






































清水キン子さん(山梨県上野原町)
あつ子
正月を迎えるにあたって
年末は、和服の仕立てや、正月の準備のため、てんてこまいであった。
正月用の和服を31日にギリギリ間に合わせるのを、傍らからみていても大変な様子であった。
年末には、私たち子供の正月用の衣類を買ってもらう。学校から帰ると洋服ダンスの中に新しい紺色のボックスがつるしてあった。とてもうれかった、店子の佐藤洋品店から、家賃と棒引きに衣類をもらった。 食器などは、越前屋で買い揃える。
お松飾りは諸角青果店で買い揃える。
明けて正月、三が日はお雑煮は神々に供える。これは男の役目、長兄がしたと思う。私は朝の日の光が障子ごしに、新年がきたように感じた。
日常、母は、朝食の前に仏様や大神宮さまに、お茶とご飯を供えて、長いことお祈りをしていた。私の子供たちが泊りにいき、その母の拝む姿の脇で朝ご飯をおあずけにくっていた。母は長いお祈りの合間に「仏様が先だよ!」と子供たちに声をかけ、再びお祈りを続けた。)
日常、母が和服を仕立てている、祖母は手がすくと、母の仕立てをしている部屋の一段差がついているところに座って、母と話しをしていた。その部屋は父の歯科医院をしていた時の治療室であった。)
朝は、祖母と母は、手分けして、座敷の掃除をしていた。
母は仕立て代を請求しずらいらしく、相手がくれるまにもらい、相手が持ってくる日まで、何ヶ月も待っていた。
和服を知り合いの家の娘さんが嫁入り前に習いに来ていた。
最近になって母から聞いたところ、月謝をもらわずに、ただで教えていたと言うことです。
佐藤洋品店から、家賃を棒引きで私たち子供の新しい衣類を手に入れた。
9月の牛倉神社の祭りの時、御輿を担ぐのに、新しいシャツとパンツと白足袋を、岡部 大工の7人の男の子達にもあげていた。
岡部大工の私と同級のアキラさんが後年、同級会のとき、あの時のシャツはうれしかった、と述懐していた。
あつ子
日常の想い出
夜なべで、コタツで和服を縫っている母、私は傍で一緒に宿題をする。
火の番のチリンチリんという鈴の音が蔵の前まで入ってくる。母は夜なべの電気の光あを気にしてか、電灯に布をかぶせていた。
祖母の前で、昼寝などした事の母、夜になると、コックリコックリが出てくる。
祖母が亡くなってからも、昼にうたた寝をしている時、私などの足音がすると、跳ね起きた母、 何年にも渡ってその習慣は消えなかった。
祖母の五能がきかなくなり、私と母とで祖母がトイレの前のおマルにいきたくて、モゾモゾしている気配がする。私は気がつくが母は寝込んでいる。私は母にぶつかるようにして、祖母のことを知らせる。母はハネおきて祖母をトイレにつれていく。
祖母の晩年
コタツに座らせて、テレビを見させる。母は祖母の好きな塩饅頭を毎日、近所の永井饅頭屋まで買いに行く。
祖母は、若い頃,近所の人たちのお産の介助をしたり、その他、いろいろと面倒をみてやったので、70才の時近所の人たちに浅田屋に招待され紫色の布団を贈られた。
気丈な祖母のかげにかくれていた母も、祖母がなくなってからは、近所の人に,人柄のよさがすこしずつ分かってきたようだ。近所の植松のおじいさんは、母のことを仏様のような人、と言ってくれた。これは兄の縁談で様子を聞きに来た人に伝えたこと。
祖母が亡くなったあと
四十九日までは、母と毎日墓参りに行った。土葬であった。棺に結わえられた縄が地上に出ていた。その縄を握って、「おばあさん来たよ」と言って揺すった。
あつ子
祖母も、母も勉強には真面目であった。
兄の入試に際して、牛倉神社や天神様へ、お百度を踏んだ。私はいつも一緒だった。
祖母は勉強している孫たちに、りんごを坂本八百屋から買ってきて、机の上にひとつずつおいた。八百屋のおばさんが感心してそのことを語った。
