22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

1-02.jpg


1-04.jpg


1-03.jpg


1-05.jpg


1-06.jpg


1-07.jpg


1-08.jpg


1-09.jpg


1-10.jpg


1-11.jpg


1-12.jpg


1-13.jpg


1-14.jpg


1-15.jpg


1-16.jpg


2-07.jpg


2-01.jpg


2-08.jpg


2-09.jpg


2-10.jpg


2-11.jpg


2-12.jpg


2-13.jpg


a4f5c096.jpg



babd6380.jpg



showa1.png


showa2.png


ea3bb904.png



c12dae5f.png



af37c8a3.png



3239622d.png



fb93d584.png



66ce7ba0.png




b93d58f4.png



ee077c8e.png



3c7c2c3c.png



13e1c761.png



showa7-3.png


07c7aa70.png



清水キン子さん(山梨県上野原町)
あつ子
正月を迎えるにあたって

年末は、和服の仕立てや、正月の準備のため、てんてこまいであった。
正月用の和服を31日にギリギリ間に合わせるのを、傍らからみていても大変な様子であった。
年末には、私たち子供の正月用の衣類を買ってもらう。学校から帰ると洋服ダンスの中に新しい紺色のボックスがつるしてあった。とてもうれかった、店子の佐藤洋品店から、家賃と棒引きに衣類をもらった。 食器などは、越前屋で買い揃える。
お松飾りは諸角青果店で買い揃える。
明けて正月、三が日はお雑煮は神々に供える。これは男の役目、長兄がしたと思う。私は朝の日の光が障子ごしに、新年がきたように感じた。
日常、母は、朝食の前に仏様や大神宮さまに、お茶とご飯を供えて、長いことお祈りをしていた。私の子供たちが泊りにいき、その母の拝む姿の脇で朝ご飯をおあずけにくっていた。母は長いお祈りの合間に「仏様が先だよ!」と子供たちに声をかけ、再びお祈りを続けた。)

日常、母が和服を仕立てている、祖母は手がすくと、母の仕立てをしている部屋の一段差がついているところに座って、母と話しをしていた。その部屋は父の歯科医院をしていた時の治療室であった。)
朝は、祖母と母は、手分けして、座敷の掃除をしていた。

母は仕立て代を請求しずらいらしく、相手がくれるまにもらい、相手が持ってくる日まで、何ヶ月も待っていた。
和服を知り合いの家の娘さんが嫁入り前に習いに来ていた。
最近になって母から聞いたところ、月謝をもらわずに、ただで教えていたと言うことです。


佐藤洋品店から、家賃を棒引きで私たち子供の新しい衣類を手に入れた。
9月の牛倉神社の祭りの時、御輿を担ぐのに、新しいシャツとパンツと白足袋を、岡部 大工の7人の男の子達にもあげていた。
岡部大工の私と同級のアキラさんが後年、同級会のとき、あの時のシャツはうれしかった、と述懐していた。


あつ子
日常の想い出

夜なべで、コタツで和服を縫っている母、私は傍で一緒に宿題をする。
火の番のチリンチリんという鈴の音が蔵の前まで入ってくる。母は夜なべの電気の光あを気にしてか、電灯に布をかぶせていた。

祖母の前で、昼寝などした事の母、夜になると、コックリコックリが出てくる。
祖母が亡くなってからも、昼にうたた寝をしている時、私などの足音がすると、跳ね起きた母、 何年にも渡ってその習慣は消えなかった。

祖母の五能がきかなくなり、私と母とで祖母がトイレの前のおマルにいきたくて、モゾモゾしている気配がする。私は気がつくが母は寝込んでいる。私は母にぶつかるようにして、祖母のことを知らせる。母はハネおきて祖母をトイレにつれていく。



祖母の晩年

コタツに座らせて、テレビを見させる。母は祖母の好きな塩饅頭を毎日、近所の永井饅頭屋まで買いに行く。
祖母は、若い頃,近所の人たちのお産の介助をしたり、その他、いろいろと面倒をみてやったので、70才の時近所の人たちに浅田屋に招待され紫色の布団を贈られた。
気丈な祖母のかげにかくれていた母も、祖母がなくなってからは、近所の人に,人柄のよさがすこしずつ分かってきたようだ。近所の植松のおじいさんは、母のことを仏様のような人、と言ってくれた。これは兄の縁談で様子を聞きに来た人に伝えたこと。

祖母が亡くなったあと

四十九日までは、母と毎日墓参りに行った。土葬であった。棺に結わえられた縄が地上に出ていた。その縄を握って、「おばあさん来たよ」と言って揺すった。



あつ子

祖母も、母も勉強には真面目であった。
兄の入試に際して、牛倉神社や天神様へ、お百度を踏んだ。私はいつも一緒だった。
祖母は勉強している孫たちに、りんごを坂本八百屋から買ってきて、机の上にひとつずつおいた。八百屋のおばさんが感心してそのことを語った。
後年、母も孫たちに同じようなことをしていた。
幼稚園の坂から園の中にいる孫の姿を毎日見ていた。
孫が好きだと言ったお菓子は、毎日毎日10個位買ってきた。この事は孫である、陽子や暁子が言っていた。私の家に泊まった母は、翌朝、孫娘たちと登校途中にある自分の家まで一緒に行った。
ある時、孫の宿題のアサガオの鉢を持ってやる、と言って、それを持ってころんでしまい、困ったことを、孫の暁子は話していた。
孫の雄歩が1~2才の頃、吉田屋、木村時計店、大黒屋と雄歩が寄り込む店につれていかされ、ウルトラマンと同じ物を3個も買ってきて、雄ちゃんは、~と困っていた。
小学校時代の雄歩は、三村屋、大黒屋で毎日プラモデルを母から買ってもらった。



女学校時代の母

藤沢のおばさん(父の姉)と川崎の祖母の妹のクラおばさんの嫁ぎ先である伊東病院に川崎高等女学校に通うため下宿をしていた。
川崎高等女学校には、1年上に、作家の中里恒子さんが在学していたという。
お金がなくなると、沢井の父親にマルを送って下さいと、手紙をかいた。
晩年まで川崎駅から蒲田方面の駅の名前を順々に言えることに暁子は驚いていた。娘時代の行動半径だと思う。
父親が町の市に出かけると、「着物、帯などを買ってきて」と言うと、父親は買ってきたらしい。 甘えっ子だった。



健二

○ 明治43年神奈川県の西北部、東京都と山梨県に隣接する神奈川県津久井郡沢井村(現在藤野町沢井)に三男二女の末っ子として生まれる。
生家は素封家で物質的に何不自由ない家庭に育つ。
3歳の時、母親と死別、以降12歳年上の姉が嫁ぐまで母親の役割をする。

親が決めた嫁ぐ準備のため、村として初めて女学校に進学する。
近くの女学校ではなく、川崎市の川崎高等女学校である。
下宿先は嫁ぎ先の山梨県上野原町の清水の親戚である医者の家であった。
○ 大正12年、関東大震災にあう。そのご地震ある度に余程恐かったとみえて、大震災のことを口にし「あん時はおっかなかったーよ」が口癖であった。

○ 鋼管会社(現在のNKK)、高津、宮前、溝口、等川崎の事をよく口に出していた。
○ 嫁ぎ先の清水の跡取りである正男が歯科医となり、間もなく結婚する。
清水の家は義父が教師、義母(しっかり者のおばあさん)が質屋経営、夫が歯科医、資産もあり裕福であった。

これからは義母を「おばあさん」本人を「ばあちゃん」と言うことにする。

○ 長男が幼稚園6才、次男が2才11ヶ月、長女が腹の中にある時、夫である正男が31歳で脳出血で帰らぬ人となる。昭和19年12月のことであった。翌年昭和20年5月に長女が生まれる。

昭和18年義父の死亡、昭和19年夫の死亡と、たて続けに大黒柱を失う。まさに泣きっ面に蜂そのものであった。
これを境に、“ばあちゃん”の人生は大きく変わり、ただひたすらに子供の成長を楽しみにするだけの人生が始まる。



健二

○ 清水の家は、教育熱心で、親戚には医者が多く、学者、官僚等もおり、親戚つきあい、地域のつきあい等、当時のことでは、男のいない家を“おばあさん”と“ばあちゃん”で守っていくのは大変なことであったと思う。
○ おばあさんは明治18年生まれの、いわゆるイメージは“明治の女”そのものであった。
“ばあちゃん”の“おばあさん”に対する印象は「おっかねえ人だったが情のある人だったよ~」と言っていた。
○ ばあちゃんに化粧ひとつさせなかった。ばあちゃんはお風呂のあと顔にクリームを塗る程度であった。


この後はおばあさんが死んだ後のことである

ばあちゃんは口癖のように「おばあさんがいたから子供が育った」と言っていた。

昼寝をする時は襖を閉めて寝ることよくあった。
さぜなら、居間にあるおばさんの写真がから見えないように昼寝をしていた。

寝ていても、人が来ると、さっと飛び起きる習慣があった。余程おばあさんが恐かったと様子。

奇麗好きで、健康には神経をつかっていたばあやんは、出入りの多いあったが、ちょっと弱そうな人等が来ると、帰ったあと、湯飲み茶碗を熱湯消毒していた。これも、家族が健康であって欲しいことからと思った。

子供が受験勉強していても、10時を回るころには「早く寝ろよ」と健康に気をつかった。
お陰でノー天気な次男の私は助かった。

長兄と妹は、11時以降勉強していたことは希のような気がした。
次男の私は11まではもちろんのこと、学校以外での勉強が希であった。
次男の私は、試験は一夜漬けの勉強が多かった。ばあちゃんは「次から前以ってちゃんとやれよ」言ってくれた。優しいのか、それとも厳しさがないのか~。
いまになれば私も後悔している。あまりにも遅すぎた、後悔先にたたずとは、この事である。



健二

我々兄弟は中学校から八王子の学校に越境入学していた。
高校は長兄が立川、次男の私が荻窪、妹は八王子であった。
電気釜のない時代、ばあちゃんは夜中と夜明の間ぐらいに起き“かまど”でご飯を炊き、食べさせ、私が見えなくなるまで送り出していた。

健康に敏感なばあちゃんは、医者は良い職業と思っているも、“きたないものを扱う、弱いものを扱う”という先入観があった様子。
長兄が国立の東京医科歯科大学に合格するも、おとうちゃん(夫)の早死にがいつも頭にあり、当時の国立一期校、二期校を断念させ、私立大学にいかせた。

