「サンタ風習」はいつから始まったのだろうか。わたしの子供の頃にはすでにあり、クリスマスの朝を心待ちにしたものだ。
その後、「サンタさんの真実」を知ってからは状況が一変した。親心を慮り、2年間気づかぬふりをした。その後も妹三人のファンタジーのために4年間とぼけてみせた。
妹から「お兄ちゃん、本当にサンタさんているの?」と真剣な眼差しで尋ねられたことがある。小学生には酷な問いかけだった。
長じては、クリスマスは恋人と過ごすものとされ、そのためにどれだけ四苦八苦したことかw
わたしにとって、クリスマスは心労の種でありつづけた。そして親になった今、サンタがまた厄介を運んできた。
シュタイナー幼稚園には、年末のクリスマスシーズンにアドベントという行事がある。毎朝、小箱の中に、きれいな石が入っていて、子供がそれを発見するという趣向だ。
坊やは感情をあまり表さないが、これには心踊っていたようで、毎日楽しみにしていた。
しかし、家内はそそっかしいので、時々仕込みを忘れることもあって、そのたびに坊やは、その現象の因果関係(どういう日に、石が入っていないのか)をしきりに推測していた。だが、さすがに母親のおっちょこちょいには思いは至らなかったww
ただ、こういう趣向に、どのような意味があるのだろうか、それが気になって仕方がない。
もしそれをシュタイナー教育者に尋ねても、「それは頭で考えることではなく、心で感じることなのです」とすげない答えが返ってくるのは目に見えている。だが、わたしは心底知りたい。
試みに、家内にこの問いをふってみると「子供には夢を見せてあげたい。感性が豊かになる」と判で押したような答えが返ってきた。
「夢」を見るにしたって、感性を育むにしたって、ほかにもっといい方法や道筋がいくらでもあるだろう? センス オブ ワンダーの涵養というのなら、手品やトリックアートでもいいのじゃないか。
わたしには、こうした「官製体験」にともなう葛藤やストレスを考えれば、むしろ逆効果ではないかと思われてならない。
意地悪な見方をすれば、子供のためというより、子供の「純粋さ」にうっとりする親のためのイベントなのではないか。
子供の「感性」を刺激して、その反応を見て目を細める。これはいかにも藤野的だ。
親をはじめとした大人たちの衆人環視のもと、藤野少年たちはつねに「感性豊かな反応」を求められる。だが、感性豊かな少年であればあるほど、その圧力で消耗してゆくのだから悲劇というほかない、
お仕着せの「装置」の中で、予定される反応を引き出すのではなく、瞠目し魂がふるえることをみずから探し出す。これを促すことが、教育の本分ではないかと思われるが、いかがであろうか?
わたしの認識がまだまだ至らないのかもしれない。ぜひ、このあたりについて見識をお持ちの方がいらっしゃったらご一報いただきたい。