22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

●父と鉄道

薩摩大口駅──それは国鉄マンであった父の最後の職場であり、さかのぼれば、母方の曾祖父の土地に開業した駅でもある。大きくなったら国鉄マンになって、父のあとを継ぐ場所だと心に決めていた「駅」である。

私が物心ついたとき、父は油津駅で、改札と構内アナウンスを担当していた。

──油津 油津 ご乗車おつかれさまでした。車内にお忘れ物のございませぬ よう、お手回り品にご注意下さい。まもなく宮崎行きが発車いたします。次の停車駅は日南、日南でございます

というフレーズを幼い私は、

──あぶちゅー あぶちゅー おつかれました。つぎのていちゃえちは ちなん ちなんでじゃます

と真似していたそうだ。遊び場は当然、父の働く駅である。終日、貨物列車の入換を見たり、出札口にちょこんと座らせてもらい、汽車の絵を描いたりしていた。

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●赤字ローカル線が俎上に

昭和50年代後半、莫大な累積債務に喘いでいた国鉄は、それを脱却するには徹底的な合理化そして分割民営化を余儀なくされていた。その具体策として、赤字ローカル線が俎上に上がり、私の住む大口を走る山野線、宮之城線が選定・承認された。

そのころ高校生であった私は大きなショックを受けた。父を始め、家族全員がたいへん世話になり、思い出のいっぱい詰まったこの薩摩大口駅──感謝の意を込めて、「今できることを精一杯しておこう」と決意したのは、この時である。以来、私は写真撮影や資料の収集に奔走した。それはまさに時間との闘いであった。

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●薩摩大口駅の来歴


薩摩大口駅は伊佐盆地で収穫される米や木材の輸送路線として、大正10年9月11日に開業し、それまで栗野まで馬車に頼っていたこれらの移出や、肥料・食塩その他の物産移入に寄与した。
その後、昭和12年12月12日、山野線の久木野・薩摩布計間、川内方面から東に建設を進めてきた宮之城線の薩摩永野・薩摩大口間も全通し、薩摩大口駅は北、西、南に鉄路を延ばす交通 の要衝としての地位を築いた。

戦時中、軍人の出征や遺骨の出迎え、そして種子島からの学童疎開の受け入れ、米国戦闘機による駅への機銃掃射に見られるような暗い時代を経て、戦後を迎えた。そして高度成長期に入ると、旅客列車のディーゼル化、宮崎・出水間を走破する準急『からくに』号が運転されるなど、鉄道の全盛期を迎えるに至る。
しかし、昭和40年代後半入ると、マイカーに押されて利用者が減少し、ダイヤが間引きされ、貨物輸送は57年11月15日、荷物は59年2月1日にそれぞれ廃止され、旅客営業だけとなった。

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●鉄道の恩恵


鉄道によってもたらされた恩恵は絶大であった。これまで陸の孤島として、新鮮な海産物とは縁遠かった大口であるが、水俣方面で取れる海産物を両手と背中一杯に背負ってやって来る行商のおばさんたちのおかげで、人々は新鮮な海の幸を口にすることができるようになった。

また、駅周辺には、国鉄の物資部、運送店、米検査所、製材工場、商店、金融機関などが次々と建設され、産業、地域経済の発展に大きく貢献した。また、馬車や船で一昼夜近くかかっていた鹿児島までの道のりも3時間あまりに大幅に短縮され、人と物資の流動性が一気に促進された。
このように、鉄道そして駅は地域経済、そして街づくりの中心として重要な役割を演じてきたのである。


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●地域社会の中心として

薩摩大口駅の朝は、山野、菱刈、薩摩永野方面からの通学生で賑わう。往年は4~5両編成でも満員で、一番後の学生が降りるころには、もう先頭の学生は大口高校に達していた、というくらい長い学生の列が駅と学校を繋いでいたという。
昼は、近隣から大口へ病院通いのお年寄りや買い物客がやって来て、駅前通りは活気にあふれ、夜は、帰途のひとときをくつろぐ勤め人が近隣の酒場を賑わせた。

二本のレールは全国に延び、各地の親戚、知人との一体感・安心感を生み出した。そして、その玄関である駅は、単なる汽車の乗降場としてだけではなく、コミュニティーの中心として機能し、様々な人生模様の舞台となったのだ。

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●駅は眠らない

山野線、宮之城線の分岐駅であった薩摩大口駅には、昭和50年代後半まで駅長以下首席助役、助役、運転主任、改札、出札、小荷物担当の他信号場、機関支区、保線区などに約100人もの職員が在籍していた。

早朝5時ごろからの始発列車の仕業検査、入換からはじまり、朝礼、点呼、乗客への案内、通票閉塞器を使用しての運転業務など、職員はそれぞれの業務をキビキビとこなし、午後9時過ぎの終列車の発車後も翌日の準備などに余念がなかった。
泊まり勤務の職員もおり、ディーゼルカーのアイドリング音は、休むことなく、夜通 し駅構内に響き渡っていた。

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●「鹿児島の北海道」

大口の別名は「鹿児島の北海道」──。四方を山に囲まれた盆地の中心に位 置し、冬は放射冷却現象で氷点下7~8度まで気温が下がる。また南九州には珍しく、年に数回積雪もあり、大口駅で十センチぐらいの積雪でも山間部では数十センチにもなり、大口市から川内、人吉方面 、水俣・栗野方面への国道が軒並みチェーン規制や通行止めになるなか、山野線、宮之城線は運休することなく定時運行した。