毎日、お茶とご飯を神棚、仏壇にそなえ、手を合わせ、かなり長い時間拝んでいた。何を心の中で言っていたのか、もらいものは、まず仏壇へ、ご先祖様のお陰、感謝の行為箪笥には、いい着物があるも、いつもモンペ姿であった。

孫たちの強い印象の一つに“おいしいコーンスープをよく作ってくれた”ことである。

夏の炎天下、よく畑のくさむしりをしていた。おばあさん(姑)が何かと面倒を見た畑の近くのおばさんが、お茶を入れたり、手伝ってくれていた。そのおばさんは“ばあちゃん”のことを「姉さん、姉さん」と呼んでいた。
お父ちゃんが生きていたら、こんな草むしりなどしなくてもよかったのだがと私は思った。
だが、“ばあちゃん”は、そうは思っていない様子であった。
“生きていれば”という,IF(もしも)を言わない人であった。

ばあちゃんのえらいところは、自分の身内の者でなく義父、義母の親戚、また、他人を受け入れる、いわゆる自分以外を大切にする人であった。社交性はなかったが、心、気持ちが寛大であった。

年一回、実家の地域のお祭りの時、泊りがけで行くのが楽しみの様子であった。

ばあちゃんの“きらいなタイプ”
○自慢話を一方的にしゃべる人 ○ずうずうしい人



健二

息子、娘の誕生日には赤飯をふかした。クリスマスは息子、娘の子供の頃、その後の孫たちにも関心がなく、プレゼントはなかったと、記憶している。

神様、仏様の行事にはうるさかった。年末、年始の飾り付けの準備、彼岸、盆の仏様へのお供え、飾り付け、またお寺さんへのご挨拶、他人を拒絶しない、誰でも受け入れる。長居をするお客に対し、体調が悪く横になりたい時にも我慢している。
自己犠牲が強い、もっと自分を主張してもいいのではないかと思ったが、それが、ばあちゃんのいいところ。

和服の仕立てがうまかった。一時仕立ての仕事をいていたが、納期の迫った時は徹夜であった。その時電球の笠に布をかけ、灯りが漏れないように手元だけ明るくしていた。
仕立ての部屋に我々の勉強机があった。

仕立てのお弟子さんが2人いたが、楽しそうに話しをしていたのが印象に残っている。

朝早くから夜遅くまで、田んぼ、畑の仕事、洗濯、炊事なだの家事、和服の仕立、良く働いていた。 昼間のこっくり(居眠り)をよく見たことがあった。眠いのも無理がない。


○この後は息子、娘の結婚そして孫たちの話になる。

DCP02302.JPG


368c18bc.jpg



DCP02304.JPG


DCP02305.JPG


ef536fe5.jpg



82db2919.jpg



3f467f37.jpg



DCP02309.JPG


DCP02310.JPG


21ec0e70.jpg



e90fc3c5.jpg







 一月五日、午後八時過ぎ、親父から電話が入った。
「雄歩、ばあちゃんが危篤だぞ。痙攣している、すぐに来て」
 昨年暮れ、病院に担ぎ込まれて以来、あるていど覚悟はできていたが、すーっと力が抜けていくような気がした。膝から下が寒くなった。
 身支度を整え、神楽坂を出発したのが、九時半過ぎ。どこか力の入らないまま、代官町から首都高速に入った。
 おれは正直なところ、間に合いたくなかった。苦しんでいるところを見たくなかった。時速九〇キロほどで混み気味の中央道を走る。前回、全速力で走り抜けたのは、わずか一週間前である。
 運転するときはきまってイライラするおれではあるが、この夜ばかりは、気も立たず、静かに暗闇の中を滑っていくのだった。
 上野原インターに差しかかったとき、親父から電話が入った。
「雄歩、いまどこにいる。早く来い」
 いよいよか――尻のあたりがひんやりとする。
 静まりかえった上野原の町を走り抜け、池の畔の病院へ。裏口を開けると、見慣れた宿直のおっさんが神妙な表情でおれの顔をのぞき込む。
 健さんが階段からおれを大声で呼ぶ。
「雄歩、早く、早く!」
 おれは踊り場で待っている叔父を走ってやり過ごし、四階の病室まで一気に走り上がった。
 明るく赤っぽい病室には、妹たち、親父、お袋、健さん、おばさんがいた。妹たちがしきりに声をかける。
「ばあちゃん、がんばって! 大丈夫だよ」
「お兄ちゃんが来たよ。わかる? ばあちゃん、お兄ちゃんが来たよ!」
「お兄ちゃん、早く、早く! ばあちゃん、わかる?」
 妹たちに囲まれてシロがいた。目を白黒させながら、胸を痙攣させている。傍らの計数機は警報を連打している。
 見るに耐えない。おれの瞼に一気に涙がこみ上げた。
 血圧は二十九――。心拍数は百五十台――。もうおしまいか――。
「シロ、おれだ、わかるか?」
 おれはシロの手を握った。握りのクセがついて開かなくなった手だ。十年前には、よく腕相撲をした骨太の手も、衰弱して骨張っている。
 おれは手を握りながら、“念”を送った。“念”で生命力を吹き込むことができる――誰かが言っていた。
 妹たちがしきりに呼びかける。
「ばあちゃん、正夫さんの処へ行くだあよ」
「怖くないよ、ばあちゃん!」
 おれはひとり、黙って念を送り続けた。おれは大汗をかいていた。
 間もなくして、いとこの綾子と裕史が到着した。連絡を受け、運良く特急に乗ることができたというのだ。
 裕史はおよそ十年も会っていなかったのだが、つい一週間ほど前に、この病室で会った。十二月三〇日、おれが見舞いに来たときに、出くわしたのだ。しばらく会わないうちに、じつに立派な青年に成長していた。病床を見舞った後、いっしょにクルマで新宿まで帰ったのだが、深い感銘に打たれた。人間は変わるものだ、と。
 裕史は来るなり、体育会で鍛えた声援をシロに送った。
「がんばれ、ファイト! ファイト、ばあちゃん!」
「大丈夫! OK、ばあちゃん、がんばれ!」
 裕史に先導されて、みんなが声援を送る。
「ばあちゃん、がんばれ! 大丈夫だよ!」
「みんなついているからね、大丈夫だよ、ばあちゃん!」
 夜十一時をまわった病室は、一気に熱気を帯びる。しかし、シロの容態は変わることなく、あいかわらず痙攣を続けている。
「すでに脳梗塞を起こしているらしい…」
 親父がぽつりと耳元でもらした。おれは――これで終わった――と思った。もう、このままここで死ぬのがいいのだろう――と思った。シロのためには、それがいいのだろう、みんながいるときに、みんなが見守っているときに、みんなに送られるのが、シロの願いなのではないか――。しかし、おれはそう考えている自分を嫌悪した。
 
 しばらくこうした時間が続いた。すると――シロの血圧が上昇した。ベッドサイドの計数機の数値は、三九になっていた。明らかに、痙攣も収まりつつあった。おれは内心、「よし! 通じてきたな」と一人ほくそ笑んだが、それを言っては効果がなくなってしまうような気がして、言うのを控えた。
 間もなく零時というころ、長男夫婦が到着した。――これについては、何も言うまい。
 このころになると、明らかに小康状態を取り戻していた。おれはセーターで額の汗を拭った。みんなの声援は続いているが、どこか期待が持てるような安堵の空気が流れた。
 午前一時近くなると、今夜は持ち越せそうだ、ということになり、介添えを残して、今夜はいったん帰宅することになった。
 おれは妹二人を指名し、残りの者を帰した。
 痙攣も止み、シロは静かに寝息を立てている。
 妹二人を先に寝かせ、今夜はおれが不寝番をすることにした。正直に言えば、、おれは怖かった…。しかし、おれでなければならないような気がした。
――シロ、やはり、おれだよな?
 シロに目をやるが、返すはずもない。
 妹二人――陽子と暁子は、寝ろといわれても眠れるはずもない。ベッドのかたわらにしつらえた簡易ベッドに横になりながら、身じろぎもしないでいる。
 おれは持ってきたノートを開いて、妹たちに話しかけた。
「シロはどんな物を作っていたっけ?」
「トウモロコシのスープ。よく作っていたよね」
「あと、けんちん汁」
「そうだな、おれもあれは好きだった。毎朝、仏壇にご飯とお茶を供えていたな…」
「そうそう、私たちが先に食べようとすると、『仏様が先だあよ』って怒っていたな…」
「そして、三角形に手をつくって拝んで、ごしょごしょつぶやいていたな。あれは、何と言っていたのかな?」
「家族のみんなが健康で幸せになれますように――というようなことを言っていたような……」
 シロの朝は、仏壇に拝むところから始まる。「ほとけさま」「だいじんぐさま」「おいべつさま」――この三者にご飯とお茶を出してから、一日が始まる。おれは高三、浪人の頃とシロと二人で暮らしていたが、この光景の神々しさに気付いたのは、まさにこのときであった。うまく表現できないが、金無垢の歴史の露頭がそこに剥きだしになっていたような気がした。そのときから、おれのなかの何かが大きく変わろうとしていたような気がする。これについては、改めることにする。
 こうして妹たちと、シロの思い出について語り合った。幼稚園にシロが来て、佐藤さんで買ったパンを届けたこと、雷が鳴ると、線香を灯したこと、運動会の席取りのために、午前三時から並んだこと、田んぼの「水見」をしていたときのこと、いつまでも髪を黒く染めていたこと、寝坊のおれを何度も起こしたこと――。
 おれたちにとって、シロは本当にいいお婆さんだったのだ。
 こうした話は引きも切らないが、時々、警報が連打して、ドキリとさせられる。しかし、明らかに状態がよくなっていることを感じさせる。血圧もおれが到着したときの二九から六九まで驚異的な回復を見せている。これはひょっとしたら、回復するのかも――という淡い期待を抱かせた。朝になれば、目を覚まして、「ゆうちゃんか?」と口にするのでは…しかし、二度とシロは言葉を発することはなかった。

