22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2000年10月

■19~

●阿仁

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●阿仁合駅

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●能代駅

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●鶴の湯

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昭和9年生まれ。地元の農業高校を卒業後、昭和28年鉱山に入山、鉱夫として働く。
その後、地元阿仁町役場の公報課・助役等を歴任、退職。
日時:平成14年11月11日
場所:秋田県阿仁


小林:鉱山仲間は人のことやって当たり前。鉱山に入っている人たちは常に死との対面。自分の命の大切さと同時に、人の命の大切さ、相手の命の大切さを思う気持ちは他の職場では見られないすな。もう、仲間が何やったってみな真剣。

―そういう地域の中で支え合って暮らす工夫・知恵の部分が、これまで見捨てられてきましたよね。

小林:阿仁の高齢化率、65歳以上の年寄りの率はいま37~38%、これは50年後の日本の高齢化率なんだそうです。最も早い段階でそうなった。そういう助け合いの人間性を育てる社会は阿仁に行ったら見れるよ、と言いたい。向かいのおばあさんは90過ぎだけど、一人暮らしで、しゃんしゃんとして、買い物、お使い、体を動かす、気性を使う、話す、感謝、つきあい、何でもする。本人の自助努力もさることながら周辺の人もサポートしてくださる。この田舎だからできるっす。東京行けば、隣は何をする人ぞ、じゃないですか。

―周辺の人でボランティアでサポートしていこう、施設に頼る以前の自立するための工夫・知恵がありますね。小林さんの周辺でやっていることがそのまま今の日本で必要とされているわけですね。

小林:自然が豊か、食べ物も純粋。阿仁の山林原野は、山菜がどこにいってもふんだんにとれるんだ。他の町村より高いから市場性はいまいちで、韓国・中国の原材料では価格的にかなわない。でも阿仁はやっぱり自然さこだわって作っていくべきだ。それがやっぱり人間の暮らしの源流なんだ。阿仁のものは農薬も添加物も入っていない。自然だもの。阿仁は秋田県一の高齢化、過疎地、貧乏、財政的に脆弱。でも、そういうものをもとにした夢って結構あるんだよ。

―水がいい、緑が濃い、人情豊か…歴史もありますし、奥行きのあるところですね。

小林:鉱山の歴史なくては阿仁は語れないっす。それにここは暮らすには最高です。雪が多いのが玉に瑕ですがね。でも、雪というのはすべてを洗い流してくれる。夏のごみ、堆積したものを、純白の雪はすべて洗い流してくれます。

―それに静かですしねえ。

小林:過疎だからな、気味悪いくらい静かでしょう?(笑)



仕事

昭和9年生まれ、28年に鉱山に入った。役場の広報部を15~16年つとめ、統計をやっていた。いい仕事させてもらったし、感謝している。統計は実態調査、15~16年やっていれば大体のことはわかる。農業・林業・男女・結婚。情報は入って来る。そういうことが詰まっているから、いろんな方に何とか受け答えできる。ある偉い政治学者から、調査なくして政治なしと教わった。昭和45年、55年、65年、三回開発基本構想、計画を阿仁合でやったけど、それに関わってきた。


鉱山・生活・自然


鉱山のおかげで人・文化・産業、すべてがこの阿仁に来た。
抗掘はいわれのある、画期的なもので、明治17年頃開業したのかな、あの時代によく掘ったなぁと思う。阿仁の場合は日本一の鉱山という歴史があったし、民間には資金がなかったから、見本になる鉱山にするべく国がある程度投資した。人も金もつぎ込んだ、その遺産。明治20年代から大正期にかけて、3500~3600人が出入りしている。日清(明治27年~)・日露戦争(明治37年~)期には、そういったたくさんの人を相手に商売をするべく、さらにいろいろな店ができた。明治の後半から大正期が最盛か。写真の人々は大正・明治生まれだからほとんど亡くなっている。鉱山の優秀な工員と双葉山が相撲をとったことも。双葉山全盛の昭和10年代頃の話。鉱山独自で大運動会もやった。鉱山が閉山したとき、400年祭を一念発起してやった。村総出で、他の山々まで盛大に仮装行列も行った。昭和45年頃で、380年目くらいだったけど、歴史は古いからってことでやったんですよ。一番雪がつもったのはうっとうで2M、ここは1.7~8M。 雪下ろしは大変、年に3,4回(12~3月)。最近は温暖化で一回で済む。





