上から目線に「憐れみ」が加わったら最悪だ。
(ああ、そうなのですね。お気の毒さま。意識が高くなったら、そのうちわかりますよ)という、相手の未熟に理解を示してやったような、上からの眼差しだ。「藤野目線」にさらされるたび腸が煮えくり返ったものだ。
以下は、神学者・高橋御山人氏(当財団評議員)の論考だ。あの不快で侮辱的な「藤野目線」の正体は、酩酊した万能感だったのだ。
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〈寄稿〉「万能感」を戒める「倫理観」を〜高橋御山人

盛池塾長と「藤野」について話すうち、問題の主役たる親達は高学歴で、藤野の親達と同じ問題を持ってたという塾長の両親も高学歴であり、「高学歴親」特有の問題があることが浮き彫りになった。

そして、そこに共通するのは、親達の「万能感」だということも。

親に限らず、高学歴というものは、人に「万能感」をもたらしがちだ。現代社会においては、高学歴であることが「人生の勝者」であるように言われて来たのだから、当然と言えば当然である。

いい大学を出ていい会社に入る(あるいは官僚になる)、それが「上流階級」参入の為のパスポートとして広く喧伝され、事実そう機能して来たことは、今更言うまでもない。

いや、かつての社会においても、そうであった。因果が逆のところもあるが、高等教育機関への入学は、そもそも「上流階級」でなければ難しかった。少なくとも、経済的な余裕が必要であった。

一方で、近代以前の社会においては、高等教育機関は基本的に宗教に付随したものであることが多かった。玄奘三蔵が仏典を求めたナーランダ大学は、世界最古の大学の一つと言われる。中世ヨーロッパで至高の学問とされたのは神学だ。

しかし、宗教というものは、「万能の神」を認めることはあっても、それを信じる人間自身を万能とすることはない。むしろ、人間自身が自分を万能と錯覚する事を戒める。人間自身が万能であるなら、信仰というものが生じる余地はない。

無論、いにしえにも、己を万能と錯覚する宗教者は少なからずいただろうが、少なくとも、表立って振りかざす事は出来なかったし、余程の不心得者でなければ、信仰は少なからず己が万能感を抱く事を抑制する「重石」となったことだろう。

また、近代以降の社会であっても、例えば日本の近代黎明期には、「公への貢献」──故郷や母国の人々の暮らしを良くしたい、といったような目標の為に大学へ行くのは、珍しいことではなかった。

才能があるにも関わらず、経済的に恵まれない少年少女の為に、郷土の「上流階級」が、これを支援するということも、よく行われた。それは、郷土や母国繁栄の為の「投資」だからだ。

このような「公への貢献」「郷土への貢献」という意識は、宗教的倫理観とよく似ている。神道のような氏族・郷土に根差した宗教にあっては、信仰の核心とさえ言える。

それは神道が「氏神さん」を重視することでも分かる。氏神とは古くは名の通り氏族の祖神であり、かつて同一集落内の居住者は基本的に同一氏族とその係累だった為、郷土の守護神を意味するようになった。

だから、「公への貢献」「郷土への貢献」もまた、己が万能感を抱く事を抑制する「重石」となっただろう。己の万能感に酔っていては、郷土や母国の繁栄など覚束ない。

西洋も驚くトンネル技術によって掘られ、日本初の水力発電、日本初の市電をもたらし、遷都に伴って衰退しつつあった京都を復興させた琵琶湖疏水は、21歳の若さで抜擢された田辺朔郎が設計したものであり、彼はまさに神の如き能力を発揮したのだが、その万能感になど酔っていただろうか。

かつて、高度な知識は、高度な倫理を伴っていたのである。必ずという訳でもないが、高等教育機関への進学に宗教的倫理観が付随する状況が、現代よりもはるかに多く、高度な知識を持つ事で、過度な万能感を持ってしまう危険が、ある程度回避されていたように思う。

知識とは武器である。それは己や己の属する社会の未来を切り拓く武器となるが、使い方によっては、人の未来、己の未来をも破壊する武器ともなる。高度な知識は、大量殺戮兵器ともなり得るのだ。核兵器も毒ガスも、高度な知識なしに作る事は出来ない。

