「藤野論」を始めて1ヶ月、藤野におけるフェイスブック友達とはすっかり没交渉となった。盛池育英会のFBページはもちろん、私個人のタイムラインにおいても完全に交流が途絶えたのである(脱藤野者は除く)。
こうなることは予想できた。藤野はムラ社会だ。ムラへの批判は許されない。私の言動をして「反藤野分子」と目されたのであろう。
困ったことに、批判者のみならず、同調者にまで風当たりが強くなることも想定された。これには頭を悩ませた。そこで私は助走期間を設けることにした。昨秋から、藤野のFB友の記事に「いいね」しないことにしたのだ。
私から「いいね」してしまうと、律儀な藤野紳士淑女が「義理いいね」せざるを得なくなる。そんなことで苦境に追い込むわけにはいかない。
こうして身辺を整えてから、藤野論をスタートさせた。
当初、ごく少数の藤野民が「いいね」してくれたが、まもなく止んだ。周囲からの圧力があったのだろう。
こうしてSNS村八分になったのであるが、私はべつにかまわない(多少忸怩たる思いはあるが)。
だがこれが、もし藤野少年だったらどうだろうか。「藤野」に対する疑念は表に出せまい。出したら即、社会的死が待っている。
親きょうだい、学校の友達、近所の人。リアルでもバーチャルでも、やけに繋がっているのが「藤野しがらみ」。
年端もゆかぬ若者にとって、それは「人生」であり「世界」そのものだ。それに立ち向かうのは容易なことではない。
私が憂えるのはまさにここだ。藤野は類まれな「ムラ社会(「村社会」とは異なる)」だ。ここまでの閉鎖性は、こんにち地方の村落に行ってもなかなかお目にかかれないだろう。
これが藤野版「郷に入れば郷に従え」なのか。「藤野」に疑問を持ったら隠忍するか脱出するしか選択肢はない。
だがその時、脱出するだけの元気を保持できているかどうかは微妙だ。ムラ社会は知らず知らずのうちうちに活力を奪うからである。