坊やは夏休みが始まるやいなや姿を消し、祖父母や妹たちの親族4家族十数人の中に身を置き、日々楽しそうにしている。
妻と娘は1週間ほど前から広島に帰省し、ぬくぬくとしているらしい。来週あたりには戻ってくるだろうが、まあいつでもいい。
わたしはひとり家に残り、日々読書とジョギングにいそしんでいる(時々、坊やのところに顔を出すが)。
そんな離散家庭であるが、今後の一つの理想的家族モデルたりうる考えている。
そもそも昔の家族なんてこんなものだった。子のない親類に養子に出したり、祖父母が育てたりなんてふつうにあった。
ちょうど読んでいる『強父論』の著者阿川佐和子さんも幼少の折、両親がアメリカに留学するため、1年間、伯父伯母に育てられたという。
家庭が一糸乱れぬ結束と運営が迫られるようになったのは、せいぜいこの三、四十年なのである。
こんにちの核家族に対して、わたしは以前から批判的だ。それは、子供の「逃げ場」がないからだ。
少子化のなか、ただでさえ少ないきょうだい。日頃顔を合わせるのは母親ばかり(父親は勤めで不在がち)。
こんな濃厚で多様性に欠ける環境は、子供にとって息苦しいことこの上ない。
魚にしても、無機質な金魚すくいのタライよりも草木が生い茂り、緩急おり交ぜた流れがあるほうがいいに決まっている。
これは子供にとっても同じことだ。いろいろな価値観、年齢、関係性の人たちがいる。さらには居場所も多様であったほうがさらにいい。
その日その時の気分で自由気ままに回遊する。坊やの日常はまさに川魚のごとし。その生活環境は一見複雑であるが、その複雑さが気楽さをもたらすのだ。
わたしがつくりあげたいのは、こんな分散型で多様性あるビオトープ的環境なのである。
昨今、多様性が叫ばれているが、そんな意識高い系家庭が意外にも一様性に陥っていることが少なくない。じつは、わたし自身、そんなパワフルな一様性家庭に育った。
わたしの場合、そんな「牢獄」からの脱出願望が社会で生きる上でのエネルギーとなったが、その道程は不毛であった。もっと質の高い苦労もできたはずだ。
複雑怪奇な社会を生きる上で必要なのは気楽さと多様性であろう。子供にとっていちばん毒なのは、単一価値観が横溢した閉鎖環境なのである。