──汽車が走っで陸の孤島にならんじすんなあ。まこて心強かど

こうした近所の人の声を、私は朧気に記憶している。

しかし、その陰には、カンテラを焚いてポイントの凍結防止に努め、始発列車にさきがけて線路の点検や吹き溜まりの除雪作業に出動する保線区員、見通 しが悪く運転感覚も違うなか慎重に運転する運転士、安全運行を駅で支え見守る助役──そんな人たちのたゆまぬ 努力があったのだ。


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●廃止に至る日々


廃止の日程が決定すると、今まで無関心であった沿線住民が堰を切ったように乗車し始めた。JRが走らせた「さようなら臨時列車」は日を追うごとに別れを惜しむ人々であふれかえり、沿線には日頃皆無に等しかったカメラやビデオを持った人々が繰り出した。ガラ空きだった定期列車でさえも、都会のラッシュ並みの混雑で積み残しが出るほどであった。

鉄道マン達は、最後の日まで安全に列車を運行することを懸命に取り組んでいたが、次第に別れの時が近づいて来ると、

──胸にこみ上げてくるものがあり、本当は放送したくはないんです・・・

と車内放送で、心情をもらす車掌もいた。
私は引退した父に、何度か「駅に一緒に行ってみよう」と声をかけたのだが、決して腰を上げることはなかった。


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●薩摩大口駅、最後の日

山野線、そして薩摩大口駅最後の日となった昭和63年1月31日、早朝よりたいへんな人出であった。定期列車は予備車や日頃他線区で運用されている車両を増結。鹿児島・宮崎各方面 からの「さようなら列車」、その合間を縫って団体列車が線路容量いっぱいに運転された。
JR、県、大口市それぞれの廃止記念式典、山野線を陰から支えて下さった方々への表彰、JRからバス会社への「ハンドル引き渡し式」、乗務員や駅長への花束贈呈や発車式などのイベントが催された。

午後10時過ぎの最終列車の見送りでは、「蛍の光」を背景に、感謝や別れの声が飛び交った。泣きむせぶような長い汽笛を鳴らしながら、ゆっくりゆっくり走り去っていく列車を、私たちは断腸の思いで見送った。
そして自分にとっていかに大切なものであったかを痛感し、先人達が想像もできないような努力をして開業させ、私たちにたくさんの恩恵を与えてくれたこの駅を、みすみす廃止させてしまった世代の人間の一人として、やりきれない思いに苛まれた。

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●廃止から13年

2月1日──それは山野線・薩摩大口駅の廃止された日である。早いもので今年で13年になる。
駅なきあと、大口市は人々の交流・文化の中心地になるようにと願いを込めて、ちょうどホームのあった場所に、平成4年『大口ふれあいセンター』を開館。アトリウム、図書館、多目的ホール、そして鉄道があったころの様子を語り継いで行くための資料館がある。
線路敷は道路になり、都市計画事業もあいまって、駅周辺に鉄道があったころの面影を伝えるものは何もない。久方ぶりに大口市に帰省した方からは、あまりの変わり様に『まるで浦島太郎になったようだ』との声が聞かれるほどだ。

私は鉄道マンにはなれなかったが、父が働いていたこの場所に建設された「ふれあいセンター」に勤務し、鉄道の案内をしていることに奇妙な縁を感じる。今は、薩摩大口駅の思い出を風化させず、未来に伝えていくことが私の使命であり、はなむけでもあると考えている。

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●“箱庭”の風情

「春の霞がかかる山々に囲まれた小さな駅に下り立つと、山の奥からは採掘の音が聞こえてきました。ちょうど駅前の桜が満開で、まさに“箱庭”とでもいうような風情でした」

渡辺誠さんは当時をこう振り返る。今から約25年前、初めて東赤谷を訪れたときのことだ。東赤谷の雰囲気にすっかり魅了された渡辺さんは、以来、この地を何度も訪れた。

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●ヤマの賑わい

1970年代の東赤谷駅は、まだ鉄鉱石輸送でたいへんな賑わいをみせていた。この駅から、専用線でさらに分け入ったところに採鉱所があるのだ。駅には間断なく、山奥からの貨物列車が到着し、貨物列車に積み荷を移していた。
駅付近には、鉱山に務める人たちの家々が軒を連ね、山間のわずかな平地に民家がひしめいていた。その数は最盛期に100戸を越えていたという。


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●夕刻、小さな駅は活気づく

夕方になれば、新発田方面 から息を切らせて登ってきたディーゼルカーがスイッチバックを経由して短いホームにちょこんと停車する。そこから、黒い制服姿の中学生、高校生が降りてきて、小さな駅はにわかに活気づく。

佐藤諭駅長は、その誰とでも顔見知りだ。


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●駅の思い出

「私が駅長の頃には、乗客は学生さんだけでした。週末になれば、焼峰山などに登る人も来ましたけど・・・。とにかくみんな顔見知りでした。駅の周りには、小学校や銭湯、商店などもあったんですよ。でも、今はもうないでしょうね」

