北朝鮮に民主主義があれば、わざわざ朝鮮「民主主義」人民共和国と主張することはあるまい。
ひょっとしたら、自由ヴァルドルフ学校(シュタイナー学校の本場ドイツでの呼称)の「自由」についても、それがいえるのではないか。
シュタイナー教育では「自由」が高らかにうたわれる。藤野のシュタイナー学校のサイトにも、次のような一文がある。
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子どもたちが、外側からの権威や価値にもたれかからずに、自分で考え、自分の感情を膨らませ、自分の意志を行動と結び付ける「自由」をもった大人になれるように育むこと。これが《自由への教育》です。
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この理念を体現しているのは、他ならぬ私だ。
〈自分で考え、自分の感情を膨らませ、自分の意思を行動と結びつけて〉日々「藤野論」を展開している。これは〈外側からの権威や価値〉との対峙なくしてはなし得ない。
シュタイナー教育の目指す「自由をもった大人」の私であるが、シュタイナー教育の標榜する「自由」には首をかしげてしまう。
次の一文を読んでいただきたい。先ごろ配信されたシュタイナー学園のメルマガからの抜粋だ。
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私が「こんなに先生が子どもを一人ひとり見てくれて、自由な学校はないよ」というと、(注:娘は)「もう自由はいらない」と言い放ち、他の高校に進学を決めました。
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シュタイナー教育のいう「自由」とはいったい何を意味するのか。「もう自由はいらない」と言い放った少女にとって「自由」とはいったい何だったのか。
シュタイナー教育における「自由」とは、ひょっとしたら「覚醒」や「解脱」のような、宗教的ステージを指すのかもしれない。
導師「覚醒すれば〈自由〉になれるのです。そのためには、今こそ気持ちをたしかに持たなければならないのです」
少女「もう〈自由〉なんていりません。お願いだから、ここから出して」
こんなシーンを妄想してしまったw
かくして、この少女は「自由」を獲得した。〈自由〉から逃れて、今ごろ真の自由を満喫していることだろう。
こんな時、つくづく女は強いなと思う。行動が一直線だからだ。少年だったら、そこまでの果敢な行動はとれないだろうな…。だからこそ、私は藤野少年を憂える。藤野少年に光あれ!