 午前三時を回った。妹たちも日ごろの介護の疲れもあり、うとうととし始めた。
 彼女たちは本当によくやってきた。仕事や勉強をしながら、週末になれば決まってやってきて、シロの面倒をみていた。
 おれは元気なときのシロは大好きだが、入院したり、明らかに衰弱したときのシロを見るのは辛かった。おれは時々、逃げをうった。
 陽子は年末年始、毎日、シロの枕元に座って、誠意ある介護を行った。正直なところ、頭が下がる。おれが正月二日に見舞いに来たときもいた。今にして思えば、それがシロとの今生の別れであった。
「おれは誰だ?」
「ゆうちゃん」
 酸素マスク越しに、弱々しいがはっきりと言う。
「五、七」
「三十五」
 掛け算もやった。
 そのときは健さんも来ていた。ひとしきりいて、帰り際に声をかけると、シロがなにやら言っている。「何?」と聞くと、また、なにやら言っている。叔父に、何を言っているのか、尋ねると、「また来てね」と言っているということだった。
「また、来るぞ! じゃあな」
 陽子の話だと、その翌日には、シロはわりあいしっかりしていて、「正月なのに、こんなところにいるのはつまらねえ」というようなことを言っていたそうだ。
 ところが、その翌日になると、にわかに元気がなくなったそうだ。そのとき、シロは陽子にこんなことを言ったそうだ。
「陽子ちゃん、ありがとね」

 妹たちは静かな寝息を立てている。時刻は午前三時過ぎ、静かな病室に時々アラームが鳴り響く。
 血圧は六十九、心拍数は百三十台、酸素は十分--数値はしだいに安定してきた。途中、定期的に、看護婦さんが検診に来たが、問題なさそうであった。

 おれは再びノートを取り出した。ベッドの枠に肘をつき、ペンを手にしてシロの顔を見た。安らかな寝顔である。先ほどからときどき寝言を言っている。何を言っているのか、聞き取れないが、悪夢ではなさそうだ。
 先ほども書いたが、おれは高三から浪人が終わるまで、そして、大学六年の都合三年ほど、シロと二人で暮らした。
 浪人時代はいつも友達を家に招き、よく酒を飲んだりして騒いだものである。高校時代の友人が何人か訪ねてくるときには、シロには親のいる実家に行ってもらった。島崎横町を曲がって、高尾の床屋の角を、妹の誰かに手を引かれて行く姿を思い出す。
 朝寝坊のおれは、
「明日は十時に起こしてくれよ」
 と前夜のうちにシロに言っておいた。翌朝、シロは十時きっかりにおれを呼び、
「ゆうちゃん、十時だあよ! ゆうちゃん!」
 と怒鳴るのだった。
 夜更かしのおれはその時間にも起きることができずに、
「シロ、十一時でいい。十一時に起こしてくれ!」
 と怒鳴る。すると、ひとしきりして、シロが
「ゆうちゃん、十一時だよ! ゆうちゃん!」
 と起こしてくる。
 そうなると、さすがのおれも起きざるを得ない。しかし、寝床から身を起こし、座敷に行くと、敷いてあるシロのふとんに倒れ込み、寝ころんでしまう。そういう時は、
「シロ、肩!」
とやる。すると、シロがやってきて、ぽんぽんとたたき始める。その調子はゆっくりですぐに寝入ってしまう。すると、
「ゆうちゃん、まだかあよ?」
 時計を見ると、もう十二時。一時間もただぽんぽんとたたき続けていたのだ。のんびりした浪人生に、シロは、こう激励した。
「ゆうちゃん、ものになるだあよ」

「そういえば、当時、よく肉うどんを食ったな?」
 シロに話しかける。答えることはない。しかし、シロは長い夢を見ているようで、瞼越しに眼球を動かしている。ときどき、問いかけに答えるように、ゆるやかな寝言を言う。いっしょに住んでいたから、よく知っているのだが、シロはよく悪夢で魘される。魘されているときには、
「シロ、夢を見ているぞ! シロ、夢だよ」
 と教えてあげる。そういうときは、
「ああ、夢だあな。夢はいやだあな」
 と言うのだった。
 今夜の寝言はそうした悪夢とは違うものだ。おれはちょっと嫌な予感がした。
 その後、シロに話しかけながら、過去十数年の思い出について書き綴った。おれが高校を出る頃から現在にいたるまで――こうして年表風にまとめてみると、じつにいろいろなことがあったと実感する。
 当時、住んでいた場所、つきあっていた彼女、打ち込んでいたこと…シロとの思い出を織り糸にしながら、次から次へと想起される。思えば、シロとの十年であった。
 おれが本格的に一人暮らしを始めた年、シロは転んだことをきっかけに歩くことが困難になった。今から五年ほど前のことである。
 以来、シロは年々衰えを見せ始めた。その変化にはその都度驚かされたが、健二おじさんやおれの家族が世話を焼いて、幸せな老後を送っていた。孫たちもしだいに大きくなり、それぞれ進学、仕事を持つようになった。そういう年月の流れを、シロはよくわからないなりに、喜んでいたようすである。

「会社を辞めて、社長になったよ。松川屋書店というのだ」
「そうか、それはよかったな」
 シロは松川屋の人間である。店屋物を頼むときも、ビールを酒屋に注文するときも、「松川屋」で通していた。松川屋などという屋号を使っているのは、シロくらいのものである。この屋号も、間もなく使われなくなってしまうのだろう。おれはなんとか残せないものか、と考えていた。ちょうどそのころ、出版関連で起業しようということになり、その社名に「松川屋」を使おうと思ったのである。しかし、未だにそれは実現できないでいる。そのうちに松川屋の屋号を復活させるつもりだ。
 シロは歴史上の人物なのである。シロは自ら歴史上の人物としての役割を全うするしかない。そして、その当たり前のことが、戦後のいかがわしいゆがんだ価値観のかなで、潰えようとしているのだ。
 シロの寝言がやんだ。すやすやと静かな寝息を立てている。安らかな寝顔だ。額を触ってみる。狭い額はあいかわらずで、血色のいい顔は品格がある。
 メーターも静かである。安定した数値を刻んでいる。
――これで、明日の交代にバトンタッチできる
 おれは安堵した。
 ときどき警報アラームに驚かされながら、おれは黙々とノートに思い出を記した。静かな時間が流れていく。時刻は四時半になろうとしてた。
 シロは静かな寝息を立てている。心拍数も一〇〇近くまでに落ち着いてきた。――いいぞ!
 しかし、そのあと、九〇台、八〇台に落ちるのが早く感じられた。高齢者の心拍数はそのくらいがいいと聞かされたので、「ここで、止まれ」と心の中で祈った、が、数値は七十台に差しかかろうとしていた。
――これはまずい。六〇台になったら、妹たちを起こそう。
 六〇台になるまでは、わけがなかった。――いよいよだ。と、そのとき、看護婦長さんが部屋に入ってきた。
「呼びますか?」
「呼んで下さい」
 おれは陽子と暁子を起こした。そして、家族に連絡するように伝えた。
「清水さん! 清水さん!」
 看護婦長さんが検眼灯で瞳孔を伺いながら、シロに声をかける。シロは熟睡しているように、反応しない。
「今、呼吸が停止しました」
 メーターの曲線は斜めに上がったようないびつな形になった。が、それがどういう意味なのか、よくわからなかった。

 間もなくして親父、お袋、恵子が飛び込んできた。次いで、健二叔父、孝子さん、綾子、裕史が飛び込んできた。健さんは転げそうになるくらい動転していた。
 おれはこの叔父が好きだ。口は悪いし、マナーはなっていないが、人間として自然ななりをしているからだ。健さんは、この夜、痙攣するシロの病室の外で、一人涙していた。健さんは、
「これでいい。ばあちゃんもこれで幸せだ。みんながいるときに死ぬことができて。あとは雄歩が間に合えば、何もいうことはない……」
 と、親父に語ったという。おれは後になってから聞かされて、胸が支えた。
 最後に、長男夫婦がやって来て、それを待っていたように、主治医の先生が宣告した。
「五時二十分。ご愁傷様です――」
 妹たちや綾子、裕史がシロを取り囲む。静かな嗚咽が続く――。
 着物を着せている間、外で待った。
「よく生きたよ、本当に」
「ばあちゃんは、正夫さんのところに行ったんだね」
 おれは口を挟んだ。
「シロは夢を見ていた…。楽しそうな夢だった。それも一時間近く…。話しかけられて、答えているようだった…」
「そうだったの? それはよかった、本当によかった。宇一さんや正夫さんなど、身内全員が迎えに来たんだな――」
「いい夢をみていたんだね、ばあちゃんは……」

 間もなくして、準備が整ったということで、病室に呼ばれた。シロは浅黄の着物に着替えていた。安らかな表情に、下手のいい着物を着て、手を組んでいた。見た瞬間、おれはこらえていたものが吹き出した。どっと涙がこみ上げてきた。
「よく生きたよ、本当に」
 健さんの言葉に肯くしかなかった。
 これから、シロは家路につく。おれのクルマに乗せて帰ることにした。
 凍てつくような真冬の早暁、病院の裏口でシロの降りてくるのを待った。家族に取り囲まれながら、シロが降りてきた。
 毛布を敷いた荷台に、シロを担いで乗せた。――温かい。
 おれは助手席に健さんを乗せ、シロが酔わないように、ゆっくりとクルマを動かした。交通のない甲州街道をハザード・ランプを点滅させながらゆっくりと走る。シロが長年暮らした家の前を通過する。
「ばあちゃん、まずは雄ちゃん家に行くよ。ばあちゃん、言っていたよね。退院したら、どこへ帰るの?って聞いたら、『盛池さん家』と言ってたよね」
 健さんの言葉は、おれを嗚咽させた。
 夜明けを迎え、ほどなくして、朝日が正面から射し込んできた。寒い朝だ、しかし、雲一つない。こんなに清らかな朝もそうそうないだろう。
 実家の駐車場にゆっくりと停車した。おれは、健さん、裕史、親父の力を借りて、シロを持ち上げた。重い――。まだ温もりを残したシロは重かった。おれは頭が揺れないように、上体をしっかりと支えた。
 シロが数年に渡って暮らしていた、我が家の座敷はすでに片づけられ、そこにはすでにふとんが敷かれていた。シロをゆっくりと寝かせた。それにしても、何と穏やかな表情だろうか。死に際に、人格が出るのだな、と思った。
 枕元で線香が焚かれ、ゆるゆると煙が中空にのびていった。
 障子戸は射し込む朝日をしっかりととらえ、清浄な空間が現出した。シロは静かに、中央に横たわっている。周囲を、家族、孫たちが取り囲んだ。
 シロの威徳はわかりにくい。理由は、何もしなかったからである。しかし、そうではない。事実、これだけ多くの人が集まる。そして、その死を悲しんでいる。当然、おれにとってもかけがいのない人であった。その存在、ただそれだけでおれに大きな影響を与えていた。
 おれが今、こうしてあるのもシロのおかげだと思っている。生前、
「おれがいま、こうしてうまくいっているのもシロのおかげだ」
 と言って、寝たきりのシロに仰々しく頭を下げたことがある。シロは、
「そんなことねえよお。でも、そういわれると、嬉しいもんだな」
 と恐縮していた。
 おれのような“教養人”は社会のトレンドや本から得る教養はよく知っている。しかし、それなどは筋の通った精神がなければ、何も意味がない。結局、周りばかりをうかがいながら一生を終える右顧左眄人間である。
 シロはそういうところがなかった。だからといって、なりふりを気にしていたわけではない。むしろ、人一倍、体裁を気にした。しかし、それは「矜持」といってもいいようなものだった。
 自分のためではなく、あくまでも「ご先祖様」のためであるという姿勢を、意識せずに貫き通していた。この姿に打たれたのだ。周囲の「戦後進歩人」が急に安っぽく見え始めたのだ。