当時を懐かしむ佐藤さんは、現在、山内に住んでいる。かつて「新山内」駅があったあたりである。

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●駅長はいま

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まもなくススキを透して右手に一段高く東赤谷駅のホームと直立する駅長の姿が見えてくる。
(宮脇俊三著『終着駅へ行ってきます』「東赤谷」より)
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この「直立する駅長」が、佐藤諭さんである。 佐藤さんは、赤谷線が廃止になる年、国鉄を定年退職した。その後、悠々自適の生活を送っていたが、最近、心臓を患い、療養生活を送っている。 「もう72──、歳ですよ」──と自嘲するが、佐藤さんの笑顔は今も若々しい。


●汽車か、道路か

──汽車がなくなるということになったとき、村中みんな反対しましたねえ。でも、道路を代わりにつくるというので、納得したんですよ

──汽車と自動車、どちらが便利だと思いますか?

──やっぱり、そうねえ、道路の方がよかったのかねえ・・・

「東赤谷」の対岸には、滝谷と呼ばれる集落がある。ここに暮らす星和子さんは、赤谷線廃止当時の記憶を辿る。

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●鉄鉱石を運ぶ汽車

赤谷線は大正9年、商工省製鉄所専用線として開業した。当初は、途中駅である簀立沢までであったが、大正14年に赤谷、昭和16年に東赤谷まで開通した。

急勾配に位置する東赤谷は、スイッチバック式の駅であった。これは国鉄の終着駅としては唯一の存在として、よく知られていた。

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●あの駅はいま

しかし、鉄鉱石の産出が減少したことと、モータリゼーションが進む中で、東赤谷に住む人々は土地を後にした。そして、昭和58年、赤谷線は地元の合意を得た上で廃止されることになった。

東赤谷駅の駅舎は、赤谷線が廃止されても、しばらく残されていたが、3年の後、ついに取り壊された。現在、跡地は整地が進み、その面 影を残すのは、駅の入り口脇に立っていた大きな桜の木だけである。


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水野正雄(みずの・まさお)さん(83)
大正9年、東京・新宿、神楽坂の染物屋に生まれる。旧制中学を卒業、昭和15年に中国へ出征。
焼け野原の神楽坂に復員後、食糧庁に勤務。大病を患い、その療養中に、歴史学、考古学の面白さに目覚め、図書館に通いつめる。
退院、食糧庁退職後は、家業の傍ら、全国各地の寺社や文化遺産、発掘現場などを訪ねる。個人事業主の税制改革や、
新宿区の地場産業の振興にも尽力。地元・神楽坂で、三時間にも及ぶ歴史散歩「まち歩き」も行う。

日時:平成14年2月17日
場所:東京都新宿区
聴き手:新藤浩伸

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あそこに店を構えてもう100年になります。うちの親父は96で亡くなりました。17のときに商売始めてるんですよ。11のときに人形町に奉公に出てるんです。着物の整理って奴ですね。我々の職業言葉でいう「ゆのし」ってやつです。着物を織ったり染めたりして、最後の仕上げで湯気でふかすわけです。

――糊づけでぱりっとさせる、ということですか?

いや、のりづけでなくて、反物の幅を全部そろえるわけです。そういう整理屋さん、ゆのし業。着物関係は全部で22業種あるんです。これがまとまらないと、一反の染物ができないんです。だから昔はどの町にも、紺屋町っていう町があった。江戸時代には神田にあった。関東大震災で丸焼けになって、染物屋さんも、再建するならもっと水のきれいなところでっていうんで、別の場所を目指した。それで大体決まったのが、高田馬場から落合。で結局新宿で今染物屋が残ってるのはその範囲内。新宿は今でも染物の本家本元なんです。

新宿区の地場産業ってのは、染物業と印刷業。地場産業ができたときが、私の記憶によると、昭和53年ごろ。私が60歳ぐらいだったかな。胆石で入院していて。そのとき総会が開かれて、のっけから私が副会長で、欠席裁判で入っちゃった。全然私知らなくて、出てきたら副会長だよって(笑)。会長が双葉屋さんっていう老舗中の老舗、落合の小紋屋さん、でご当人当時で80何歳、で92歳まで会長やったの。6年か7年、その間私がずーっと副会長でお付き合いしてて、よく新宿の区長に呼ばれて、「いつまでも90代でやらせることねえじゃねえか」って言われたことあったですよ、先代の山本区長に(笑)。そしたらまあ、92歳で引退するって言い出して、「私の遺言だ、水野さんを会長にしてくれ」って、でこんどは私が二代目の会長になった。

で私の代にね、たまたま西新宿で区に一億円を寄付した方があった。いわゆるバブル時代ですよ。で一億円を区長がどこへ回そうかなってんで、論文提出で大変だったんです。区長が考えてくれて、「産業の方からの寄付だから、新宿の重要な産業にまわしたい」と言ってくれた。その出版業者の方は、いらないって言うんです。出版社だったら新潮社、講談社。印刷だったら江戸川のトッパンがあるでしょう。全然業界の話が合わない。そこいくと染物業者はみんな零細業者、並んでますから、なんかやりたい、ことに後継者を残したい。で私が「後継者のために使いたい」っていったら、「お前、論文書いて来い」って言うんです。

――論文?