高度な知識は、高度な倫理とともにあるべきである。高学歴は、高倫理とともにあるべきなのだ。

初等から高等まで、多くの教育機関は、校訓などに倫理的内容が含まれていないということはまずない。それは、もちろん単純に社会の成員となる為の倫理教育という意味もあるだろうが、同時に、知識という刀を授ける際に、同時に倫理という鞘をも授ける必要があるからなのではないだろうか。今では名目だけとなり、教育者自身その理由を分かっていないことも少なくないだろうが。

高度な倫理が伴わず、高度な知識だけ持ってしまった、高倫理が伴わず、高学歴だけ持ってしまった極端な例が、連合赤軍であり、オウムということであろう。

オウムは宗教であるが、ここで言う宗教的倫理観が欠如していたことは言うまでもない。連合赤軍とて、理想社会の実現という一種の宗教的目標があったはずだが、それに見合った倫理観は欠落していた。

もっと踏み込めば、近代に至り「神は死んだ」と叫ばれた後、高学歴者達の倫理不在が、二度の世界大戦のような愚行を産んだとさえ言い得る。

無論、近代以前にも悲惨な殺戮はいくらでもあった。しかし、知識(とその結晶としての技術)自体がそこまで高度でなく、それを持つ人も少なかった為に、世界大戦のような同時多発的大量殺戮はなかった。

そして、危険な武器たる高度な知識を持つ者が、己の叡智を際限なく殺戮に資するというようなことも少なかったが、それは高度な知識とセットであった、高度な倫理観が「重石」となった影響もあるだろう。宗教教団が営む高等教育機関で、大量殺戮技術を研究することは、少なくとも表向きは憚られたのだから。

そもそも、いかに「上流階級」やその支援を受けた人々であっても、現代のような高度な文明に囲まれていなかった人達が、現代人ほど過剰な万能感を持つはずがない。貴族であっても、容易に伝染病に倒れる時代もあったのだ。

人類が持つ知識は、高度化する一方である。だから、それに伴って万能感を持つことを抑制する倫理観を、高等教育で授けるべきだろう。

その為に、人の子の親が万能感を持たないようにすることは、言うまでもない。繰り返しになるが、倫理観の欠如した高学歴者が過剰な万能感を持った結果が、連合赤軍やオウムなのだ。

彼らは、自分が万能と錯覚し、世界が自分の理想と異なるのを見て、一足飛びに己の理想を実現しようとした。それは安易である。

人は万能ではない。だから、人の世も完全ではない。己が理想が必ずしも良き結果をもたらすとは限らず、信念を持ってはいても絶えずそのチェックは必要で、さらに、その理想を実現するにも、長い年月がかかる。

社会的な理想を実現するというのは、簡単なことではないのだ。どこか「理想郷」に行けばそれが実現するとか、金を出せば簡単に買えるとかいうようなものではない。残酷なことかもしれないが、「藤野に行けば理想が叶う」とか、そういった安易なことではない。

子供の教育とて同じである。人は不完全であるから、親も不完全であり、子も不完全である。一足飛びに理想が実現する事はなく、「理想郷」に行けば理想の子が育つとか、金さえ出せば理想の子になるとか、そういうことはないのだ。長い時間をかけ、どこまでも本心で向き合う、それ以外にあるまい。

企業においてさえ、最重要なことは構成員が「腹を割って話し合う」ことだと、海外の著名なコンサルタントが指摘している。それさえ出来ればそもそもコンサルなど必要ないと。いわんや、親子においてをや。

さて、蛇足ではあるが、二十二世紀志向の当育英会としては、末尾に未来志向の話を一つ。

高度な知識に高度な倫理が伴うべきなら、AIも高度な倫理を伴うべきであろう。事実、現在開発中の自動運転では、緊急時に何を優先すべきかというテーマが重要な検討事項となっている。これなど見ても、高度な知識に高度な倫理が伴うべき証左と言えるだろう。

AIですら、不完全な選択肢しかない状況に追い込まれ、倫理を必要とする。そんな時代に、人間程度の知能で、万能感に酔っている場合ではない。