「急に集中力がついてきて、子どもが片っ端から本を読み始めました」――こんなシュタイナー学校の体験談を最近読んだ。
だがこれは本当に「教育効果」なのだろうか。
子供をシュタイナー学校に入れる親はいずれも高学歴だ。彼らの小学生時代も「急に集中力がついて、片っ端から本を読み始め」たのではないかな。要は「遺伝のたまもの」であると言いたいのだ。
知能や性格、そして身体能力はほぼ遺伝で決まる。差別につながるので、大声では言えない御時世だが、もはや真理といってもよいだろう。
ひるがえれば、後天的な教育などというものは、たいして意味がないということになる(ただし、習得しようという意欲があれば話は別だ。ただし、そう思えること自体が遺伝的資質ともいえる)。
親の夢を託し、エゴを満たすために施された「教育」など、数年を経ずしてメッキが剥がれてしまうのだ。気づけば、親と同じような人生を歩んでいる。これが厳しい現実だ。
遺伝と教育については、以前、以下のようなエントリーを書いた。ご参考に。
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『日本人の9割が知らない残酷な真実』(橘玲)はタイトル通り残酷な本だ。
子供の未来を「学校」に託そうとする親たちに、冷や水をかけることになるからだ。
音楽、執筆、数学、スポーツといった分野において、遺伝の影響度合いは80〜90パーセントになるという。
同様に、知能も性格も遺伝であるというから、教育は意味ないのではないかと絶望する親も少なくないだろう。
このスクールで勉強すれば、食いっぱぐれない資格が取得できますよ。この学校で教育を受ければ、芸術性が育まれますよ。
おのれが成しえなかった「理想」への変身を願う親にとって、こうした囁きかけは魅力的に映る。
だがそれは、しょせん開運ペンダントやパワースポットめぐりのようなもので、お望みの結果につながらないのが現実らしい。
自分には才能がないにも関わらず、子供に医者やらアスリートやら芸術家になってもらいたいなどと期待するのは「頑張って血液型を変えろ」というようなものだ。
そんな無茶振りをされた身にもなってみるがいい。それは教育ではなく虐待だ。
だが、悲観的になる必要はない。忌まわしき遺伝的制約を「持ち前」と言い換えてみてはどうだろうか。
遺伝を積極的に受け入れ、それを社会に適合させてゆく力。これこそ教育の本質に他ならない。
先祖代々、営々と受け継がれた所与の持ち前をいかにして生かすかが、当代たる我々に問われているのだ。
遺伝を通じて子供と共有した「持ち前」。これに磨きをかけてゆくという夫婦親子の共同事業。これが親が成しえる最高の取り組みなのではないか。
こんな崇高ないとなみを、学校にアウトソースするのはもったいなさすぎる。