だって区議会通すのに論文がいるんです。で私一週間かかって書いて、出したら通っちゃって、一億円もらっちゃった。その利息でいろんな運動起こそうって。当時私の代では利息が年間650万もついた。なんかできるわけですよ。で45人連れて京都に行って、京都の染物屋をずーっと見学しました。高い新幹線代払えたし、後継者の会も作ったし、青年部も作った。それが今、染色協議会の会長をやっています。

――育っているわけですね。

そうそう。私の会長の代の功績はそんなもんです。一億円もらったら100万円も今つかない。

親父も50年商売やって、新宿区から表彰されてます。で私も。親子二代(笑)。私は7年も戦争行ってますけど、それも勘定していいって言うんです。

――7年戦争に行っていたと言うと、昭和13年に召集されて。

いやいや、捕虜の時代があります。昭和15年、初めは北満に行きました。北満で盛んに討伐に出された。万里の長城を討伐で歩きました。あるときは満州側、あるときは北支側におりてずーっと長城伝いに半年近く歩きました。それで結局、討伐中に大東亜戦争がはじまって、元の場所に返されたわけです。ぺいあんという寒冷地帯だから。零下45度。

――45度!?え、そんなとこがあるんですか?

(笑)冬はね。すごいですよ、お酒から何からみんな凍っちゃいます。りんごだってバナナだってかちんかちん。それでも病気にならないで、雪ん中で訓練受けて。スキーやったりなんかして。私学生時代スキーやってたんです。十日町のほうで、入営する五日前まで。帰ってきておやじに怒られちゃった(笑)。

――遊びで行ったんですか?

もちろん。入営の日は決まっていて、その五日前まで頑張ってたんです。

――やっぱり、行くのが嫌だったんですか?

いやだって言うより、惜しいからね。当時は二十歳ですよ。それで4年いたんですよ。ぺいあんってとこからハルピンへ移って。ハルピンは零下30度まで下ります。でもずいぶんあったかいと思いましたよ、ぺいあんよりね。

――零下30度なのに。どうやって寝るんですか?

いやあ、軍隊生活ってのはよくできてますよ、それなりにね。ペーチカっていう暖房装置があって。そいでそのうちに南方の部隊に編入されて、上海のほうに下ったわけです。私ね、中国民族が不思議だなーって思ったことがたくさんあるんだけど、そのうち最大なのが、ちょうど南方へ下るとき。ハルピンから貨物列車に乗せられて、夏服着せられて、4月だったけど雪の中、夏服で。向こうは5月にならないと溶けないから。で広東州の・・・どこだったかな・・・駅も何もないとこに止まって、そこで飯を炊けっていう。貨物車から出て、飯を炊いたり洗濯したり、雑用をやったわけ。ところが、地平線いたるところ、人っ子一人いないわけ。秘密だから。ところがなんとね、止まっている間が3時間くらいだったけど、そのうちに何万って人が、地平線を越えて、集まってきたの!

――・・・何万!?

■19(土)


大館 弥次郎兵衛、秋北ホテル

■20(日)

大館 バス

盛岡

渡辺栄造さん(宮崎県日南市)

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―渡辺さんのお父様は、油津で海上運送の仕事を営んでいらっしゃったのですよね?

ええ、最初は下駄職人--親父の兄貴に当たりますが、この人に弟子入りしたんですね。この人は、九州で三本の指に入るといわれる腕のいい職人だったわけですが、喧嘩をして辞めてしまい、その後は、船に乗って飯炊きをしていたのですよ。それから叩き上げで、自分で仕事を始めたわけですね。

―いきなり事業を立ち上げられたのですか?

いえいえ、最初は仲間と資本を出し合っての共同経営ですよ。まず、中古の機帆船を買ったんですね。同じころ、山から木材を切って、それを運んだりしていました。飫肥杉をはじめ、このあたりの野菜類などの食材を大阪方面に運んでいたのですね。で、向こうからは、衣類とか、こちらでは珍しい物を運んできていました。

―けっこう繁盛していたのではありませんか?

そうですね、5人ほど雇っていたようですが、乗組員にはいい給料を払っていたようですね。運賃も高かったから、そうできたわけですがね。当時としては、かなりいい身分だったんじゃないでしょうね。だから、横店(※河野俊子さんの営む呉服店)でも、なんぼか買ってあげることができたんじゃないですか。姉たちの婚礼の時も、着物を買って持たせていましたよ。

―では、渡辺さんのお家はかなりの財を成したのでしょうね?

それについては、そうでもなかったですね。どこの親方ともいっしょで、こういう仕事は、飲めや歌えやで、結局、何も残らないのですよ。親父は所得をごまかさない人でしたから、ドーンと税金払っていましたね。今にして思えば、土地でも山でも買っておけば良かったのでしょうけど。

―豪快な方だったのですね。

戦争に行っていたのですが、同期6人の内、5人が死んでいるのですよ。後の人生はおまけみたいな物と感じていたようですね。機帆船の仕事にしても、復員後に始めた仕事ですから。

―今もご健在ですか?

