■1993年10月6日(水)

931009南近畿周遊券白浜駅


横浜  23:25 銀河
上野原での塾を終えてから、横浜から飛び乗った。

■7(木)
大阪   7:17
天王寺  9:00 くろしお3号
紀伊田辺10:44 →熊野古道 *中辺路

■8(金)
新宮 12:59 スーパーくろしお18号
白浜 14:58
   17:29 くろしお26号
天王寺19:16

■9(土)
奈良 16:31 かすが
名古屋18:45
   19:14 こだま454号
新横浜22:00



熊野古道を歩く

私はいま、新宮行きの特急「くろしお」で紀伊田辺に向かっている。列車は和歌山を過ぎて、海の美しいところを走っているのだが、降りしきる雨は、広い車窓を絶え間なく打ちつけ、雨滴がいくつもの筋をひいている。その向こうに広がっているであろう海原も、白く風雨でけぶって何も見えない。
今日はこれから、紀伊田辺でバスに乗り換え、山中にわけ入る。そこから「熊野古道」とよばれる山道を、一四キロ余歩くことになっている。今回の旅の同行者はHで、中学の頃からの友人である。
 Hは大学院生で、高知市で学会のシンポジウムがあって、その足でそのまま大阪に向かい、今朝方私と合流したのである。
 元来が出不精のHではあるが、私が熊野古道の魅力を何度となく説くうちに、いつしかその気になったようだ。

熊野の山々は、古くから修験道の聖地として、多くの修験者の激しい修行の場であったが、平安時代の末期になると、浄土思想の高まりとともに、皇族、貴族の信仰をあつめるようになった。
 熊野本宮に詣でる――いわゆる「熊野詣」は、歴代上皇の年中行事のひとつとして定着し、後白河法皇の三三回を筆頭に、後鳥羽上皇が二八回、鳥羽法皇が二三回と在任中ほぼ年に一回の割合で熊野に参詣している。ときには、年に二回におよぶこともあり、熊野詣への熱狂ぶりがどのようなものであったかがうかがえる。
熊野参詣の一行は、八百人余の大規模なものから五十人程度の小規模のものまであったが、概ね三百人前後であったという。
 一行は三十日近くかけて京と熊野を往復した。その経路は、京都から船で大坂に下り、そこから陸路で南下し、紀伊半島の海岸線をたどりながら田辺に至った。そして田辺からは、中辺路とよばれる山道を杖を突きながら歩き、ようやく山深い熊野本宮に達した。この道筋を熊野道といい、熊野本宮大社に至る最後の四○キロ余は、ほぼ当時のまま残っている。これが熊野古道である。

