桐朋女子に通知表がないと初めて知った。わたしは男子校の出身であるが、こちらには、ふつうに通知表はあった。桐朋学園は男女で別の対応をしていたのだ。
90年代に大躍進を遂げた脳研究の成果を踏まえて、アメリカでは2000年代から男女別学に回帰している。
ほかの国々もこれに追随する動きを見せているなか、日本だけが男女共学路線を推し進めているのはじつに奇異だ。
これは学校経営という側面が大きな理由のようであるから、日本社会が前進すれば、しだいに解消されるのであろう。
さて先ごろ、シュタイナー学園には通知表がないというエントリーを書いた。(→藤野論7)
「競争」があることで少年の心は躍動し、目は輝く。競争なき境遇に身を置く少年は無気力になり、目は虚ろになる。
少年にとって、競争は成長段階における「必要悪」であり、成熟するにしたがって超越できれば最高(ただし、少女はそのかぎりではない)。こんな論旨だ。
これは、まさに母校の教育施策と合致していたのである。嬉しいかぎりだ。
ここで思い起こされるのは、とある藤野婦人だ。彼女は我が国指折りの最高学府卒業者だ。
婦人曰く「数値を追い求める受験勉強でだいじなものを見失った。いまそれを取り戻そうとしている」
わかる気がする。だが、それは大人の、それも女性の感慨ではないかな。
その対偶たる「少年」に、彼女の人生での悔悟と決意は当てはまらない。
幸いにして、彼女には娘しかいない。競争は心身を疲弊させるので回避すべしという価値観は、少年に適用されることはなかった。
見渡せば、藤野婦人はみな高学歴だ。藤野婦人の偏差値は70くらいあるんじゃないのか。
彼女たちは、いわゆる「受験戦争世代」だ。幼少期から競争のるつぼに放り込まれ、数字を追い求めさせられた。
先の婦人の言うとおり、その過程で、心身の消耗を実感したのだろう。「競争」というものは、女性の心身にこたえるものだと、わたしも思う。
いま藤野で、競争を「ダメ、絶対」としているのも、藤野の主役たる受験婦人たちのルサンチマンなのかもしれない。
だが、そのドグマを女ではなく男、それも大人でなく子供、つまり少年に押しつけるのはやめよう。そこを次なる「戦場」にしてはならない。
自分の人生かけての学びが、最悪なかたちで生かされることになるからだ。
少年にとって競争はエンターテインメント。競争を通じて彼の人生は躍動する。
いずれ「競争」を超越するときも来るだろう。そのためには、一度「競争」を体験させてあげてほしいものだ。