いや、もう亡くなりましたよ。亡くなって、26年と1ヶ月経ちましたね。

―そうですか。さて、先ほど、大阪に荷物を運んでいったということですが、そのあたりのお話を聞かせて下さい。まず最初に、船のお話から。

123トンの機帆船で、焼き玉エンジンで走っていました。重油を燃やすエンジンです。93馬力ほどでしたから、力が弱くて、船があまりすすまんとですよ。さらに、船酔いもしやすい。だから、風が強いときは、帆を上げて帆船にし、弱いときは焼き玉で進む。ハイブリッドってやつですね。

―そういう船で行くと、大阪まではどれくらいかかるのですか?

2、3日ですね。往復でも1週間ほどでしたから。大阪南港までは、豊後水道、瀬戸内海を通るコースと四国沖を通る直行コースがありました。

―お父様とごいっしょに大阪まで行ったことはありますか?

ありますよ。昭和43年でしたね、21歳の時。8月4日でした。その帰り道、8月6日の原爆投下の日に、広島によって見物して廻ったことを覚えています。

―いろいろなところに立ち寄ることもあったのですね。

ええ、他にも宇和島などにも。帰りは積み荷が少なかったので、釣りをやったりしましたよ。シイラという2メートルもある口先のとがった大きな魚がいるのですが、これを引っかけたりしました。擬餌針を船から海に投げ、目標が沈むとグイッと引き上げるのです。これを塩漬けにしたり、刺身にしたりして食べるととてもうまい(笑)。豊後水道で、よく釣れました。

―目に浮かびますね。先ほど、お父様が26年前にお亡くなりになったということでしたが、その後、いつころまで海上運送のお仕事をなさっていたのですか?

昭和46年までやっていました。

―では、渡辺さんがシイラ釣りをしていたときのわずか3年後ですね。

そうですね、昭和45、6年あたりにはけっこう繁盛したのですが、46年3月には、船を売って廃業しました。だんだん儲けもなくなっていましたし。

そうですね、昭和45、6年あたりにはけっこう繁盛したのですが、46年3月には、船を売って廃業しました。だんだん儲けもなくなっていましたし。

外材が入ってきたことですね。それまでは、飫肥杉を運んでいたのですが、しだいに売れなくなってきました。飫肥杉は節が多いので、建築材には向かず、間伐材に使われることが多いのですが、これが外材に取って代われたということですね。しばらく、韓国からの注文はあったようですが、昭和50年代になると一気にだめになりました。宮崎丸という船が昭和52年までやっていましたが、それが最後ですかね。

―飫肥杉が盛衰を決定付けたのですね。話が前後しますが、全盛期の油津の様子をお聞かせ下さい。まず、積み荷の様子はいかがでしたか?

油津の町の中を堀川という運河があるのですが、ここがいわば著木場、私たちは「土場」と言ってましたが、そこが置き場だったわけですね。堀川は、山から切り下ろされた杉で、一面覆われていました。その杉をポンポン船が引っ張り出し、機帆船に横付けて積み込むわけです。

―いつころが全盛期でしたか?

昭和25年あたりですね。製材所もたくさんありましたね。杉を引っ張る馬もたくさんいて、道には、馬の糞がたくさんあって臭かったですよ。

―馬の糞のにおいと杉のにおいがない交ぜになっていたと。渡辺さんにとって、当時の思い出深いエピソードってありますか?

堀川で子供が死んだという事故がありましたね。堀川で遊んでいて、潜っていた子供が溺死したんですよ。水面に上がろうとしたら、ぎっしり覆われている杉の木によって、上がれなかったのですね。私が知っているだけでも3人死にましたよ。

―そう悲劇もあったのですね。しかし、当時が油津にとっては、もっとも活気ある時期だったのでしょうね。

そうですね。遠洋漁業も盛んでしたし。港から、カツオ船やマグロ船が出かけるときは、家族やみんな出てきて見送りをしていましたよ。飲み屋のママさん連中も来て、テープを手に持って、見送りをしていました。港を出るときには、3回ほど回航するのですよ、特攻隊のように。未練が多いほど、回航の回数が増えるのですね。軍艦マーチをならして、それが港に鳴り響き。それは賑やかでしたよ。



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小学校を卒業するとき、私は友人と2人で小旅行に出た。八王子から朝早くの八高線に乗り、高崎へ。そこから信越本線に乗り換えた。扉が開け放たれた客車列車で、古ぼけた車内灯がやけに暗く思われた。
高崎にはちょうどお昼頃着いたので、空腹であった。しかし、私たちはがまんした。あと、30分で横川である。

横川に着くや、窓を開け、駅弁屋さんを呼んだ。停車時間はあったが、必死であった。手にした「峠の釜めし」はずっしりと重く、何か特別なものを感じさせた。食べるのがもったいなかったが、軽井沢を過ぎたあたりで箸を付けた。当然、器は持ち帰る。それは私の宝物になった。

今月の「あの駅はいま…」は横川駅を取り上げる。長野新幹線開通にともない横川・軽井沢間が廃止されてから三年半。横川を取り巻く風情は一変した。今回は、「峠の釜めし」に、横川駅の過去と現在を見たいと考えた。

                               

①■宮内庁御用達--「峠の釜めし」

昭和33年10月18日、横川駅は物々しい雰囲気のなかに包まれていた。警察官が各所に立ち並んでいる。まさに厳戒態勢であった。
この日、富山国体へ参列されるために、昭和天皇ご一行を乗せたお召し列車は信越本線を下っていた。午前11時32分(★)、高崎方面から電気機関車に引かれた列車が到着した。あたりはにわかに緊張感が高まった。