降りは衰えないまま、紀伊田辺に到着した。午後一時すこし前であった。雨中行軍は避けたかったが、やむのを待つわけにもいかない。今夜は途中の近露王子に宿をとってあるのだ。それ以上に、こうした大雨の中の山歩きに正直心躍るのだ。ずぶぬれになろうと構わない。
バスの発車までいくらもないのだが、買いそろえなければならないものがある。駅を出たところにコンビニエンスストアがあったので、小走りでかけ込んだ。そこで、雨ガッパ、ミネラルウォーターのペットボトル、黒いゴミ袋などを買い、バスに乗り込んだ。
 車内には、お年寄りばかり十人ほど乗っていた。それ以上乗る人もなく、バスは定刻に発車した。
田辺の市街を抜けて、紀勢本線の線路を跨ぎ、バスは富田川に沿った国道を走る。ワイパーだけがせわしなく行き来する。乗客たちのおしゃべりもどこかしらくぐもっている。
三十分で「滝尻」に着いた。バスは雨を巻き上げながら走り去り、谷間のバス停には、私とHだけが取り残された。
すっかり川幅のせばまった富田川は、山々からあふれ出した流れを集めてのたうちまわり、白い飛沫をあげていた。この川にかかる橋を渡ったところが滝尻王子で、そこには屋根付きの休憩所があった。
「すごい雨だね、こんなときに登ってもだいじょうぶ?」
 Hは不安げである。
「雨だけだからたいしたことないよ、それに西の空がいくらか明るくなってきたし、そのうち止むだろ」
「そうかな・・・」
滝尻王子の「王子」とは、熊野道の要所につくられた小祠の総称である。この王子が大坂から本宮までで九十九あるという。そのなかでもとくに、この滝尻王子は熊野の霊域への入口であるとされる重要な王子で、じっさい、これまで平坦であった熊野道は、ここを境に峻険な山道に変わる。
滝尻王子の休憩所で身仕度をととのえた。ジーンズを半パンにはきかえ、リュックサックを黒いゴミ袋でおおい、それを背負った上から雨ガッパを着た。駅で買った「さんま寿司」で簡単な昼食をとり、午後二時、熊野の霊域に踏みだした。
滝尻王子の祠の脇から山のなかに入って行く。苔むした石段が奥へと九十九折りにつらなっている。滝尻王子からしばらくは、きつい坂道であると聞いていたが、私の予想をこえたものであった。これは、まぎれもない登山道である。額を流れる雨滴もほどなく玉の汗に変わっていた。Hも後から黙々とついてくる。お互い息せき切っているので、交わす言葉もない。
不寝王子は、そんな急坂の中腹にあった。石碑が立つくらいで、雨をしのげるような場所ではない。足元がぬかるんでいて、座り込むこともできないので、足を屈伸したり、水分の補給くらいしかできない。
 私はリュックだからまだいいが、Hは肩掛けのバッグなので、ずり落ちそうになっては、背負いなおしているので気の毒である。
「それにしても重そうなバッグだねぇ、何入っているの?」
「発表で使ったスライドとか本とか入っていてとても重い。駅のコインロッカーに入れてこようと思ったんだけど、すっかり忘れていてね」
「しょうがないね、そんな物持ってこの道を歩いたのは、熊野古道千年の歴史で初めてだろうね。いらないもの捨ててしまえば?」
「これは捨てたらまずいよ。そうだね、マンガは捨てようかな?」
 そう言うと、Hはバッグの中から次々とマンガ雑誌を取りだした。四冊も持っていたのか――。


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滝尻王子を出発して三十分あまり、ひたすら急な山道を登り続けてきたが、ようやくひと息つけるような平坦な道になった。路傍で、山百合が木立から落ちる滴にうたれている。うす暗い林道のなかにあって、山百合の白はじつに映える。これまで、足元ばかりに気を取られていたので、周囲に目をやる余裕はほとんどなく、こんな小さな感動とはまったく御無沙汰していた。
そこから飯盛山の頂を左にして、等高線に沿った道をしばらく歩くと尾根に出た。一度に視界が開けた。雨にけぶる山々がまさに重畳と連なっていて、じつに美しい。左下は栗栖川の集落で、立ちこめる靄の向こうにぼんやりとうかがい見ることができた。学校のチャイムが聞こえてきた。時計を見ると三時であった。こういうとき、日常生活との距離をあらためて感じる。
高原という集落にさしかかった。一度は小降りになった雨足はふたたび強くなって、民家の屋根をうちつけている。この雨降りのせいであろうか、声ひとつしない。軒先の鶏小屋のチャボだけが、せわしなく餌をつついている。
高原は文字どおり、山の高台に位置する集落で、かつては、熊野道の旅篭場として栄えたところだ。集落の中心には、高原熊野神社という古い社があって、大きな楠の老木が見おろす境内には、緑に苔むした桧皮葺きの社殿が鎮座している。熊野道中でもっとも古い神社建築であるという。
高原から今夜の宿泊地である近露までは、ひたすら山のなかである。中世には、一般民衆のあいだで、「蟻の熊野詣」とよばれる熊野参詣ブームがおこり、蟻の行列のように、沿道は参詣者でひしめいたという。当然、そのための旅篭や茶屋がいくつもあったが、それも消え去り跡形もない。いまでは、生活道路としての役割をも終えて、天気のいい週末くらいにしか人通りはない。それを裏付けるかのように、高原の集落のはずれの古道の入口には、次のような立て札があった。