後年、母も孫たちに同じようなことをしていた。
幼稚園の坂から園の中にいる孫の姿を毎日見ていた。
孫が好きだと言ったお菓子は、毎日毎日10個位買ってきた。この事は孫である、陽子や暁子が言っていた。私の家に泊まった母は、翌朝、孫娘たちと登校途中にある自分の家まで一緒に行った。
ある時、孫の宿題のアサガオの鉢を持ってやる、と言って、それを持ってころんでしまい、困ったことを、孫の暁子は話していた。
孫の雄歩が1~2才の頃、吉田屋、木村時計店、大黒屋と雄歩が寄り込む店につれていかされ、ウルトラマンと同じ物を3個も買ってきて、雄ちゃんは、~と困っていた。
小学校時代の雄歩は、三村屋、大黒屋で毎日プラモデルを母から買ってもらった。
女学校時代の母
藤沢のおばさん(父の姉)と川崎の祖母の妹のクラおばさんの嫁ぎ先である伊東病院に川崎高等女学校に通うため下宿をしていた。
川崎高等女学校には、1年上に、作家の中里恒子さんが在学していたという。
お金がなくなると、沢井の父親にマルを送って下さいと、手紙をかいた。
晩年まで川崎駅から蒲田方面の駅の名前を順々に言えることに暁子は驚いていた。娘時代の行動半径だと思う。
父親が町の市に出かけると、「着物、帯などを買ってきて」と言うと、父親は買ってきたらしい。 甘えっ子だった。
健二
○ 明治43年神奈川県の西北部、東京都と山梨県に隣接する神奈川県津久井郡沢井村(現在藤野町沢井)に三男二女の末っ子として生まれる。
生家は素封家で物質的に何不自由ない家庭に育つ。
3歳の時、母親と死別、以降12歳年上の姉が嫁ぐまで母親の役割をする。
親が決めた嫁ぐ準備のため、村として初めて女学校に進学する。
近くの女学校ではなく、川崎市の川崎高等女学校である。
下宿先は嫁ぎ先の山梨県上野原町の清水の親戚である医者の家であった。
○ 大正12年、関東大震災にあう。そのご地震ある度に余程恐かったとみえて、大震災のことを口にし「あん時はおっかなかったーよ」が口癖であった。
○ 鋼管会社(現在のNKK)、高津、宮前、溝口、等川崎の事をよく口に出していた。
○ 嫁ぎ先の清水の跡取りである正男が歯科医となり、間もなく結婚する。
清水の家は義父が教師、義母(しっかり者のおばあさん)が質屋経営、夫が歯科医、資産もあり裕福であった。
これからは義母を「おばあさん」本人を「ばあちゃん」と言うことにする。
○ 長男が幼稚園6才、次男が2才11ヶ月、長女が腹の中にある時、夫である正男が31歳で脳出血で帰らぬ人となる。昭和19年12月のことであった。翌年昭和20年5月に長女が生まれる。
昭和18年義父の死亡、昭和19年夫の死亡と、たて続けに大黒柱を失う。まさに泣きっ面に蜂そのものであった。
これを境に、“ばあちゃん”の人生は大きく変わり、ただひたすらに子供の成長を楽しみにするだけの人生が始まる。
健二
○ 清水の家は、教育熱心で、親戚には医者が多く、学者、官僚等もおり、親戚つきあい、地域のつきあい等、当時のことでは、男のいない家を“おばあさん”と“ばあちゃん”で守っていくのは大変なことであったと思う。
○ おばあさんは明治18年生まれの、いわゆるイメージは“明治の女”そのものであった。
“ばあちゃん”の“おばあさん”に対する印象は「おっかねえ人だったが情のある人だったよ~」と言っていた。
○ ばあちゃんに化粧ひとつさせなかった。ばあちゃんはお風呂のあと顔にクリームを塗る程度であった。
この後はおばあさんが死んだ後のことである
ばあちゃんは口癖のように「おばあさんがいたから子供が育った」と言っていた。
昼寝をする時は襖を閉めて寝ることよくあった。
さぜなら、居間にあるおばさんの写真がから見えないように昼寝をしていた。
寝ていても、人が来ると、さっと飛び起きる習慣があった。余程おばあさんが恐かったと様子。