ホームに停車して間もなくすると、おぎのや社長・高見澤みねじは、白い布で覆った漆黒の盆を白手袋の手で恭しく捧げ、車内に運び込んだ。--横川名物「峠の釜めし」である。

この日のために、焼き上げられた釜は益子焼き。メニューはお吸い物、フルーツの付いた特製であった。昭和天皇ご自身が希望されたのか、それともお側の者が推挙申し上げたのかは定かでないが、以来、「峠の釜めし」は宮内庁御用達として、皇室の方々に愛され続けている。

②■駅弁ことはじめ

日本の駅弁の始まりは、明治18年7月にさかのぼる。宇都宮駅で販売された駅弁がそれである。握り飯にたくあんというきわめてシンプルなものであった。

「峠の釜めし」の荻野屋が駅弁を扱ったのは、宇都宮にに遅れること半年、昭和18年10月のことであった。同じく、握り飯に漬け物で5銭という値段が付いた。それまで、荻野屋は街道筋で旅館を営んでいたのだが、鉄道開通を受けて、横川駅での駅弁販売に踏み切ったのである。

しかし、「峠の釜めし」の登場まではまだ73年という歳月を必要とした。

③■「峠の釜めし」誕生秘話

昭和30年当時、荻野屋の駅弁は振るわなかった。高崎、軽井沢という「上級」駅に両側を囲まれ、わざわざ横川で駅弁を買う乗客はほとんどいなかった。一日あたりの売上はわずか30~40食あまり。せっかく機関車の付け替えで停車時間があるにもかかわらず打つ手はなかった。

よし、それなら、お客さんに聞いてみよう--荻野屋社長・高見澤みねじはそう思うと、すぐに行動に移した。停車する列車の乗客に、どのような弁当が食べたいのか聞いて歩いたのである。
すると、乗客は口々に「どこの駅弁も同じだ。何か変化のあるものが食べたい」「冷たくて、米が硬い」と言うのであった。「峠の釜めし」の構想が湧いてきたのはまさにそのときであった。
変化があって、地方色があって、暖かい弁当--「峠の釜めし」はこうした着想から生まれた。

④■昭和33年2月10日(★)

釜めしが売り出された。値段は120円に設定された。陶器の値段がばかにならないのである。当時の駅弁の値段は平均80円。高くても100円という時代である。この衝撃的な駅弁の販売を管轄の国鉄高崎鉄道管理局は許可しなかった。重い、危険、ゴミになる、値段が高いなどが理由である。

再三にわたる交渉の結果、許可が下りたのは昭和33年2月のことであった。満を持して販売された釜めしであるが、当初はさっぱり売れなかった。何よりも認知度がなかった。期待に胸ふくらました売り子たちは、売れ残りを担ぎ、肩を落としたという。

⑤■「峠の釜めし」、全国区へ

そんなある日、釜めしが急に売れ始めた。列車から掛かる声は引きも切らず、駅に持ち込まれた釜めしはことごとく売り切れた。当初、何が起こったのか、わからなかったが、程なくして「文藝春秋」のコラムにに紹介されたことが判明した。

以来、「峠の釜めし」は売れに売れた。それを後押しするように、フジテレビで、荻野屋をモデルとしたドラマ「釜めし夫婦」が放送されて、「峠の釜めし」は一気に全国区となった。昭和天皇への積み込みが行われたのは、その年のことである。

この「峠の釜めし」の爆発的売れ行きは、一大駅弁ブームを生んだ。黒磯駅の「九尾ずし」、長万部駅の「かにめし」、苫小牧駅の「シシャモチップ寿し」など、地方色たっぷり、容器も一工夫加えられた駅弁は、旅の楽しみ、そして目的として定着していった。

⑥■立ち売り30年――「峠の釜めし」とともに

桐生富作さんは現在67歳。横川で駅弁を売って30余年になる。桐生さんが荻野屋に入ったのは、昭和45年、すでに釜めしブームが到来してからだ。それまで、林業に携わっていた桐生さんは体力に自身はあった。肩掛けに25個の釜めしを担ぎ、元気な声を上げる。

「釜めしー、釜めしー。釜めし、いかがですかー!」

朝は7時過ぎから夕闇が迫るまで、ホームで釜めしを売る。当時の報酬は歩合制であった。先輩の売り子さんたちは、それぞれの縄張りを作り、その中で次々と売りさばいていた。桐生さんも負けじと車窓を渡り歩いた。

ある冬の日、スキー客の若者で満載の列車がホームにゆっくりと停車した。「さぁ、来るぞ」と桐生さんは身構えた。一斉にホームに飛び出した乗客は、桐生さん目がけて殺到し、手押し車ごと後ろに押し込まれ、ホームにあった池に倒れ込んだこともあったという。釜めしの人気ぶりが偲ばれる。

⑦■「目迎目送」--峠の駅の日常風景

お昼前に、上野から「白山」が来るんですが、これが一番売れましたねぇ--桐生さんは当時を懐かしそうに振り返る。荻野屋トップの売り子であった桐生さんは、1日1500個の釜めしを捌いたそうだ。
当時の給料は7万円以上、「おそらく駅長さんよりももらっていたんじゃないですか」--桐生さんの顔がほころぶ。