古道散策のみなさまへ

 ここより近露王子までは民家がなく
  連絡の方法がありません。
所要時間は約4時間かかりますので、
  出発にはお気を付け下さい。

       中辺路町消防団
       中辺路町観光協会

杉の美林のあいだに切り開かれた道は、きれいに石が葺かれ、鬱蒼とした森のなかにゆるやかな傾斜でのびていた。いかにも、熊野古道らしい光景である。ところが、このような苔むした石葺きの道は、たいてい山の入口の部分的なものであって、すこし歩けば、落葉が積もり、木の根が這いだした小径になる。そこに、山の斜面から雨水がしみだし、小さな流れをつくる。こんな道を歩いていると、渓谷を遡行しているような気分になる。
サワガニの姿がところどころに目につく。近付くと小さなはさみをたかだかとふりかざし、私を威嚇する。手にとってみると、手足をいそがしく動かして逃れようと必死である。それにしても、まったく汚れのないピンク色をしている。これは、環境によるものなのか、それとも、時節によるものなのだろうか。
サワガニを踏まないよう注意しながら歩いているうちに雨足はしだいに細くなり、十丈王子に着くころにはすっかりあがった。山の鳥がところかしこで鳴きはじめた。とりわけウグイスの声は、雨上がりの山によく響いた。麓からは靄が立ちこめてきて雲海のようである。山道にもだいぶ慣れてきて、わかりもしないが、樹相や植生に目を向けながら、雨上がりの山道を楽しんだ。

時間を意識しないでしばらく歩いていたため、途中、悪四郎屋敷跡を過ぎたころには、時刻はすでに五時をまわっていた。この時期、いくら日が長いとはいっても、六時半をまわれば、足元がおぼつかなくなる。これから近露までまだ六キロもあるのだ。峠は越えてこれからは下るだけとはいっても、街灯も何もない森は、刻一刻と闇におおわれてゆく。急がなければならない。
 半端な速さで坂を下りると、かえって足が笑ってしまうので、まとまった坂道は一気に駆けおりた。這い出した木の根や石をうまく捉えながら無心に駆けおりて行くうちに、小さな沢があらわれ、進むうちにそれは谷川になった。道もしだいに落ちついてきて、なんとか明るいうちに着けそうである。
 高い木立の黒い梢越しにうすく紅のさした空が見える。水気を帯びた草木は、その薄い日をうけて黄昏ている。こんな暗い木立のなかを歩いていると、視点が定まらなくなる。背後や茂みのなかから視線を感じるのもこんなときだ。
 昔話などで、塩引きの魚を積んだ牛をひく牛方が妖怪に出くわすのはこんなときなのだろうと思う。また、日没とともにあらわれる狼の群れや山野に跳梁する追剥はしばしば旅人の命さえも奪った。
 そのむかし、旅は死と隣あわせであったとこれまでよく耳にしたけれど、これほど現実味をもって感じられたことはなかった。こうしたことを仮想体験できるのも熊野古道の魅力である。