■19~

●阿仁

9354b28f.jpg



阿仁2.jpg


fe0b5d20.jpg



57a4a766.jpg



●阿仁合駅

bb307c9f.jpg



d52ffca2.jpg



93505d40.jpg



●能代駅

2eb9a443.jpg



e9e9fa99.jpg



6d54827e.jpg



86cf2f4c.jpg



能代駅5.JPG


●鶴の湯

鶴の湯.jpg


小林2.jpg


小林3.jpg


昭和9年生まれ。地元の農業高校を卒業後、昭和28年鉱山に入山、鉱夫として働く。
その後、地元阿仁町役場の公報課・助役等を歴任、退職。
日時:平成14年11月11日
場所:秋田県阿仁


小林:鉱山仲間は人のことやって当たり前。鉱山に入っている人たちは常に死との対面。自分の命の大切さと同時に、人の命の大切さ、相手の命の大切さを思う気持ちは他の職場では見られないすな。もう、仲間が何やったってみな真剣。

―そういう地域の中で支え合って暮らす工夫・知恵の部分が、これまで見捨てられてきましたよね。

小林:阿仁の高齢化率、65歳以上の年寄りの率はいま37~38%、これは50年後の日本の高齢化率なんだそうです。最も早い段階でそうなった。そういう助け合いの人間性を育てる社会は阿仁に行ったら見れるよ、と言いたい。向かいのおばあさんは90過ぎだけど、一人暮らしで、しゃんしゃんとして、買い物、お使い、体を動かす、気性を使う、話す、感謝、つきあい、何でもする。本人の自助努力もさることながら周辺の人もサポートしてくださる。この田舎だからできるっす。東京行けば、隣は何をする人ぞ、じゃないですか。

―周辺の人でボランティアでサポートしていこう、施設に頼る以前の自立するための工夫・知恵がありますね。小林さんの周辺でやっていることがそのまま今の日本で必要とされているわけですね。

小林:自然が豊か、食べ物も純粋。阿仁の山林原野は、山菜がどこにいってもふんだんにとれるんだ。他の町村より高いから市場性はいまいちで、韓国・中国の原材料では価格的にかなわない。でも阿仁はやっぱり自然さこだわって作っていくべきだ。それがやっぱり人間の暮らしの源流なんだ。阿仁のものは農薬も添加物も入っていない。自然だもの。阿仁は秋田県一の高齢化、過疎地、貧乏、財政的に脆弱。でも、そういうものをもとにした夢って結構あるんだよ。

―水がいい、緑が濃い、人情豊か…歴史もありますし、奥行きのあるところですね。

小林:鉱山の歴史なくては阿仁は語れないっす。それにここは暮らすには最高です。雪が多いのが玉に瑕ですがね。でも、雪というのはすべてを洗い流してくれる。夏のごみ、堆積したものを、純白の雪はすべて洗い流してくれます。

―それに静かですしねえ。

小林:過疎だからな、気味悪いくらい静かでしょう?(笑)



仕事

昭和9年生まれ、28年に鉱山に入った。役場の広報部を15~16年つとめ、統計をやっていた。いい仕事させてもらったし、感謝している。統計は実態調査、15~16年やっていれば大体のことはわかる。農業・林業・男女・結婚。情報は入って来る。そういうことが詰まっているから、いろんな方に何とか受け答えできる。ある偉い政治学者から、調査なくして政治なしと教わった。昭和45年、55年、65年、三回開発基本構想、計画を阿仁合でやったけど、それに関わってきた。


鉱山・生活・自然


鉱山のおかげで人・文化・産業、すべてがこの阿仁に来た。
抗掘はいわれのある、画期的なもので、明治17年頃開業したのかな、あの時代によく掘ったなぁと思う。阿仁の場合は日本一の鉱山という歴史があったし、民間には資金がなかったから、見本になる鉱山にするべく国がある程度投資した。人も金もつぎ込んだ、その遺産。明治20年代から大正期にかけて、3500~3600人が出入りしている。日清(明治27年~)・日露戦争(明治37年~)期には、そういったたくさんの人を相手に商売をするべく、さらにいろいろな店ができた。明治の後半から大正期が最盛か。写真の人々は大正・明治生まれだからほとんど亡くなっている。鉱山の優秀な工員と双葉山が相撲をとったことも。双葉山全盛の昭和10年代頃の話。鉱山独自で大運動会もやった。鉱山が閉山したとき、400年祭を一念発起してやった。村総出で、他の山々まで盛大に仮装行列も行った。昭和45年頃で、380年目くらいだったけど、歴史は古いからってことでやったんですよ。一番雪がつもったのはうっとうで2M、ここは1.7~8M。 雪下ろしは大変、年に3,4回(12~3月)。最近は温暖化で一回で済む。





阿仁銅山事務所

山形、青森、北海道、岡山、山口、各地から人が集まったためか、どこかハイカラ、開放的。各地から来た人が建てたお寺から、京都などの文化のつながりがわかる。他との交流が多い地域によく広まっている曹洞宗が、ここでも多い。また過去には隠れキリシタンもおり、わずかながらその痕跡も残っている。明治の頃全国から人が集まって、標準語で話さないと言葉が通じない。だから、阿仁の子どもの言葉はきれい、と言われた。女郎沢、女郎橋、上子沢(あげこばし)などの地名から、遊郭があった裏町の当時をしのぶことができる。すでに焼失してしまったが、和洋折衷の建築物もあった。明治13~15年以前に建てられ、日本建築学史でも貴重なもの。





産業と過疎

戦後一番人口が多かったのは昭和35年で11339、昭和40年で初めて国調(国勢調査)で一万人を割った、9850何人かな、だから45年は九千数百人。そのころ、昭和35年から50年くらいの10何年かで、五年刻みの国勢調査の人口減少率は常にトップだった。二回か三回、それも10%以上の差でトップ。だから過疎としては最たるもの。統計を15年ほどやったが厳しかった。
やはり鉱山で働く人が町を出た。基幹産業だった鉱山と木材製材が、50年代に入って一気に駄目になった。今の人口は4400人くらい。いくらか過疎化には歯止めがかかっているものの、65歳以上の占める割合が秋田県で一番多く、4割近い。秋田県の平均は25~26%。今年の春の阿仁は38か39%。昭和30年代に統計やったとき、4町村合併したあたりでは、年間300人の出生、最近はその10分の1以下。だから自然減はまだ進む。100歳以上の方は4人か5人いる。統計では8000人に一人だというが、今は人口約4000人だから、0.5人のはず。それだけ長寿の町。水も食べ物も空気もおいしいし、人情も豊かだからか。


マタギ

銅で潤った近代的町の一山向こうには、太古の昔の狩猟の村、またぎの集落がある。以前、そこで映画の撮影も行われた。 またぎ社会は身分差別が厳然としてあり、反骨・反発精神が強い。 以前は生活のための手段であったが、日中戦争で安い肉・牙が入ってきて太刀打ちできなくなった。一番の獲物はなんと言っても熊。熊狩りはシーズンが決まっていて、春の残雪と冬の新雪のころ。知り合いの熊狩りの達人が言うには、一対一、一発でしとめるのがまたぎ魂であり、そうでなければ熊に失礼だという。6~7メートルの距離から一気にしとめる。杖になたをくくりつけ、戦うこともあり、そのときは、ねらって振り下ろした瞬間、熊がなたに噛み付き、刃が欠けてしまったという。
彼は今までに200頭以上の熊をしとめ、まだ現役で、ヒマラヤの雪男(イエティ)探検隊に選ばれたこともある。

小林1.jpg


小林6.jpg


小林4.jpg


小林5.jpg


小林7.jpg


小林8.jpg


小林9.jpg


小林10.jpg


小林11.jpg


a042e055.jpg



87067202.jpg



aa8dbd0d.jpg







■8~10 

●新庄駅

6b4fa1b6.jpg



1c334e0d.jpg



e9f26508.jpg




●阿仁合駅

30efaea0.jpg



39bc2f6b.jpg



f35b2273.jpg



●阿仁

66d38305.jpg



bfa44a6e.jpg



febb37c4.jpg



●比立内駅

372a8d15.jpg



152938b4.jpg



9379989e.jpg



●鷹ノ巣駅

76d8bf0a.jpg



60136476.jpg



86ed8a7f.jpg



22c26328.jpg




 九嶋カツさん(91)  秋田県鷹巣町生まれ

聴き録り音源 ↓
kushima.mp3


―行商を行っていたとき、どんなものを扱っていたのですか?

カツさん:ちゅうなればぁ、やしゃもとか、こんずことか・・・

娘・郁子さん:注文があれば、やしゃもとか、こんずとか。

―やしゃも! 野の軍鶏、つまり比内鶏のことですね!

郁子さん:いや、やしゃもは、野菜のことです。
―あ、そうでしたか。で、「こんず」とは?
郁子さん:こんず・・・「麹」。漬物に使うんです。

カツさん:あど、くだもの、卵、あぶらげ、それから、季節季節の野菜とか、大豆な。やしゃもは、ほうれんそこな。

―随分いろいろなものを扱っていらっしゃんたんですね。どうして九嶋さんは、行商というお仕事を始められたのですか?

カツさん:え?

郁子さん:なして、最初こういう仕事やったかと。

カツさん:う~ん、なしてかって、子です、「すつにん」もおったもの。

―すつにん・・・。あ、7人?