列車に向かって、駅弁の売り子さんたちが深々と頭を下げる様子は横川駅の名物である。この「目迎目送」はおぎのやの精神である「感謝・和顔・誠実」に則っている。この精神は、おぎのや中興の祖・高見澤みねじ社長以来のものだ。

 服装には厳しかったですね。ネクタイや帽子が曲がっていると、よく注意されました。でもね、がんばった後には、「ご苦労様でございます」と仰っていただいて、よく褒美のタバコをもらいましたよ--桐生さんは、嬉しそうにみねじ社長を懐かしむ。

高見澤みねじ社長は、昭和58年9月17日、釜めし1億個達成を待たずして亡くなった。

⑧■日本最初の電化区間

明治18年には横川まで、明治21年には長野方面から軽井沢までの工事が完成した。信越本線の全通まで残すところ、横川・軽井沢間だけとなっていた。全長11.2キロ、直線距離で約8キロ、高低差はじつに553メートルというこの区間の工事は難渋を極めた。殉職者は500名超--。こうした尊い犠牲の結果、明治26年4月1日、ついに横川・軽井沢間が開通した。

峠を貫く横川・軽井沢間はトンネルが多い。急勾配のアプト式区間を喘ぎ喘ぎ牽引する蒸気機関車の煙は当然車内に充満した。乗客、乗務員ともにじつに1時間以上もの間、この苦痛に耐えなければならなかった。
こうした悪環境を解決するため、大正2年(★)年3月(★)、この区間はついに電化された。日本最初の電化区間には、10000型(後のEC40型)電気機関車が投入されることになった。

⑨■「峠のシェルパ」

大正11年、この問題(★どんな問題?★)を解決すべく投入されたのが、電気機関車EF63、別名「峠のシェルパ」であった。昭和38年にのアブト式の廃止まで、毎日峠を往復した。

★「峠のシェルパ」のエピソードが一つ欲しい。探してください。

アブト式時代に沿線で使われていた煉瓦造りの橋やトンネルは現在も残っており、国の重要文化財に指定され、歴史を物語っている。

長野新幹線が開通する平成9年10月1日の前日9月30日横川・軽井沢間は廃止された。横川駅は104年という歳月を経て、再び静かな峠の駅に戻っていったのである。

⑩■横川駅はいま…

早いもので、横軽間廃止から3年以上が経過した。特急列車が引きも切らずに発着したホームに到着する列車はほとんどなく、すっかり生気を失ってしまった様子である。跨線橋を渡った向こうのホームには、雨ざらしになった「あさま」が機関車に繋がって放置されている。

            ***

さぁ、間もなくですよ--桐生さんの表情が引き締まった。

高崎駅からの3両(★)編成の各停電車が1番ホームに入ってきた。桐生さんは、カートの釜めしにかかる布の覆いを取り払った。それから、ホームの端に直立するや帽子を取った。そして、入線する電車に深々と頭を下げる。

電車が止まりドアが開くと、乗客がホームに下り立った。そこで、桐生さんは声を上げる。

「釜めしー、釜めしはいかがですかー」

終着駅に下り立つ乗客に、駅弁カートで立ち止まる人はない。

「次の電車では必ず売って見せますよ」

笑顔の桐生さんの言葉に力がこもった。0fa541e9.jpg



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平成7年9月、私はオホーツク海沿岸の廃止ローカル線跡を訪ねた。湧網線、興浜南線、名寄本線--どれも乗ることなく廃止されてしまった。今になって悔やんでも悔やみきれないが、廃線跡をたどることでいくらか癒されるのではないかと考えたのである。

しかし、失われた鉄道の跡は、あまりにも露骨に時の流れの儚さを見せつけただけで、有効なセラピーとはならなかった。この悔恨は生涯負い続けるのだろう。

この旅の終わりに、深名線を訪ねた。最終運転の前夜である。今回はまず、当時の思い出話を聞いていただきたい。そして今回、11年ぶりに、朱鞠内駅跡、幌加内駅跡を訪ねたのだが、その際に、現地で伺った話をまとめてみた。私たちが知っている深名線とはまた違った一面が浮かび上がってくることだろう。ぜひ、ご覧いただきたい。

                               

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①■19時30分、朱鞠内駅にて

平成■年9月2日、午後7時半、私は廃止前夜の朱鞠内駅にいた。すっかり日は落ち、あたりがすっかり暮色に包まれているなか、駅一体だけは異様な熱気に包まれていた。
待合室は鉄道ファンでいっぱいで、窓口は、入場券や記念オレンジカードを買う人で賑わっていた。なかには、定期券を買う人までもいた。

数年前、この駅に来たことを思い出す。冬の寒い日で、おそらく氷点下10度くらいを記録していたことだろう。同じように、列車の乗り継ぎを行う鉄道ファンもいて、ストーブを囲んでいた。
駅前を歩いていると、すぐに耳がチリチリとしてくる。立ち止まると、「シーン」という音が聞こえてくるようであった。