 大坂本王子を過ぎて、黒い魚影がかすめる谷川に沿ってしばらく行くと国道に出る。それを渡ると道はふたたび山のなかにはいり、ひとしきり坂を登ったところが、箸折峠である。
 そのむかし、花山法皇が本宮へ向かう道中、ここで弁当を広げたが箸がなく、柴を折って箸にしたという故事があり、そこから箸折峠とよばれるようになったという。またこのとき、その柴から赤い露が出たので、法皇は「これは血か露か」と言った。これより、この地を近露とよぶようになったという。
 この故事にちなんでか、ここには花山法皇の旅姿を模したという牛馬童子像がある。牛と馬にまたがる僧服の童子をかたどった、膝くらいの高さしかないかわいらしい石像である。
 この童子像のモデルが「法皇」であるとは、腑に落ちなかったが、調べてみると、熊野行幸は、花山法皇が二十歳前後のころのできごとであることがわかった。『今昔物語』に描かれるように、花山天皇は、藤原氏の謀略で、若くして退位、出家させられた。熊野参詣はその直後のことであった。若い法皇は、熊野参詣に何を求めたのか、なんとも興味深い。
 この童子像の背後には役行者像がある。この石像のモデルは、修験道の開祖とされる役小角である。皇族、貴族の熊野とは異なる修験道の聖地としての熊野がここに見てとれる。
ここから近露王子までたいした距離はない。いましがたまで茜色に染まっていた空は、にわかに暗くなり、足元がおぼつかなくなってきた。近露の集落に入る最後の下り坂は、これまでの道程よろしくきれいに石が葺かれていた。昔の人が草鞋で歩くには適していたのかも知れないが、私のはいている靴底の厚い登山靴ではすべってしかたがない。私は小股で小走りに駆けおりなければならなかった。
国道との合流点にある茂みで、じいさんが竹の子をとっていた。五時間ぶりに人間を見た。じいさんは「この雨のなかをたいへんだったね」という意味の言葉で私をねぎらってくれた。
暮れなずんだ日置川の向こうに、こんもりとした近露王子の森の黒いシルエットが見える。行き交う車のヘッドライトがひどく眩しい。
 大きな水たまりのできたうす暗い敷地内には、さすがに主要な王子だけのことはあって、石碑や案内板がいくつも立っていた。それらに目を凝らしているうちに、すっかり日は落ちて、何も見えなくなってしまった。
 道に出ると、向こうから提灯の灯がただよってくる。宿のばあさんであった。

 ぬるま湯がはいった盥で足をすすいでから、二階の座敷にとおされた。平日でこの雨だから、ほかに客のあろうはずもない。好きな部屋にしろというから、川に面した広い部屋を選んだ。
風呂からあがり、膳についた。食事は、おそらくこの辺りで採れたであろう山や川の味覚ばかりでとてもおいしい。私はめずらしく二回もおかわりした。ビールを飲みながら、ばあさんとひとしきり話しこむうちに、どっと一日の疲れがでてきた。酒を冷やで一本頼んで部屋に戻った。
地図をながめながら、今日の行程を振り返る。感動は鮮やかなうちに記録しておかないとあせてしまう。手帳にこまごまと綴るうちに杯は重なる。陶然としてきたので、明りを消して横になった。
遠く河鹿の声が聞こえる。