郁子さん:家計を助けるために、始めたんです。

カツさん:なんぼかなぁ、すごしでも楽んにゃいいなぁ~と、そう思ったんだヨ~。

―そうなんですか・・・。九嶋さんのような行商のことを、秋田ではみなさん、何と呼んでいらっしゃるのですか?

カツさん:あぎね。

郁子さん:「商い」のことだっさ。

―ええと、その商いをする人のことは?

カツさん:どげん人?

郁子さん:「あぎね」すっ人。

カツさん:ああ、「あぎねっこ」な。「今日、あぎねっこに会った」というふうにもの。

―「あぎねっこ」ですか。昔は、「あぎねっこ」、九嶋さんの他にも何人かいらっしゃいましたよね?

郁子さん:ばあさん方のみとうに、行商行った人、何十人くらいいであったいな?

カツさん:いたいたいた~もう、ノスロ(能代)のほからも、オダテ(大館)のほからも、なんずうにん(何十人)もおった。


●秋田の地元の人たちは、行商や商いのことを「あぎね」という。行商人このとは「あぎねっこ」。「あぎねっこに会った」と呼ぶ。

●行商で取り扱っていたものは、野菜、卵、果物等注文があれば、麹(ぽんず)、油揚げ、揚げ物、大豆・・・また季節季節の野菜も売っていた。まつたけとかきのこも。とにかくたくさん扱っていた。それらを担いで売っていた。

●注文があれば、何でも取り扱う。材木も扱っていたこともある。秋田杉。一番注文が多かったのは「花」。 特にお葬式用に使う花の注文が多かった。今は葬儀屋がすべて手配するけど。

●昭和30年後半から40年代は、鉱山のピークだった。若い人がたくさん阿仁合に集まり、活気があった。そんな人たちからの注文が多かった。また、荷物を重そうにしていると運ぶのを手伝ってくれる人もいた。

●毎朝、能代の親戚の家で目覚め、午前4時、駅前の市に。そこで、色とりどりの品々を買い求め、汽車へ。鷹ノ巣での乗り換え時に、郁子さんが弁当箱を2つ持参。それを持って、阿仁合線の汽車に。阿仁合行きの汽車は7時40分くらい。

●阿仁合に着くのは、午前9時くらい。駅前の「千草旅館」前にござを敷き、朝ご飯にお弁当をひとつ食べてから「店」を広げる。それから、頼まれた品々を持って、各家に売って歩く。

●始めたばかりのころ話だが、若い人は皆働きに出ていて、家には年よりしかいない。家に金がないので、米で払うということもあった。

●帰りは18時前。19時には鷹巣に。郁子さんに空の弁当箱を返す。能代には9時近くに帰る。明日も早いのですぐ就寝。たいへんな重労働である。それを40年間続けていた。

●お休みの日なんてなかった。日曜日なんてなかった。お盆とお正月は鷹巣の実家に帰るが、後はほとんど能代に住んでいた。実家に夫を残したまま。九嶋さんが単身赴任しているという感じ。

●行商は、仲間4人で始めた。売るときは2人ずつに分かれて歩いた。最初の分け前はひとり7円ずつ。

●どうして、行商になったかというと、九嶋さんには7人の子供がいる。その子たちに食べさせるため、家計を助けるために始めた。

●九嶋さんは、86歳。78歳までやられていた。40歳頃から始められていた。

●昭和40年代は、行商もたくさんいた。能代からの汽車は、行商でいっぱいだった。特に阿仁合には、若い人が集まっていたため、車を使ってくる人もいたほど、それはたくさんの行商がいろいろなものを売りに来ていた。佃煮を売る行商は、自分の頭よりも高く佃煮を積んで売り歩いていた。

●行商をやってきて、汽車が雪で止まるなどのトラブルもあった。そんなときは、とりあえず鷹巣まで帰り、そこで実家や、実家までも帰れないときは駅前の旅館にに泊まった。40年間、阿仁合線は何時間か遅れたことはあっても、止まったことはない。

●九嶋さんは平成4年まで、行商を続けていた。スーパーマーケットの登場により、行商を行う人は年々減り、九嶋さんは日本最後の行商であった。

●行商を辞めたきっかけは、体調を崩してしまったから。3月のある寒い日、朝仕入れを終え、阿仁合向かうときに、具合が悪くなってしまった。阿仁合の駅で倒れて、駅員さんによって秋田の脳研究センターへ運ばれた。蜘蛛膜化出血だった。

●今は、たまに外科病院にいくが、その他は自由にのんびりと暮らしている。日曜日には必ずバスで30分のところにある鷹巣の町の湯之谷温泉まで出かける。

日時:平成12年10月8日
場所: 秋田県鷹巣町

■コメント

カツさん宅には2度訪問した。3度目をいつにしようかと思った矢先、とある電子メールをもらった。それは九嶋さんという見知らぬ方からであったが、文面によって、カツさんのお孫さんであることを知った。あまり知ることのなかった祖母の奔放な暮らしが伝わってきて、たいへん興味深かったとお褒めの言葉をいただいた。しかし、そこで初めてカツさんがお亡くなりになったことを知った。ご冥福を心よりお祈りいたします。

b77c6eda.jpg



6c74a5e0.jpg





朝8時ごろ~仏壇

お茶、炊いたご飯、線香
みんな健康で、無事に暮らせますように
「おいべつさま」にも、お茶とご飯
「だいじんぐさま」には、コップに水(昔はお茶)

お盆
13日~16日
12日:「ほとけさま(仏壇)」の中を掃除
   :位牌を出して拭いて、再度収納。
   :なすときゅうりの馬をつくる→仏壇に
   :花
   :果物などを供えることも
13日:お墓参り・・・・線香、「おさんごう(3合)」の米を紙にくるんで、石塔の前に
   :「みんな健康で、無事に暮らせますように」(→ごせんぞさま)
   :「13日には仏様が来るからよぉ、お墓参りしたりしたりゃいいだぁわ」
   :迎え火・・・13日の晩に。こまっこい木(紙でも可)を少し
          ゆうがた「仏さまが来る時分」6時くらい
          火はそのまま消えるのを待つ
   :「そのときにほとけさまがくるだんべ」
14,15日:「ほとけさまぁ、おこもりだぁよ」
   :おこもり
16日:なすキュウリの馬~川に流す。「だけど、川まで行くのはたいへんじゃんか」
    「16日はほとけさまぁ、おかえりだぁよ」
お彼岸
3月18日から一週間
・墓参りはお彼岸中に行く。
・「お彼岸とは何?」「暑いも寒いも彼岸まで、そうすりゃだんだんあったかく、さむくなるだぁわ」
お正月
・おそなえ(紅白のもち、お茶)を「だいじんぐさま」には、一番大きいのを。
「おいべつさま」「ほとけさま」にも。
・小正月(15、16日)・・・・「あずきのめし」を「だいじんぐさま」に

■1998年5月16日(土)原同行?

東京   6:50 やまびこ11号
盛岡   9:34
    10:34 はつかり5号
函館  14:56
    15:02 スーパー北斗13号
札幌  18:13


■17(日)

札幌  11:32 宗谷
音威子府15:19
    15:59
稚内  18:29 *網元
    22:13 利尻


■18(月)

札幌   6:00

夕張  南大夕張  大夕張水没地帯

札幌 金なく騒動  



■19(火)開拓の村

札幌  18:14 北斗星4号


■20(水)

上野  10:13

■1997年10月14日(火)
東京 6:20 あさま501号
長野 8:01 

■15日(水)
長野 15:24 あさま
東京 17:10


■1(金)

東京  19:10 ひかり273号
新大阪 22:04


■2(土)

JR東西線

宇和島の闘牛、高知の闘犬、日和佐のウミガメの産卵を見ようと。

ウミガメも幸運なことに見ることができました。

51cd825a.jpg



b357e17e.jpg



8c2d0a16.jpg



f047fd14.jpg






 
 歴史に詳しい友人Sから松代の地下壕のことを初めて聞いたときは少なからず驚いた。私も受験で日本史を勉強していたのだが、どの参考書にもそんな話は載っていなかったからだ。
 私が興味を示したのに気をよくしたSは、自らの歴史認識を交えながら滔々と語りあげた。その話の主旨は次のようなものだった。
戦局がにわかに厳しさを増してきた太平洋戦争末期、本土決戦を叫ぶ陸軍を中心に、首都機能を「疎開」させようという動きが盛り上がった。その疎開地候補としては、東京八王子などの名も上がったが、最終的に長野県松代に決定した。
地下壕建設のための岩盤が強固であることや国土の中心に位置するその地理的側面、そして何よりも「神州」を連想させる響きがその決定を促したという。
 八割がた完成した地下壕の総延長は十三キロにも及び、その工事には強制的に連行されてきた朝鮮人などが充てられた。この地下壕は食料倉庫や武器倉庫という名目で工事が遂行されていたが、じつは皇室、陸軍大本営、日本放送協会、官省庁といったまさに日本の中枢の疎開地なのであった。
 Sは自分の言葉に酔っている様子であったが、実際じゅうぶん魅きつけられる話であった。
「まあ、いってみればこれは紛れもない遷都計画だったんだ」
 彼はこう結び、得意そうに私の顔を見た。