阿仁銅山事務所

山形、青森、北海道、岡山、山口、各地から人が集まったためか、どこかハイカラ、開放的。各地から来た人が建てたお寺から、京都などの文化のつながりがわかる。他との交流が多い地域によく広まっている曹洞宗が、ここでも多い。また過去には隠れキリシタンもおり、わずかながらその痕跡も残っている。明治の頃全国から人が集まって、標準語で話さないと言葉が通じない。だから、阿仁の子どもの言葉はきれい、と言われた。女郎沢、女郎橋、上子沢(あげこばし)などの地名から、遊郭があった裏町の当時をしのぶことができる。すでに焼失してしまったが、和洋折衷の建築物もあった。明治13~15年以前に建てられ、日本建築学史でも貴重なもの。





産業と過疎

戦後一番人口が多かったのは昭和35年で11339、昭和40年で初めて国調(国勢調査)で一万人を割った、9850何人かな、だから45年は九千数百人。そのころ、昭和35年から50年くらいの10何年かで、五年刻みの国勢調査の人口減少率は常にトップだった。二回か三回、それも10%以上の差でトップ。だから過疎としては最たるもの。統計を15年ほどやったが厳しかった。
やはり鉱山で働く人が町を出た。基幹産業だった鉱山と木材製材が、50年代に入って一気に駄目になった。今の人口は4400人くらい。いくらか過疎化には歯止めがかかっているものの、65歳以上の占める割合が秋田県で一番多く、4割近い。秋田県の平均は25~26%。今年の春の阿仁は38か39%。昭和30年代に統計やったとき、4町村合併したあたりでは、年間300人の出生、最近はその10分の1以下。だから自然減はまだ進む。100歳以上の方は4人か5人いる。統計では8000人に一人だというが、今は人口約4000人だから、0.5人のはず。それだけ長寿の町。水も食べ物も空気もおいしいし、人情も豊かだからか。


マタギ

銅で潤った近代的町の一山向こうには、太古の昔の狩猟の村、またぎの集落がある。以前、そこで映画の撮影も行われた。 またぎ社会は身分差別が厳然としてあり、反骨・反発精神が強い。 以前は生活のための手段であったが、日中戦争で安い肉・牙が入ってきて太刀打ちできなくなった。一番の獲物はなんと言っても熊。熊狩りはシーズンが決まっていて、春の残雪と冬の新雪のころ。知り合いの熊狩りの達人が言うには、一対一、一発でしとめるのがまたぎ魂であり、そうでなければ熊に失礼だという。6~7メートルの距離から一気にしとめる。杖になたをくくりつけ、戦うこともあり、そのときは、ねらって振り下ろした瞬間、熊がなたに噛み付き、刃が欠けてしまったという。
彼は今までに200頭以上の熊をしとめ、まだ現役で、ヒマラヤの雪男(イエティ)探検隊に選ばれたこともある。

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■8~10 

●新庄駅

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●阿仁合駅

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●阿仁

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●比立内駅

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●鷹ノ巣駅

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 九嶋カツさん(91)  秋田県鷹巣町生まれ

聴き録り音源 ↓
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―行商を行っていたとき、どんなものを扱っていたのですか?

カツさん:ちゅうなればぁ、やしゃもとか、こんずことか・・・

娘・郁子さん:注文があれば、やしゃもとか、こんずとか。

―やしゃも! 野の軍鶏、つまり比内鶏のことですね!

郁子さん:いや、やしゃもは、野菜のことです。
―あ、そうでしたか。で、「こんず」とは?
郁子さん:こんず・・・「麹」。漬物に使うんです。

カツさん:あど、くだもの、卵、あぶらげ、それから、季節季節の野菜とか、大豆な。やしゃもは、ほうれんそこな。

―随分いろいろなものを扱っていらっしゃんたんですね。どうして九嶋さんは、行商というお仕事を始められたのですか?

カツさん:え?

郁子さん:なして、最初こういう仕事やったかと。

カツさん:う~ん、なしてかって、子です、「すつにん」もおったもの。

―すつにん・・・。あ、7人?

郁子さん:家計を助けるために、始めたんです。

カツさん:なんぼかなぁ、すごしでも楽んにゃいいなぁ~と、そう思ったんだヨ~。

―そうなんですか・・・。九嶋さんのような行商のことを、秋田ではみなさん、何と呼んでいらっしゃるのですか?

カツさん:あぎね。

郁子さん:「商い」のことだっさ。

―ええと、その商いをする人のことは?

カツさん:どげん人?

郁子さん:「あぎね」すっ人。

カツさん:ああ、「あぎねっこ」な。「今日、あぎねっこに会った」というふうにもの。

―「あぎねっこ」ですか。昔は、「あぎねっこ」、九嶋さんの他にも何人かいらっしゃいましたよね?