翌朝、目が覚めると、空はきれいに晴れわたっていた。二日目の今日は、熊野古道後半の二四キロを歩いて、熊野本宮に到達する。八時間もかかるという長丁場である。
ところが、足の裏に水ぶくれができていて、歩くとひりひりする。それに、足の筋も張っている。こんなことになろうと予想していたが、いざなってみると、気力までが萎えてしまうものである。
朝御飯を食べて、午前八時、ばあさんの見送りをうけてさっそうと歩き始めた。
 ここから小広王子までの約六キロの間、古道と国道はほぼ併行している。熊野古道と国道の相関関係は、眼鏡のフレームに例えればわかりやすい。つまり、滝尻王子から近露王子までが、左のレンズの上縁が国道、下縁が古道に相当し、そこから小広王子までが、鼻にかける部分で両者共用している。そこから本宮にかけてふたたび分かれ、先とは逆に、上縁が古道、下縁が国道で、そこにはバスが走っている。
そういうわけで、しばらくの間、考える時間がある。道すがら結論を出すことにしようと思う。
車道といえば、走り抜ける車と立ちこめる排気ガスを連想してしまうが、このあたりの車道はきわめて交通量が少ないので、車におびえることもなく、新鮮な空気を吸いながらの快適な散策が楽しめる。
 山々は、たっぷりと水気を含んで、緑がいちだんと濃い。ところかしこから、鳥のさえずりが聞こえてくる。背後の梢から、谷底の渓谷から、向こうの峰から。音に広がりと奥行きがある。
野中の清水、一方杉、継桜王子、秀衡桜などの名所をながめながら、ゆっくりと歩いていると、杖をつき桧笠をかぶった夫婦が、道ばたで休んでいるのに出会った。私はかるく会釈をしてやり過ごした。
じつに快適な散策なのだが、足が痛むし昨日の疲れが抜けきらない。それ以上に、本宮の近くに湧きでる温泉の誘惑が、この怠け心をいっそう煽るのだ。
 まず、湯ノ峰温泉は、熊野参詣の湯垢離場としてふるくから親しまれてきた温泉で、皇族や貴族も本宮に参詣した後に立ち寄った。長い歴史に培われた温泉場である。一方、渡瀬温泉は、キャンプ場などを整備したレジャーランド的な色彩が強い現代的なもので、近畿一の露天風呂があることで知られている。そして、川湯温泉は、その名のとおり、川原を掘れば湯が湧きでるというたいへんユニークな温泉で、仙人風呂という河川敷につくられた巨大な露天風呂で有名である。
今後の身の振り方をあれこれ考えながら歩いているうちに小広王子に着いた。近露を出発してから二時間が経過していた。ここで古道は国道と分かれ、深い山のなかへ延びてゆく。私は多少ためらいながらも、古道に別れを告げ、国道を歩き始めた。いま頃、近露を熊野本宮行きのバスが出たことだろう。バスに追いつかれるまで歩いてみようと思う。
谷底に四村川の渓流が見える。歩くほどに道と渓流との距離はせばまって、道路の脇を流れるようになったので、私は川原に降り立ち、手ごろな岩に腰掛けた。重たい登山靴を脱いで、素足を流れに浸すと、火照った足にじんじんとしみる。冷たい水だ。
 しばらくそこで休んでから車道にあがった。歩き始めて間もなくすると、後ろからバスがやってきた。
乗客は私のほかに、おばさんがひとり乗っているだけであった。二十分ほど乗って、湯ノ峰温泉で降りた。
川の両側から山がせり出し、そのあいだのわずかな平地にしっとりした温泉宿が軒を並べている。川原には湯が湧出していて、ゆかた姿の宿泊客が、ネットに卵をいくつもいれて、湯に浸している。
そのすぐ上流には「つぼ湯」とよばれる温泉がある。この湯は一日七回、湯の色が変わることで有名で、近松の浄瑠璃などにでてくる小栗判官が、この湯で蘇生したことでも知られている。また、癩病によく効くようで、かつては、その療養のための熊野参詣者も数多くいたという。
つぼ湯そのものは、岩窟に湧きだした小さな湯で、ひとり入ればいっぱいになってしまう。湯の色に注意しながら入浴してみたが、それらしい様子はみられなかった。
湯からあがると、空は暗く、雲が低く垂れこめていた。川のたもとにあるベンチで涼みながらバスを待っていると、細い雨が降ってきた。湯上がりの火照った体に気持ちいいので、しばらくそのまま雨にさらされていたが、しだいに降りが強まってきたので、御堂のひさしの下に避難した。
山峡の温泉には、雨がよく似合う。ぼんやりと雨の降るのをながめていると、あわただしい日常からどんどん遠ざかる。こういう時間が記憶に強く焼き付くのだろう。
疲れた足を投げ出し、雨をながめた。きのうからよく雨に見舞われてきたが、これは私が雨男というわけでも、台風が近付いているわけでもない。この熊野は、もともと雨の多い土地なのである。熊野の山々に黒潮が運んできた暖かい風がぶつかると、それがことごとく雨となり、熊野の森に降りそそぐ。熊野の深い森は、この雨がつくったといってもいい。