松代を訪れたのは、その二ヶ月後の夏の暑い日であった。七月の上旬ということもあって、行きの列車は空いていた。
 松代駅から観光地図を頼りに地下壕入口を目指すのだが、この辺りはじつに見所が多い。武田信玄と上杉謙信で有名な川中島、佐久間象山の関連史跡、そして彼の出仕していた真田家の旧跡は、町の方々に散らばっている。
水量の豊富な小川に沿った道を汗を拭いながら歩くと、古い武家屋敷の前に出た。もう間もなくである。途中で道を尋ねたおばさんがそう教えてくれた。
 象山の麓にある入壕口には、市が管理するプレハブが一棟と三枚の案内板があるだけでひどく簡素だ。夏の日差しが辺りを真っ白に照らしだすのと対象的に、ぽっかりと開いた穴の中には、うす暗い空気がこんもりとたゆたんでいる。
 入口は縦横二メートルほどの木組でかたどられ、ひんやりとした空気がそこからもれてくる。なかに足を踏み入れると、黴びたような、それでいて乾いたようなにおいがした。
 坑道には規則的に投光機が吊されていて、むき出しになった硬そうな岩の壁面に濃い影を刻んでいる。
 しばらく歩くと、一本の坑道と交差した。だが、柵で塞がれていて進入することはできない。掘削された大きな石がこちらからの明りをぼんやりたたえながらいくつも転がっている。それより先は闇におおわれ、うかがい知ることはできない。どうやら見学用の坑道は整備されているようだ。
 こうして立ち止まると、すべての物音が消え去る。シーンという音が聞こえてきそうである。
 このように公開されているのは、縦横碁盤目状に掘り巡らされたなかの一部で、L字型をしている。私は左に折れた。ここにも投光機は吊されているので、前方の見通しはよい。歩いている人はどこにも見あたらない。夏休み前の平日では訪れる人もほとんどないのだろう。
 左右から交差してくる坑道を見ながら歩いていると、遠く向こうに道いっぱいの鉄条網が見えてきた。そのたもとに人影がある。
 背は低いが筋骨隆々としたおっさんであった。地元のボランティアの人なのだろう。少し時代がかった服、見方によっては軍服のようにもみえる服を着ていた。かつて姫路城を訪れたとき、鎧兜の名物おじさんがいたが、そういった類いであろう。
「こんにちは」
私が声をかけると、おじさんは頬を少し崩して深々と頭を下げた。手に鍵の束を持っている。
「未公開部分を見ることはできないでしょうか」
 私はその鍵の束を当て込んで、こう尋ねた。
「いいですよ。ついてらっしゃい、足元に気をつけて」
すんなりと話がまとまったのに面食らいながらも、私はおじさんの後から柵のなかへと続いた。
 さっきまでの公開部分と違って、こちらは足元に大小さまざまな岩石が無造作に転がっている。慣れた足取りのおじさんはカンテラの灯をユラユラさせながら進んでゆく。
「これをごらんなさい」
 明りの先には、炭のようなもので文字が書かれているが、私には何と書かれているかわからない。この地下壕建設に当たった労働者の落書きなのだろう。
「こういう物もあるよ」
 赤く錆びたシャベルが放置してある。柄は黒く垢光りしていた。その近くには、同じく赤く錆びた箕や、何に使うものなのか、鉄のパイプが数本散乱している。
「これはどうかな・・」
おじさんは岩の間にかがみ込むようにして明りをあて、今し方拾った錆びた鉄パイプを向けた先には、何やら塗料を垂らしたような染みがあった。
「ひょっとして血痕じゃないですか?」
「そうだよ。生々しいねえ」
 この地下壕に刻まれた痛恨の歴史がそこにあった。私は何ともやりきれない気持ちになると同時に、体になにやらまとわりつくものを感じた。この暗闇がそうさせるのだろう。振り返ると、柵の明りはすでに見えなくなっていた。
しばらく歩くと、おじさんは再びしゃがみ込み、ここを見ろという仕草をしている。そこにも血痕があった。Sからここで行われていた残虐な物語を聞いていたが、これほど酷いものだとは思わなかった。それにしても、この血痕はさっきのものよりいくらか新しく見えるのは気のせいだろうか。
「先に行きなよ。好きな方に行っていいんだよ」
 おじさんはこう言って、カンテラを私の方へ掲げた。顔の皺に濃い影が刻まれた。
「いや、僕は道がわかりませんから・・」
「いいからいいから。俺が付いているから安心しなよ」
 彼は私に無理やりカンテラを持たせ、私の背を小突いて前へと促す。私はどうしていいのかわからず、足元を照らしながら歩き始めた。
 大きな坑道はカンテラのおぼろな明りを壁面にたたえながら闇の中へと延びている。背後からは彼がぴったりつけて来る。鉄パイプを杖代わりに突きながら。
 ときどき壁面に灯を向けたりして平常心を装うが、耳殻と目の端に神経を集中させて、ぴりぴりとした緊張感を背後に向けている。
 奴はいつどう仕掛けてくるのか。いっそのことカンテラを岩に投げつけて灯を消してしまうべきか。同じような「武器」を見つけて立ち向かうべきか。しかし、奴の敏捷そうな立ち振舞いを見ると、それには少なからず危険がともなう。
 曲がり角にさしかかったとき私は左に折れようとしたとき、
「そこ、右」
 と一言、抵抗することを許さないといった低い声で奴は言った。いよいよ来るかと私は身構えた。右に曲がった瞬間勝負をかけようと心に決めた。振り返りざまにカンテラを奴に投げつけてひたすら逃げるんだ。奴が背後に接近して来た。
 さあそこだ。ささくれ立った岩を右に折れると、向こうに明りが見えた。
「そこで終わりだ」
柵を出ると、奴は手を差し出した。
「はい、案内料で五百円」
私は財布から震える手で千円札を渡し、五百円玉のお釣りをもらった。

bdecb61a.jpg



26601a10.jpg



4923e930.jpg



11cb8f54.jpg



1634228d.jpg



aa8488d9.jpg



3970446d.jpg



68dc05b0.jpg



4225e697.jpg



bd59b3c8.jpg



   薩南紀行

桜島を抱き込む薩摩半島は、いびつな斧のような形をしている。そして、この斧の刃の切っ先に位置する池田湖には、体長二メートルにもおよぶ大ウナギが生息するという。
 二メートルといったら、私の上背を優に越えるわけだ。すると、ウナギの頭も私の頭よりもひと周りも大きいのだろうか?目も人間並みに大きく、こちらに思索的な視線を投げかけるかもしれない。――こんなことを考えていたら、気味が悪くなって、腰の辺りが落ちつかなくなってきた。
 そういえば、小学校のころ、近所の川でウナギを釣ったことがあった。
 夏の夕暮れ時、暮色が濃く辺りをつつみ始めたころだった。竿先に微妙な当たりを感じたので、グイッを合わせると、その瞬間、黒い棒のようなものが水中から飛び出してきた。私は蛇だと思い、咄嗟に後ずさりした。それからしばらく、薄闇のなかでのたうち回る物体を見据えていたが、それがウナギであるとわかるまで、しばらく時間がかかった。勿論、ウナギを釣り上げたのは初めてだった。それまで生きているウナギは、縁日のウナギ釣りの水槽でしか見たことがなかったのだ。
 そのウナギは二○センチほどで、かなり小ぶりであったが、珍しい獲物に満足し、いそいそと帰宅した。そのウナギは蒲焼きになって、私の夕食のお膳に上った。
 私の釣ったウナギはともかくとして、普通ウナギといえば、我々は三、四十センチほどのものを思い浮かべるだろう。それが二メートルというのだから、実際にこの目で見たくもなる。
 それにしても不思議なものだ。なぜ魚ばかりが際限なく大きくなるのだろうか?富士の麓の忍野八海では、一メートルを超えるコイを見たし、琵琶湖には、同じく一メール級のナマズがいるという。利根川のソウギョは一メートル五十センチになるというし、北海道のイトウや朝日岳のタキタロウなど、幻の巨魚伝説は引きも切らない。人間をはじめとする動物は、そういうわけにはいかない。人間などいくら大きい人でも、二メートルほどだろう。多少それを上回るような巨人がいたとしても、ウナギと同じ相似比で拡大した九メートルには、遠く及ばない。水中の浮力が体格のリミッターを解除してしまうのだろうか。ともかく不思議である。

 百科事典や魚の図鑑などを開いてみると、簡単ながら記載があった。調べるうちに、我々が日ごろ目にするウナギとは違う種類のウナギであることがわかった。私はてっきり池田湖に何か仕掛けがあって、それによって巨大化するのではないかと思っていたのだが、どうも違ったようだ。
 またこれらの本のなかには、池田湖の大ウナギがそこで目撃されるイッシーという怪獣の正体ではなかろうか――という記述もあった。
 周知のように、イッシーとは池田湖で目撃される怪獣の愛称である。私は無論イッシーについては、屈斜路湖のクッシーなどとともに、かねてから興味を抱いていたが、どちらも何かの見間違えにすぎず、よもや未確認怪獣であるなんて本気で考えたりしたことはない。眉唾な怪獣の存在を期待値たっぷりに語るより、実在する化け物ウナギのほうがよほど面白いと私は思うのだ。