郁子さん:ばあさん方のみとうに、行商行った人、何十人くらいいであったいな?

カツさん:いたいたいた~もう、ノスロ(能代)のほからも、オダテ(大館)のほからも、なんずうにん(何十人)もおった。


●秋田の地元の人たちは、行商や商いのことを「あぎね」という。行商人このとは「あぎねっこ」。「あぎねっこに会った」と呼ぶ。

●行商で取り扱っていたものは、野菜、卵、果物等注文があれば、麹(ぽんず)、油揚げ、揚げ物、大豆・・・また季節季節の野菜も売っていた。まつたけとかきのこも。とにかくたくさん扱っていた。それらを担いで売っていた。

●注文があれば、何でも取り扱う。材木も扱っていたこともある。秋田杉。一番注文が多かったのは「花」。 特にお葬式用に使う花の注文が多かった。今は葬儀屋がすべて手配するけど。

●昭和30年後半から40年代は、鉱山のピークだった。若い人がたくさん阿仁合に集まり、活気があった。そんな人たちからの注文が多かった。また、荷物を重そうにしていると運ぶのを手伝ってくれる人もいた。

●毎朝、能代の親戚の家で目覚め、午前4時、駅前の市に。そこで、色とりどりの品々を買い求め、汽車へ。鷹ノ巣での乗り換え時に、郁子さんが弁当箱を2つ持参。それを持って、阿仁合線の汽車に。阿仁合行きの汽車は7時40分くらい。

●阿仁合に着くのは、午前9時くらい。駅前の「千草旅館」前にござを敷き、朝ご飯にお弁当をひとつ食べてから「店」を広げる。それから、頼まれた品々を持って、各家に売って歩く。

●始めたばかりのころ話だが、若い人は皆働きに出ていて、家には年よりしかいない。家に金がないので、米で払うということもあった。

●帰りは18時前。19時には鷹巣に。郁子さんに空の弁当箱を返す。能代には9時近くに帰る。明日も早いのですぐ就寝。たいへんな重労働である。それを40年間続けていた。

●お休みの日なんてなかった。日曜日なんてなかった。お盆とお正月は鷹巣の実家に帰るが、後はほとんど能代に住んでいた。実家に夫を残したまま。九嶋さんが単身赴任しているという感じ。

●行商は、仲間4人で始めた。売るときは2人ずつに分かれて歩いた。最初の分け前はひとり7円ずつ。

●どうして、行商になったかというと、九嶋さんには7人の子供がいる。その子たちに食べさせるため、家計を助けるために始めた。

●九嶋さんは、86歳。78歳までやられていた。40歳頃から始められていた。

●昭和40年代は、行商もたくさんいた。能代からの汽車は、行商でいっぱいだった。特に阿仁合には、若い人が集まっていたため、車を使ってくる人もいたほど、それはたくさんの行商がいろいろなものを売りに来ていた。佃煮を売る行商は、自分の頭よりも高く佃煮を積んで売り歩いていた。

●行商をやってきて、汽車が雪で止まるなどのトラブルもあった。そんなときは、とりあえず鷹巣まで帰り、そこで実家や、実家までも帰れないときは駅前の旅館にに泊まった。40年間、阿仁合線は何時間か遅れたことはあっても、止まったことはない。

●九嶋さんは平成4年まで、行商を続けていた。スーパーマーケットの登場により、行商を行う人は年々減り、九嶋さんは日本最後の行商であった。

●行商を辞めたきっかけは、体調を崩してしまったから。3月のある寒い日、朝仕入れを終え、阿仁合向かうときに、具合が悪くなってしまった。阿仁合の駅で倒れて、駅員さんによって秋田の脳研究センターへ運ばれた。蜘蛛膜化出血だった。

●今は、たまに外科病院にいくが、その他は自由にのんびりと暮らしている。日曜日には必ずバスで30分のところにある鷹巣の町の湯之谷温泉まで出かける。

日時:平成12年10月8日
場所: 秋田県鷹巣町

■コメント

カツさん宅には2度訪問した。3度目をいつにしようかと思った矢先、とある電子メールをもらった。それは九嶋さんという見知らぬ方からであったが、文面によって、カツさんのお孫さんであることを知った。あまり知ることのなかった祖母の奔放な暮らしが伝わってきて、たいへん興味深かったとお褒めの言葉をいただいた。しかし、そこで初めてカツさんがお亡くなりになったことを知った。ご冥福を心よりお祈りいたします。

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