熊野道の後半は間引いた上に、参詣前に湯垢離などして順番が逆になってしまったが、午後二時半、ようやく熊野本宮にたどり着いた。
 ところで、私がここでいう「熊野本宮」は「熊野本宮大社」と区別したい。というのは、熊野本宮はもともと、熊野川、音無川、岩田川が合流する中州にあったからである。それが、明治二二年八月の大洪水で、本殿の一部を除いてすべて流出してしまい、現在の社殿はその後に、上流の山の中腹に移築されたものなのである。
 この旧社地はこんにち、大斎原とよばれている。昔はこの地に、現在の八倍もの規模の社殿が甍を連ねていて、上代にここを訪れた法皇をはじめとした宮廷の人々は当然のことながら、この大斎原の本宮を目指した。こういうわけで、私は現在の熊野本宮大社に行く前に、大斎原を表敬訪問することにした。
山に囲まれた本宮の町のなかでも、大斎原の森はひときわ緑が濃い。音無川の静かな流れにかかる橋を渡り、鬱蒼とした木立のなかに延びる道を歩く。深い森のなかに迷い込んで行くような道だが、木立はすぐに切れて、そこは樹木に囲まれた広い野原であった。昔を偲ばせるものといえば、旧大社のものと思われる礎石が草花のなかにいくつか残るくらいであった。天井が抜けたような空の明るさがじつに印象的だった。
 大斎原を後にし、本宮大社に向かう道すがら、十津川方面に行くバスがやってきた。このバスに乗れば、伏拝王子の近くまで行けそうである。
 伏拝王子は、大斎原から四キロほど熊野道沿いに戻ったところにある、熊野古道第十七番目の王子である。滝尻、近露につぐ知名度をもつこの王子は、熊野詣での人々が、そこから本宮大社を伏して拝んだことに由来するという。熊野古道最後の通過点ともいえるこの王子から本宮まで歩いて、キセルではあるが、踏破したような気分になろうと思った。
十分ほど乗って降り立ったバス停は、川のほとりにあって、伏拝王子のある峠は、地図でみれば近いのだが、高低差は百五十メートルもあった。いちど湯につかってふやけた体には、なんともつらかった。
 やっとの思いでたどり着いた伏拝王子からの眺めは、やはり雄大であった。旧社地の森が山の狭間に遠望できた。来てよかったと思う。
この伏拝王子には、和泉式部の供養塔なるものが立つ。これについては、次のような故事がある。
 和泉式部が熊野参詣の一行のひとりとして、ここまで来たときに「月のさわり」となった。これでは本宮に詣でることはできないと思い、その無念さをつぎの歌に詠んだ。

晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき

するとその夜、夢に熊野権現があらわれて、

もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき

というお告げがあったので、無事参詣することができたという。
 熊野権現の懐の大きさを宣伝するエピソードとして広く知られるが、真偽のほどは定かではない。それにしても、和泉式部は弘法大師に劣らず、この手の話に事欠かない不思議な人である。
伏拝王子からの道は、傾斜のゆるやかな下り坂で歩きやすい。路傍に後白河上皇の歌碑が立っている。歌会などを催しながらの優雅な旅すがたが目に浮かぶ。熊野参詣は多分に物見遊山としての性格も強かったのであろう。信仰だけでは、あれだけの回数をこなすことはできないように私は思うのだが。
山道をしばらく下ると、きれいに石が葺かれた道になった。これは大社が近いことを表している。案の定、その森からまもなく抜け出て、石塀越しに古色蒼然とした本殿の横顔が見えた。かつては、このまま大斎原にある本宮大社の表玄関に直結していたこの熊野道も、いまでは、さしずめ勝手口のようなものである。本殿の裏手から白い玉砂利の境内にはいれば、大型バスで来た観光客は、山のなかから迷い出てきたような私に驚いて、ちらちらと目を遣る。熊野古道は、その名の通り「古の道」なのである。
神社の太鼓が五時を告げた。