 七月中旬の平日のよく晴れた日、私はJR指宿駅でレンタカーを借りた。
 午後三時をまわったとはいえ、南国の夏の太陽はまだまだ高く、フェニックスが立ち並ぶ摺ヶ浜のメインストリートを真っ白く照らしあげていた。道の両側には、ホテルや旅館が軒を連ねているが、こう暑くては人通りも少ない。私はまず池田湖を目指した。
 市街地を抜けて、国道二二六号をしばらく走ると、前方に開聞岳の美しい山容が見えてきた。「薩摩富士」とよばれるだけあって、すり鉢をひっくり返したような稜線が見事である。地形図を見ると、杉の年輪のように、等高線が同心円を描いていて、その山となりがよくわかる。
 以前ここを訪れたときは、雲の笠をかぶっていて、その全容を仰ぐことができなかったのだが、今日は雲ひとつなく、西日をうけて青空に黒く際立っている。
 ゆったりした裾野にすうっと延びる道は、信号も交通量も少なく、じつに快適である。走るほどに山はみるみる左にスライドして行く。やがて池田湖に折れる交差点にかかり、今度は開聞岳を背にして走る。
 池田湖は栃木県の中禅寺湖ほどの、それほど大きくない湖なのだが、九州の湖のなかでは最も大きい。湖水はカルデラ湖特有の絶壁で取り囲まれていて、湖畔の狭い道路沿いには、全国どこにでもあるようなみやげ物屋や貸しボート屋が並んでいる。
 どの店にも「大ウナギ見学無料」という大きな看板を掲げていて、大ウナギを売り物にしている。そんな看板を掲げた一軒の貸しボート屋に入った。もちろんボートに乗るつもりはなかった。駐車場が広くて、入りやすかったのである。
 ひとけのない薄暗い店内に入ると、さっそく大きな水槽が目に入った。
「いらっしゃい、ウナギはそこ、見ていってよ」
 カウンターの向こうから声がした。気の良さそうなヒッピー風の男がそこで、釣り道具の手入れをしていた。
 「拝見します」と言って、水槽の中をのぞき込んだ。
――黒い丸太のようなものが沈んでいる。
――微動だにしない。
――水槽の対角線上にじっと身を横たえている。
 黒い巨体の上には、二○センチほどのニジマスが十匹ほど泳いでいる。この化け物の餌なのである。
 大ウナギの悪魔的な巨体に、ニジマスの銀輪がきらめく。精悍で獰猛な清流の王者もここでは、まな板の上の鯉、ならぬニジマスである。いつ訪れるともしれぬ死を恐れるでもなく、まん丸く目を見開きながらキビキビと身をよじっている。
 水槽に見入っている私に、店の人は得意そうに言った。
「それはね、一・五メートルくらい。こっちにもっと大きいのがいるから見てごらん」
 ボートの桟橋の付け根には、もうひとつ大きな水槽があった。
 蓋を外してもらい、中をのぞいた。そこにはさらに大きなウナギが巨体を泰然と横たえていた。こちらは体長一・七メートル、重量は二○キロを超えるという。頭は人間の子どもくらい、胴回りは成人男子のふくら脛ほどもある。
「この湖のウナギだけ、なぜこんなに大きくなるのですかね?」
 私は土地の人ならではの返答を期待した。
「種類が違うんだね、これはゴマウナギっていうの。この辺りにしかいないんだって」
 ゴマウナギ――よく見ると、体表にゴマのような斑点が無数にある。
「このウナギを食べたりするのですか?」
「昔はね。いまは天然記念物に指定されているので、獲っちゃいけないんだけど、ぼくが子どものころはよく食べたよ。ウナギっていったら、こういうものだと思っていたからね」
 天然記念物とは知らなかった。現地に行けば、大ウナギを食わせる店があると思っていたので、残念である。もっとも、この大ウナギは脂身が多すぎて、けっして旨いものではないそうだ。手持ちの百科事典にも、ひとこと「不味」と記してあった。
「ウナギは夜行性といいますから、昼間はずっとこうしておとなしくしているんでしょうね」
「そうだね。だけど、夜になると、大暴れ。蓋を二重にしておかないと、外に飛び出してしまうんだよね」
真の暗闇の密室で、二メートルもの黒い化け物がのたうちまわる。ニジマスなんてひと飲みである。
 桟橋を歩きながら、水中を凝視した。透明度の高い水の奥に、岩がゆらゆら揺れている。
 拝観料がわりに缶ジュースを買って、そこを後にした。他の店には、もっと大きなやつがいるかもしれない。
 次に入ったのは、ひと気のないみやげ物屋であった。私が入るなり、店のおばさんがやって来て、ウナギはこっち、ウナギはこっちと案内する。
 案内された水槽の中には、相変わらず無愛想な大ウナギが横たわっていた。二匹いるうちの一匹が頭を上に擡げていたが、何をするでもなしに茫洋としている。
 それにしても、不思議と見ていて飽きない。物珍しさや動きやしないかという期待感もあるが、それだけではないオーラを発しているのだろう。ガラスの壁にベッタリ張り付いていつまでも見ていられるが、少しでも顔を遠ざけると、得意そうにこっちを見ているおばさんがガラスに映って、うんざりさせられる。さっきから、ウナギの解説にかまけて、店の商品の宣伝をするのである。
 結局、大ウナギは微動だにしなかった。私は根負けし水槽から離れた。店には、池田湖の名を全国区にしたイッシーのキャラクターグッズが売られている。なんでも、この店オリジナルなのだそうだ。Tシャツ、帽子、タオルといろいろある。そのなかからボールペンを買って、拝観料とした。デフォルメされた恐竜のイラストがボールペンにプリントされている。
 このイッシーの正体が大ウナギであろうとは、かねてから囁かれるところである。私もその説に与するひとりだが、古本屋で見つけた『日本の怪獣・幻獣』(平川陽一/廣済堂文庫)という本を読んで、他にもいろいろな説があることを知った。
生き残り恐竜説、蜃気楼説、大蟹説、二○メートルもの大ウナギ説――とまさに
百家争鳴の様相を呈している。果ては、UFO説まで出る始末で、結局のところ何もわからない。
 このイッシー騒動のそもそもの発端は、昭和五三年の近所の小学生の目撃情報に始まるから、もう二○年も前になる。それに前後して目撃者が相次いだため、この地のイッシー熱は一気に高まった。指宿市もこの動きに便乗して、「イッシー賛歌」なるものまでつくって大いにはしゃいだ。しかしその後、目撃情報が途絶え、ブームはどこかへ行ってしまった。
ところがここ数年、ふたたび目撃情報が寄せられるようになり、市は「イッシー対策本部」を急遽設置し、二十四時間体制で湖面を監視するようになった。イッシーの写真には、十万円の賞金が賭けられ、各地から好事家たちがカメラを提げてやって来るようになった。しかし、今のところ賞金を獲得するような写真は撮影されていない。そもそもそんな怪獣なぞいるわけがないのだから、市も町おこしをするのなら、年に何回か、大ウナギを釣ってもいい日を作って、全国から太公望を集めるようにしたほうがいいだろう。そのほうが盛り上がるし、金も落ちる。

 みやげ物屋を出た。平日ということもあって、観光客はほとんどいない。湖畔をノロノロと徐行して、眺めのいい場所に車を止めた。湖をとりまく絶壁の上に、開聞岳がヒョコリと顔をのぞかせている。しばらくここでイッシーの出現を待ってみようというわけだ。
 小波だった湖面もいいけれど、凝視していると、体の軸がぶれるような気分になってくる。だんだん飽きてきた。もとよりイッシーなどいるはずがないと思っているので、一生懸命になれるはずもない。

 今夜の宿は、鰻池の畔の温泉宿にとってある。その名の通りこの鰻池こそが、この大ウナギの本家ともいうべき生息地で、そもそもこの池で大ウナギを釣ろうというのが、今回の旅の最初の動機付けであったといってもいい。私の持っている情報によれば、その宿で釣り道具一式を貸してくれるはずなのだが、当の大ウナギが天然記念物に指定されているのではどうにもならない。こうなれば、宿に早く着く必要もない。もうしばらく周辺を見物してから行こうと思う。
 来た道を戻る途中に「町営唐船峡そうめん流し」の看板が出ていた。小腹が空いてきたので、私はそこに向かった。

 駐車場の先の深く切れ込んだ谷底に、町営のと民間のと二つのそうめん流しが並んでいる。
 こういう場合、私は公営のを好んで利用する。たいてい公営のもののほうが粗雑でサービスも悪いが、そのぶん、安いしこちらも気を使わなくて済む。あまり恭しくされると、かえって恐縮してしまうものだ。ガソリンスタンドなどがいい例だ。ガソリンを入れるだけで、深々と頭を下げられると、かえって恥ずかしくなる。というわけで、私は町営の店に入った。
 唐船峡とは、川上神社の下の渓谷の名称で、一日十トンもの水が湧き出している。いつころからなのか知らないが、この湧水を利用してそうめん流しが始まった。今ではこの土地の名物の一つとなっていて、私もガイドブックでその存在を知っていた。
 渓谷を木板で覆い、その上に燭台のようなそうめん流しのテーブルが置かれている。その数は三、四百もあるだろうか、だが私の他に客は数組しかいない。
 食券を買って、テーブルについた。目の前で循環している水は、唐船峡の湧水である。旨そうなので、一杯飲んでみた。
 旨い――ような気がした。
そうめん流しは初めてなので、珍しくもあり楽しくもあった。でも、一人で来るところではないようだ。いい年した男が、平日の夕方にひとりでそうめん流しをやっている絵は、なかなか救いがたいものがある。
 店を出たのは六時過ぎであったが、まだまだ日が高い。長崎鼻を見てから、宿に向かおうと思う。
 ふたたび国道二二六号を走っていると、「西大山駅入口」という標識を見つけた。鉄道ファンでなければ馴染みがないであろうが、この西大山こそが日本最南端に位置する駅なのである。沖縄の鉄道は先の大戦で失われてしまったから、鹿児島県のこの駅が最南端の座についた。そんな由緒ある駅を私が素通りするはずがない。
 何もない駅前広場に車を止め、これまた何もない片面だけのホームに上がってみた。こんなに簡単なつくりの駅もそうはないだろう。
 短いホームの片隅には、「日本最南端の駅」と書かれた白い塔が建ち、長い影をひいていた。その左には、だいぶ雲がかぶさってきた開聞岳が控えている。鉄道雑誌でお馴染みの光景である。
長崎鼻は外海に突き出した岬である。「鼻」は辞書には載っていなかったが、「端」から同音を引き継いで転化したか、もしくは、人間の鼻のようにちょっとだけ隆起した所という意味から生まれたのかもしれない。おそらくその両方であろう。
 気になったので地図帳をパラパラとめくってみたら、九州だけではなく、本州・四国にも「鼻」がいくつも見つかったが、北海道や沖縄などでは見つからなかった。岬や崎と使われ方に区別はないようだが、この「鼻」という言い方にどこか気取りのない、上代の日本語を見る思いがする。
 車をエンジンをかけっ放しにして止めて、展望台への細い道を歩いた。両側は海で、断崖を見下ろすと、太公望が釣り糸を垂れている。
 岬の突端からは、海の向こうの佐田岬がよく見える。海岸線が果てしなく広がっているのもいいけど、少し大味なきらいがある。遠い島影などが見えたほうがずっと海の広さを体感できるというものだ。そこに開聞岳があり、背後から西日を受け、後光のように山の際を輝かせている。いいところだ。

