「藤野」に失望して出てゆく人は少なくない。そんな場面に出くわすと、地元民として申し訳ない気持ちになる。責任すら感じてしまう。
「藤野離脱」の最大の要因はシュタイナー教育であろう。
藤野のシュタイナー教育はガラパゴス化していると、多くの離脱体験者は口を揃える。すこし関わった程度の私ですら「なんか、ちげくね?」というシーンに何度も出くわした。
外面的にはシュタイナー教育然としているのだが、そこにはシュタイナー翁の精神が宿っていないように思えてならないのだ。
ゲームやマンガの禁止から始まり、性的成長が促進されるから鶏肉を食わせるなやら、写真を撮らずに心に刻めやら、こまごまとした「規則」がごまんとある。
シュタイナー教育者のその場の気分で方針が立ち上がったり、それを忖度した親がお互い自制自粛したりで、次々と「法制化」されてゆく。その瞬間を、私は何度も目撃した。
たちの悪いことに、これらは明文化されない。だから「空気」をよみながら行動しなければならないのだ。
さらには「空気汚濁」を感知するセンサーがいたるところに張り巡らされ、それに抵触しないよう神経を尖らせる必要もある。これはたいへんなストレスだ。
この本末転倒ぶりは連合赤軍を想起させる。気高い理想を掲げながら、そのドグマによって自縄自縛となっていく構造と道程は、じつによく似ている。
私が泰斗・子安美智子先生から教えを受けたシュタイナー教育は、もっと気楽で伸びやかなものだった。その点、藤野シュタイナー教育はあまりにも苛烈で重苦しい。
藤野シュタイナー教育の実態は、しょせん教育ママによる過激な管理教育なのではないか。
「地上の楽園」を探し求めた挙げ句、「惨劇の現場」に行きつくことは少なくない。
藤野を「山岳ベース」にしてはならない。そのために必要なのは多様性の受容と寛容さなのだが、こればかりは一朝一夕にはどうにもならない。