今夜の宿は、本宮大社の「瑞鳳殿」という宿泊施設である。ひらたく言えば、宿坊の神社版である。二階建ての簡素な建物である。十畳もある広い座敷には、寝具とテーブルのほか何もない。それは何ら問題ないのだが、意外と落ちつかないものだ。
 食事と風呂をすませて、談話室で雑誌をながめていたら、玄関の大きな扉が開いた。昼間、古道で追い抜いた老夫婦であった。思いがけない再会を果たし、しばし歓談した。話題はどうしても、古道散策のことになる。
「いつころ着きはったん?」
「五時過ぎくらいでした」
「やっぱり若い人は、足腰が強いですな」
「いえいえ、昨日も雨のなかを歩いたので、足の筋が張ってしかたないのですよ」
「それじゃあ、さっきの三越峠でしたか、あの下りはしんどかったのとちがいますか」
「あ、そうでしたね、あの辺りはきつかったですねえ」
いまさら、途中からバスに乗って、湯ノ峰で温泉につかっていたとも言えず、苦し紛れに話を合わせるほかなく、まったく閉口した。さらにこの老夫婦は、今日の完踏に加えて、きのうの雨のなかも私と同じ道を踏破していたことがわかり、孤高の旅人の境地に陶酔していた自分の臆面の無さを披瀝することとなった。
宿泊客は私たち三人であった。
読んでいた本に飽きたので、缶ビールをもとめて玄関を出た。まだ八時過ぎだというのに、あたりは森閑として闇夜の帳が降りていた。本殿へ続く長い石段に立つ無数の幟が夜風にはためいている。ひと雨来そうである。部屋に戻り寝床にもぐると、いくらもたたず、夜の雨がトタン屋根をパラパラとたたきはじめた。

翌朝、目覚し時計のアラームで目を覚ました。時刻は六時であった。襖を開けると、おそらく、ゆうべから降り続いていたであろう雨が庭木をふるわせていた。
今日はこれから新宮に出て、熊野速玉大社を参詣し、そのあと、紀伊勝浦に向かい、熊野那智大社に詣でる。熊野本宮を含めたこの三社に詣でることを「熊野三社詣で」といい、かつての皇族、貴族のお決まりのコースであった。私もこの順にならって参拝し、熊野の霊験をあらたかなものにしたい。それに、きのう訪れた大斎原の森を今朝も歩いてみたい。
六時半に宿を出た。大斎原への近道は、田んぼのなかの畦道であった。両側に広がる水田の稲はまだ青く、降りしきる雨にうたれて搖れていた。朝の早い蛙が疎らに鳴いていた。
 森に入ると、どこか支柱を失ったような、それでいてさわやかな空間が広がっていた。簫々と降りしきる雨が趣を添えたのだろうか、今朝の大斎原はいよいよ厳かであった。
町外れから新宮行きのバスに乗り、約一時間で新宮市街に入った。速玉大社は、熊野川のほとりの森のなかにあった。鮮やかな朱塗りの社殿が、雨景色のなかにみごとに調和している。色あせた木造建築が魅力的な熊野本宮とは好対象をなしている。
 境内には大きな梛の木がある。見るからに、齢をかさねた老巨木である。この木のことが、岩手県の民謡「南部牛追い唄」に唄い込まれているという話を新宮まで来るバスの運転手さんから聞いた。