 時刻は七時に近くなっていた。私は鰻温泉に向かった。
 畑の中の一本道をしばらく走ると、湖の畔に出た。これが鰻池である。
 池――とはいっても、実体は湖である。静かな水面は、西日を受けた山々を映し出している。
 やがて車は湯けむりのあがる小さな集落に入った。道はこの集落のために引かれたようなもので、ここがまさしくどん詰まりの終点である。集落にも終着駅の風情がある。
 私のとった宿は湖畔のすぐ近くにあった。通された座敷は、雑木林越しに湖水が臨める六畳間であった。この宿は初めてだが、玄関口や部屋のつくりなどに見覚えがある。
 私は寅さんフリークで、これまでにすべての映画を見ているが、その第三四作「寅次郎真実一路」で、この宿がロケで使われているからである。
 失踪したサラリーマンを探して鰻温泉にやってきた寅さんと大原麗子扮するマドンナは、ここの宿帳にその手がかりを得るのだが、じっさいは宿帳などなかった。
 また映画のなかで、この宿の入口のガラス戸に「釣り道具貸します」という紙が貼ってあって、私はそれを当て込んできたのだが、じっさいはそのようなサービスはやっていなかった。
 残念がっていると、宿のおばさんは、家で使っていたという釣りセットをどこからか見つけだしてくれた。私はそのセットを持って湖畔におりた。
 振り出し式の竿は三メートル近くもあり、それに古いガタのきた小さなリールが装着してある。そしてリールからのびる道糸の先に接続してある仕掛けには、十グラムほどのナツメ型錘と三本の鯉針が付けてあるだけであった。おまけに糸が竿先に一周分まとわりついていて、キャスティングもままならない。餌も何年も放置してあったのか、パサパサしていてとても魚の食欲をそそりそうにない。これで釣れるとは思わないが、ともかくやってみよう。
 大きく振りかぶって、投げる。
 ――シューッ、ドボン。
 大物やウナギのいそうな葦の陰に上手く放り込めた。竿を立て、当たりを待つ。
 山の端にかかる薄い雲には、うっすらと朱が注した。とりまく緑濃い絶壁からは、蜩が喧しく鳴いている。これでまだ七時半前である。夏の九州は得した気分になる。
 たしかに今日のような暑い日は、魚の喰いが悪いものなのだが、時間的には、この日没時に魚は腹を空かせて活発に動き回る。ウナギの化け物もそろそろユラリと身をよじることだろう。
 この池にも、大ウナギはたくさん生息するので、一匹くらい私の拙い餌に喰いつかないともかぎらない。ウナギでなくとも、一メートル級のコイ――魚拓が宿の食堂に飾ってあった――が釣れる可能性はある。そんなものがかかったところで、この道具で取り込めるかどうか怪しいものだ。
 しかし、そんな緊張感は長続きせず、十分もたつと竿を寝かせて、辺りを徘徊し始めた。釣れないのは折り込み済みだ。それならせめて本物をひと目でも見たい。私はしだいに暗さを増してきた水面を凝視しながら歩いた。
 いた――葦の陰で上体を擡げている。
 大きさはどれくらいであろうか。水中であることを勘案すると、一メートルは優にある。
 いつ動くのかと目が離せない。辺りはしだいに暮色を深め、ウナギの影がしだいに判然としなくなってきた。そんな私の焦燥をよそに、大ウナギは依然として動かない。水面が白くちらちらしてきて見えにくくなった。――まずい。
 苦肉の策として、足下の小石をウナギの影から少し外れるように放った。
 ポチャンと水をうった小石は、じれったいくらい波紋を広げた。そして、水面がふたたび静かになったころには、黒い影は消えていた。湖畔はいちどに暗くなった。すでに午後八時に近かった。

 宿に戻って釣り道具をしまうと、私はふたたび車で出かけるのだった。行き先は指宿である。目的は食事と風呂である。
 何時に着くかわからないと言って、宿の夕食は断っておいたし、せっかく指宿まで来たのに、砂蒸し温泉に行かないのはもったいない。明日は今日以上に慌ただしくなるだろうから、今夜のうちに行くしかない。このように私は旅に出ると、もとを取ってやろうとばかりにせわしく動き回って、貧乏くさいかぎりなのだが、これが性分なのだからしかたがない。東京にいるときも、これくらい精力的ならいいのだが。
 指宿への道は、これが日没直後とは思えないくらい、夜の闇が立ちこめていた。歩行者はおろか対向車もない。点在する民家から、仄かな明かりがわずかに漏れるばかりである。そんな夜道を二十分ばかり走ると、指宿の市街に着いた。

 指宿は一昔前まで新婚旅行のメッカであった。
 ちなみに、わが国で初めて新婚旅行をしたのは、坂本龍馬であるといわれている。内縁の妻おりょうとともに霧島山麓の温泉宿に逗留したのである。当人は新婚旅行をしているという自覚があったかどうか、はなはだ怪しいものだが、当時の社会慣習から鑑みると、男女が手を取り合って温泉旅行をするという発想は、一般人の理解を遠く超えたものであったことは想像に難くない。いずれにせよ、これが新婚旅行のはしりであるらしく、その後、それが定着するのを見ると、いまさらながら竜馬って凄いと思う。
 話を元に戻そう。
 とにかく指宿は、観光地としては超一級であった。ところが海外旅行がしだいに身近なものになるにつれ、指宿への客足は鈍り始めた。指宿はそれに対して、歯止めをかけようと、イッシーを観光の目玉にしたり、駅員がアロハを着たりと、涙ぐましい努力をしてきたが、新婚さんを呼び戻すことはかなわなかった。来るのは、私のような物好きの暇人くらいだ――と思っていた。
 ところが違った。通りには浴衣姿のそぞろ歩きが、意外なほど多く見受けられた。もっとも新婚さんではなく、四、五十年前に新婚さんだったような老夫婦である。その他は、中高年のグループ旅行の人たちで、その主体はおばさんである。日本を旅していて、最も目に留まるのが、中年女性である。私と行動のスタイルが似ているのか、とにかくどこにでもいる。
 それはともかく、指宿は老境をしっとりと楽しむのにいいところなのかもしれない。温泉はあるし、魚は旨い。
 砂蒸し温泉のロビーにも、十人ほどのおばさんのグループがいて、ビールを飲みながら嬌声を上げていた。
 浴衣に着替えて、サンダルを突っかけて砂浜に下りた。私はここは二度目なので、要領を得ている。筵の下にしつらえた砂場に横になると、砂掛けおばさんが両側から手際よくザクザクと砂をかける。砂の重みがズンと体にかかり、そのうち体が脈打ちはじめる。脳は働いているという自覚はあるが、体全体がこうして機能しているとは、ふだんなかなか自覚できないものだ。
 耳元で手持ち無沙汰な砂かけおばさんが、鹿児島弁で盛んにおしゃべりしているが、まったく聞き取れない。すぐ向こうには、さざ波が寄せては返ししている。おしゃべりが聞き取れないぶん、波の音がよく耳にはいる。耳の脇を汗が伝って行く。

 蒸された体に夜風は気持ちいい。これで旨い魚をたらふく食べれば、何もいうことはないのだが、あいにく金がない。今後の日程を考えると、計画的にならざるを得ない。私は駅前のスーパーで、ビールと薩摩揚げを数枚買って宿に戻った。
 十時だというのに、鰻集落はすでに寝静まっていた。集落の中を車で走ることすら気が咎めた。灯の落ちた宿の玄関口をそおっと開け閉めして、忍び足で部屋に入った。
 ちゃぶ台の上にビールとつまみを並べ、バッグから地図とガイドブックを引っぱり出した。
 明日は何処へ行こうか。薩摩揚げを毟りながら地図帳に見入り、グラスを呷りながら思いを巡らす。旅の醍醐味はこんな時間にあるといってもいい。網戸には羽虫がたくさん張り付き、漆黒の闇の向こうからカエルの鳴き声が聞こえる。


64e9c9fd.jpg



2917cfda.jpg



fb89eec3.jpg



3af523dc.jpg





最後のローカル線.pdf

「清水正夫」は祖父の名前。当時のペンネーム。

ll01.jpg


ll02.jpg


ll03.jpg


ll04.jpg


ll05.jpg


ll06.jpg


ll07.jpg


最後のローカル線6.jpg


最後のローカル線7.jpg


最後のローカル線8.jpg


95b0e28f.jpg



最後のローカル線9.jpg


d41b7605.jpg



最後のローカル線11.jpg


最後のローカル線15.jpg


最後のローカル線12.jpg


51276c57.jpg



●あの駅はいま……

fc2fd0b3.jpg



6a7393c1.jpg



fc2fd0b3.jpg




■30(火)

新潟港

■31(水)

小樽

夕張、帯広、霧多布

根室 ツーリングトレイン泊

■1(木)

摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖、釧路湿原

ライダーハウス泊

■2(金)

知床

網走

駐車場泊

■3(土)


紋別

名寄

深川

駅前駐車場泊

■4(日)

深名線

旭川 ホテル泊

■5(月)


万字、夕張

函館

■駐車場泊


大間

恐山、野辺地

十和田湖、大館

長岡

翌日、寺泊にて釣り。その後帰京。

■1995年8月10日(土)

東京  13:35 ひかり235号
米原  16:01
長浜
大阪


■11(日)

王寺
奈良
木津
京橋
大阪  20:33 なは


■12(月)

鳥栖   5:56
     6:34
日田   7:54 *財布紛失…
    10:51
久留米 11:53
熊本


■13(火)

熊本
柳川         *柳川
大牟田  15:46
熊本   17:07
出水   19:15 *武家屋敷
     20:41 
西鹿児島 22:41


■14(水)

鹿児島  *ジューヤン・リー氏、中脇母から借金、ハラ救援


■15(木)

西鹿児島 10:50 きりしま6号
南宮崎  12:47
     13:11 にちりん5号
宮崎空港 13:18
     13;53 にちりん44号
(佐土原)14:19
(延岡) 16:34
別府   19:52 *鉄輪温泉


■16(金)

別府
大分  12:47
日田  15:32
    15:49
田川伊田17:05
    17:09
直方  17:39
    17:40 赤い快速
博多  18:33


■17(土)

博多
岡山
東京

岡山県吉備津神社に伝わる釜の占い。

その来歴を調べてみました。

kibitu.pdf

1b70a9ef.jpg



16f77942.jpg



18604b2f.jpg



8a0ff17b.jpg



275d5958.jpg



131dee7d.jpg



4447cb4c.jpg



a6a9e134.jpg



37e02120.jpg



b9cba368.jpg



692fc3d4.jpg



4a96b935.jpg



a504f210.jpg



77f0228b.jpg



b9604884.jpg



139a3fb2.jpg



f695300c.jpg



091db1db.jpg



00cfbd5d.jpg





長野県松代に遺る、大本営予定跡に関する原稿です。

daihonei.pdf





■1995年2月15日(水)

東京 23:40 大垣夜行


■16(木)

名古屋 6:02
    6:24
亀山  7:37
    8:00
加茂  9:16
    9:22
奈良  9:37
   10:23
天理 10:37 *山辺の道
三輪 15:37
天理 15:49 近鉄
京都
野洲 17:58
長浜 18:33


■17(金)

長浜
住吉 13:00 *神戸
大阪


■18(土)

新大阪 11:17
新横浜 13:56

■1995年1月4日(水)

950107松江・出雲周遊券


東京   21:18 出雲3号
松江   10:09
     17:04 出雲2号

950105松江・鳥取


鳥取   19:42


■5(木)

鳥取   10:25 スーパーはくと4号 *大雪

950106鳥取Sはくと


姫路   12:00
     12:04
岡山   13:25
備前一宮 *吉備津神社、吉備路
岡山


■6(金)

*吉備路
岡山   18:09
東京   21:24
     21:45 かいじ
上野原  22:54


佐倉の歴史博物館に寄ってから成田へ。

香港では北島と合流。

 941217NEX

↑このページのトップヘ