奇麗好きで、健康には神経をつかっていたばあやんは、出入りの多いあったが、ちょっと弱そうな人等が来ると、帰ったあと、湯飲み茶碗を熱湯消毒していた。これも、家族が健康であって欲しいことからと思った。
子供が受験勉強していても、10時を回るころには「早く寝ろよ」と健康に気をつかった。
お陰でノー天気な次男の私は助かった。
長兄と妹は、11時以降勉強していたことは希のような気がした。
次男の私は11まではもちろんのこと、学校以外での勉強が希であった。
次男の私は、試験は一夜漬けの勉強が多かった。ばあちゃんは「次から前以ってちゃんとやれよ」言ってくれた。優しいのか、それとも厳しさがないのか~。
いまになれば私も後悔している。あまりにも遅すぎた、後悔先にたたずとは、この事である。
健二
我々兄弟は中学校から八王子の学校に越境入学していた。
高校は長兄が立川、次男の私が荻窪、妹は八王子であった。
電気釜のない時代、ばあちゃんは夜中と夜明の間ぐらいに起き“かまど”でご飯を炊き、食べさせ、私が見えなくなるまで送り出していた。
健康に敏感なばあちゃんは、医者は良い職業と思っているも、“きたないものを扱う、弱いものを扱う”という先入観があった様子。
長兄が国立の東京医科歯科大学に合格するも、おとうちゃん(夫)の早死にがいつも頭にあり、当時の国立一期校、二期校を断念させ、私立大学にいかせた。
毎日、お茶とご飯を神棚、仏壇にそなえ、手を合わせ、かなり長い時間拝んでいた。何を心の中で言っていたのか、もらいものは、まず仏壇へ、ご先祖様のお陰、感謝の行為箪笥には、いい着物があるも、いつもモンペ姿であった。
孫たちの強い印象の一つに“おいしいコーンスープをよく作ってくれた”ことである。
夏の炎天下、よく畑のくさむしりをしていた。おばあさん(姑)が何かと面倒を見た畑の近くのおばさんが、お茶を入れたり、手伝ってくれていた。そのおばさんは“ばあちゃん”のことを「姉さん、姉さん」と呼んでいた。
お父ちゃんが生きていたら、こんな草むしりなどしなくてもよかったのだがと私は思った。
だが、“ばあちゃん”は、そうは思っていない様子であった。
“生きていれば”という,IF(もしも)を言わない人であった。
ばあちゃんのえらいところは、自分の身内の者でなく義父、義母の親戚、また、他人を受け入れる、いわゆる自分以外を大切にする人であった。社交性はなかったが、心、気持ちが寛大であった。
年一回、実家の地域のお祭りの時、泊りがけで行くのが楽しみの様子であった。
ばあちゃんの“きらいなタイプ”
○自慢話を一方的にしゃべる人 ○ずうずうしい人
健二
息子、娘の誕生日には赤飯をふかした。クリスマスは息子、娘の子供の頃、その後の孫たちにも関心がなく、プレゼントはなかったと、記憶している。
神様、仏様の行事にはうるさかった。年末、年始の飾り付けの準備、彼岸、盆の仏様へのお供え、飾り付け、またお寺さんへのご挨拶、他人を拒絶しない、誰でも受け入れる。長居をするお客に対し、体調が悪く横になりたい時にも我慢している。
自己犠牲が強い、もっと自分を主張してもいいのではないかと思ったが、それが、ばあちゃんのいいところ。
和服の仕立てがうまかった。一時仕立ての仕事をいていたが、納期の迫った時は徹夜であった。その時電球の笠に布をかけ、灯りが漏れないように手元だけ明るくしていた。
仕立ての部屋に我々の勉強机があった。
仕立てのお弟子さんが2人いたが、楽しそうに話しをしていたのが印象に残っている。
朝早くから夜遅くまで、田んぼ、畑の仕事、洗濯、炊事なだの家事、和服の仕立、良く働いていた。 昼間のこっくり(居眠り)をよく見たことがあった。眠いのも無理がない。
○この後は息子、娘の結婚そして孫たちの話になる。











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