こんど来るときゃ
もってきてたもれ
おくの深山の
なぎの葉を

これは「南部牛追い唄」の二番であるが、ここでいう「なぎ」が速玉大社の梛を指しているというのだ。つまり、陸奥の牛方が紀伊から来た商人に今度来るときには速玉大社の梛の葉をもってきてくれ、と頼んでいるのだ。葉になにか御利益があったのだろうか。それはともかく、陸奥と紀伊の間にかつて頻繁な往来があったことをうかがわせる。
 東京や大阪を中心とした交通網のなかに地方都市が組み込まれてしまったこんにち、岩手と和歌山という組合せに我々は腑に落ちないものを感じるかもしれないが、川や海が交通や流通の主要な媒体であった時代には、新宮の沖合いをうねる黒潮にのれば、三陸の海岸まで造作なく行けたのかもしれない。
そういえば、新宮には徐福の墓があるという。徐福は、一見、日本人の僧侶のような名前であるが、じつは、紀元前三世紀ころの中国の方術師である。彼は秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の薬を求めて船出した。徐福はその後、新宮に漂着して、ここで生涯を終えたという。その真偽はともかくとして、新宮がふるくから、海洋交通の要衝であったことをこんなところにも見て取れる。
そんなことを思いながら、速玉大社を後にした。
 中上健次の小説によると、この速玉大社の周辺に遊廓跡があるようだが、どこなのかわからなかった。しかたがないので、私は浮島の森に向かった。
浮島の森というのは文字どおり、島のように水の上に浮いた森である。そのメカニズムは、地中から湧き出すメタンガスによると説明されているが、私にはよくわからない。観光案内によると、島の地表で強く足踏みすると、島全体が揺れ動き、強風にあおられて移動し、水位にしたがい昇降することもあるのだという。
まったく得体のしれないものだと言わざるをえない。
行ってみると、浮島の森は私の予想していた以上に大きかった。
設置された木道で島のなかに踏みいると、鬱蒼と繁った草木の間に、やわらかな泥の溜りがあった。これは「蛇の穴」とよばれ、上田秋成の『雨月物語』の「邪性の淫」にちなむものだと説明されていたが、そういう話はなかったように思うのだが。
 島の管理人のおじさんの話によると、沼の深さは三○メートルにもおよび、これまでにも、不注意に足を踏み入れて、一気に肩まで沈んだ人が何人もいるという。あやうく、周りの人に引っ張り出されたというのだが、いまこの島には、私ひとりしかいない。この沼に、人知れず消えてしまった人もいるのだろうか。うす気味悪くなったので、そそくさと退散した。

那智山に行くために、新宮駅から鈍行列車に乗った。下車した那智駅は、海の上につくられたような駅であった。かつては、那智山を訪れるひとびとで賑わったことを、天井が高く待合室の広い社殿風の立派な駅舎が物語っている。
 だがいまは、ひと気のない無人駅である。駅員事務室が廃屋のように、ガランとしている。駅前には、タクシーが数台、客を待っていたが、無人の改札から出てきたのは私と高校生ひとりだけであった。
駅の近くには、補陀洛山寺という小さな寺がある。
この寺の名にある補陀洛とは、はるか南海の果てにある観音の浄土のことである。かつて、渡海上人たちは、ここから、釘で打ちつけられた箱船にのり、補陀洛へと旅立っていった。彼ら渡海上人の墓は、長い年月のなかで風化し、境内の片隅で雨にうたれていた。
それから那智駅に引き返して、那智山行きのバスに乗った。雨ははしだいに降りを弱め、山ひだから靄が立ちはじめた。つづら折りの坂道を右に左に揺られるうちに、那智山のバス停に着いた。
おばさんのグループが嬌声をあげながらみやげ物屋を物色したり、記念写真を撮ったりしている。そんな善男善女の行き交う急な参道をひとしきり登ったところに、熊野那智大社の大きな鳥居が立っていた。
 社殿は美しく朱で彩られていて、目に鮮やかである。一方、隣接する青岸渡寺は色あせた枯れぐあいが趣を添え、西国巡礼の第一番札所として、那智大社に従属することなく泰然としている。
 青岸渡寺の境内から那智の滝を遠望する。宿坊の屋根が連なるむこうの朱塗りされた三重塔が背後の緑のなかにきわだっている。
峰々にわきたつ靄は、樹木の息ぶきを思わせる。昔の人はそこに山霊の存在をみとめたのだろうか。立ちこめる霊気は、熊野の深い森に降りそそぎ、そこで収斂され、那智の滝の怒涛を生む。那智の滝のありがたさはそこにあるのだと思った。