物列車は好きだったが、なぜかSLは苦手だった。ふるさと列車「おくのと」というSL観光列車が運転し始めた時、喜ぶだろうと珠洲駅へ連れて行ってもらったのだが、あの黒い塊と煙を見た途端びっくりして、汽笛で飛び上がって泣いたそうだ。
②■貨物列車を追って
#2-1:米、レンガ、能登瓦が運ばれていった
#2-2:お手製ヘッドマークと貨物列車
貨物列車が好きだった私は、小学校、中学校、高校になっても暇さえあれば貨物列車の入換えを見に行った。どこから貨物が発送されてくるかには、とりわけ関心を持った。鉄道で全国が繋がっているのだと、実感したものだ。
ちょうど、高度成長期の頃で、貨物列車もたくさん連結されていた。しかし、トラック輸送などの伸びにともない、年を追うごとに貨物取扱量は減少し、昭和56年11月19日、ついに国鉄は珠洲駅の貨物取り扱いを廃止した。
高校に入学してから、鉄道同好会を設立したが、その当時の出来事であった。私たちは、皆でヘッドマークを作成し、機関車に取り付け、別れを惜しんだ。
③■押し寄せるモータリゼーションの波
#3-1:賑わう駅改札
#3-2:急行「能登路」
貨物取り扱いが廃止され、「国鉄再建法」が国会で成立するなど、鉄道の時代の衰退を告げるような出来事が続いたが、珠洲駅は、地域の玄関口として、観光の拠点として賑わっていた。
昭和55年10月のダイヤ改正では、急行「能登路」は20号まで運転されていた。お盆を迎える頃には、4両編成の列車は満員で、珠洲駅はたいへんな賑わいであった。
しかし、ちょうどその頃、北陸鉄道による奥能登特急バスの運転開始、能登有料道路の全線開通など、モータリゼーションの波がひたひたと奥能登を侵しつつあったのである。
④■「能登線」はこれから・・・
#4-1:JRからのと鉄道へ
#4-2:のと鉄道のディーゼルカー
#4-3:珠洲駅
※「4-3」は、撮影:西崎さいき氏
※上記以外写真はすべて、巽好弘氏
昭和62年4月1日、国鉄は分割・民営化され、能登線はJR西日本に移管された。しかし、そのときにはすでに、「能登線」は第三セクター化されることが決まっていたのだ。
JRに移行した翌年の昭和63年3月25日、穴水・蛸島間は「のと鉄道」に移管された。「廃止」という最悪の事態を免れたが、全国を網羅する交通網から切り離されたような寂しい気持ちにさせられた。
こうして発足したのと鉄道であるが、当初の黒字経営もつかの間、ここ数年、利用客は年々減少にともなう苦しい経営状態にさらされている。
この3月末、穴水・輪島間が廃止されるが、今後、のと鉄道・能登線もどのような運命をたどるか予断を許さない状況である。今後も、のと鉄道を見守り続けていきたい。