北京で現代アートのギャラリーを経営している友人が嘆いていた。
「日本のアーティストには怒りがないの。中国のアーティストには怒りがある」
社会に対する怒り、自分に対する怒り、境遇に対する怒り。ボノもスティングも若かりし日、その怒りを音楽にぶつけた。いずれにせよ、怒りはおのれのテーマをもたらしてくれる。
かっこ悪いが、わたしの場合は、親に対する怒りだ。それが淵源となり、その後の人生のテーマとエネルギーをかち得た。
『英雄問答』は父への怒り、古老からの聴き書き集は、愛する祖母を蔑む親類への怒りが根底にあった。
こんにち、日本では「芸術教育」が花ざかりである。
ふた昔前なら博士か大臣、ひと昔前なら医者か弁護士だったのが、いまや芸術家にシフトした。
だが、わたしに言わせれば、それは芸術風職人あるいは、芸術業界関係者になるためのものである。
その理由は、言うまでもなく、根底に「怒り」がないからだ。
怒りを訴えたい、怒りを昇華させたい。その強烈なエネルギーが創作の原動力になる。
それなくしては、メッセージもないのに、文章教室に通って小説を書こうとするのと変わらない。
古今東西、貴族の子女など、衣食住の心配から隔絶した者たちは、より上位のテーマを持ちうる。だが、それはごく少数だ。
適度に家族円満で、適度に衣食住が満たされ、適度に愛情や刺激が満たされた一般家庭には、そんな有閑活動人=芸術家の存在は許されない。
「早く芸術をひと通り勉強して、いい仕事に就きなさい」では、芸術の芽は育まれない。
そんな現世利益主義者が芸術家の「怒り」に感応できるはずもなく、むしろ、芸術家をつぶす側に立つのがオチだ。
芸術は、荒くれ者の聖域だ。安易に関わると、それにともなう業までも引き受けなければならなくなるだろう。