学生時代の彼女の父親は、事実上の組長だった。「総会長」と呼ばれていたその方から、わたしはこんな教えを受けた。
「いいか覚えておけ。ヤクザなんかでたらめだぞ。約束は守らないし裏切るし、とんでもないやつらだ」
高倉健の任侠映画を好んで観ていたわたしは、ヤクザこそ男の中の男。義理人情に殉じる漢の鑑だと思い込んでいた。
未来の婿になるかもしれない男に、変な道に進んでもらいたくない。今にして思えば、じつに親心あふれる言葉だったのだ。
あれから長い歳月を経て、今のわたしなら、青年にこう言うだろう。
「いいか覚えておけ。芸術家なんかでたらめだぞ。身勝手だし、だらしないし、とんでもないやつらだ」
わたしは芸術家と縁が深い。小説家をはじめとした作家とは、何度となく仕事をしてきた。訳あって、香港の現代アートの会社を保有することにもなった(まったく興味はないがw)
わたしがじかに接した芸術家たちは、一見まともだが、精神の奥底のところに狂乱を宿している。嵐山光三郎の『ざぶん』を読んでみるといい。文士の実像なんて、あんなものだ。
わたしの両親は文学青年と文学少女だった。世界文学全集を書棚に並べ、文人墨客の足跡をたどっては、その心情に思いを寄せてうっとりする。
芸術家とは崇高なる精神の持ち主で、身を清め作品に打ち込む聖者。こう両親は誤解していた。
その誤解でバチがあたったのか。あろうことか、芸術家に恋い焦がれた両親は、ついに「芸術家」を召喚してしまった。
結婚3回、落選2回、被告2回、事業失敗7、8回。日がな一日ぶらぶらし、好きなことにだけ熱狂する。家督を強奪して威張りくさっている。そんな化け物(親父の弁)が、無邪気に芸術に憧れるラブラブ夫婦の前に出現してしまったのだ。
両親にとって、もちろん、わたしは「聖なる芸術家」ではない。それどころか、つねに親の顔に泥を塗り続ける親不孝な道楽者。あるいは、粗暴でわけのわからぬマジキチ極道者でしかない。
おいおい語ることになるが、我が両親は典型的な「藤野夫婦」だ。だから、藤野夫婦をみていると、こんなことを言いたくなる。
無邪気に「芸術」に憧れることは、無邪気に任侠に憧れるくらい危険なことなのだよ。やばいものを召喚してしまうよ。