ぼんやりと往時の思い出に耽っていると、周囲がざわめきだした。列車が到着するようだ。私もホームに出て、出迎えた。

②■21時48分、幌加内にて

朱鞠内で列車を見送った後、クルマで幌加内に向かった。線路と平行する道路を走りながら、暗闇を走る深名線のディーゼルカーを眺めた。

幌加内駅に着いて間もなくすると、列車が到着した。廃止前夜ということもあり、地元の人も駅に来ていた。列車が走り去るのを見送ってから駅を出た。駅前に食堂があったので入った。
奥の座敷では、鉄道ファンが数人写真の撮影ポイントをめぐって話し合っていた。私はテーブル席に腰を掛け、天ざるを注文した。幌加内は言わずとしれたそばの産地だ。

テーブルは相席だった。向かい側には、同じくらいの年格好の人がそばをすすっているので話しかけてみた。彼=T君もも同じ悩みを抱えていた。明日の行程に関してである。深名線最終列車にどの駅から乗るか、ポイントはこの一点であった。私とT君は結論を保留したまま別れた。

③■9:48発名寄行き列車

深川駅前の駐車場で目が覚めた。秋の青空がクルマのウィンドウ越しに見えて、美しい。
駅にはいると、既に多くの鉄道ファンで構内はいっぱいであった。9時48分発の名寄行き列車は通路が立ち客で埋まるほどの混みようであったが、幸いにして座席にありつけた。

全開にされた窓から、北海道の涼しい風が車内を吹き抜けた。ボックスシートには、本州から来た学生と社会人、知床から来た中学教師が同居した。目的は同じなので、早々に打ち解けた。

幌加内に着いた。列車はしばらく停車する。駅前には、「幌加内そば」の屋台が出ていたので、私もそばをすすっていると、急に大粒の雨が降り始めた。駅の中に避難していると、傍らにいたお婆さんが「涙雨だ」と呟いた。

④■最後のローカル線

深名線の歴史は昭和■年に遡る。雨竜川の源流に計画された朱鞠内湖ダムの建設がきっかけとなった。ダム建設のほか、近隣から伐採される木材や農作物の運搬にも大きな働きをした深名線だが、その建設の裏側は血塗られたものであった。

<竹内殿 要調査>


その朱鞠内駅に列車は到着した。駅から外に出ると、若い男性がチラシを配っていた。見ると、深名線工事による犠牲者を弔う法要の案内であった。

⑤■駅が「駅」として

列車が終着駅・名寄に到着して間もなくすると「深名線お別れ会」が始まった。私はそのまま折り返すので、車内からセレモニーを眺めた。たすきを掛けた一日駅長が「出発進行!」と叫ぶと、ブラスバンドが「蛍の光」を奏で始めた。ホームに詰めかけた人たちが列車に手を振る。私たち乗客もそれに応える。

列車は来た道をたどり、深川駅に戻ってきた。すでに1往復■キロ乗ったことになる。乗務員からもらった「乗車証明書」も2枚になった。
さて、私はこれからふたたび朱鞠内まで行く。そして、この駅で、名寄からやって来る深名線最後の列車に乗るのだ。
列車は静かに深川駅を出発した。

停車する小さな駅のひとつひとつには、近所のおじさんやおばさんが集まっていて、名残を惜しんでいる。ハンカチを目にあて、手を振っているおばさんを見ると、私の目頭も熱くなる。

おじさんやおばさんは、いまでは停留所のひとつに過ぎないこの駅が、本来の「駅」として機能していた時代をよく知っているのだ。

⑥■3日、19時43分、朱鞠内駅

沿線に陣取る鉄道ファンのカメラは、だいぶ西に傾いた陽を受けてきらきらと輝いている。自転車に乗る子どもたちが、一生懸命ペダルを踏んで列車を追うが、みるみる話されてゆく。のんびりとした風景が車窓に移ろう。さっきまでの喧噪が嘘のようだ。

朱鞠内に到着したのは、午後7時近かった。冷たい雨が降っていた。すでにファンは各方面から集結しつつあった。朱鞠内に「最終列車」が到着するまでに1時間以上ある。

--列車は今、どこを走っているのだろうか。その列車の走り過ぎたレールの上を、二度と列車が走ることはない。二日か三日もすれば、七十年もの間、輝きを失うことのなかったレールは、赤く錆で曇ることだろう。

私は折り返して深川行きとなる列車の座席に腰を掛けながら感傷に耽っていると、にわかにあたりが騒然としてきた。名寄からの列車が到着するらしい。私は窓から顔を出し、遠い暗闇に目を凝らした。暗闇のなかに一点、ポツンと灯が見える。

⑦■3日、20時38分、幌加内駅

名寄からの5両編成の列車は満員であった。列車は私の乗る2両と連結されて、7両という長大編成になった。

間もなく列車は名残を惜しむかのように、ゆっくりと動き始めた。警笛が淋しく闇夜にこだました。ファンたちが焚くフラッシュが一段と強まった。

沿道には併走するクルマのライトが見え隠れする。踏切で足止めを食っているクルマに、我々は窓から身を乗り出し、「がんばれよー」と手を振る。クルマはライトをパッシングさせたりしてそれに応える。

幌加内に着いた。駅には、強い雨にもかかわらず、大勢の人が集まっていた。報道陣も来ているのだろう、ホームには煌々とライトが灯されている。列車はここでさらに3両増結されて、10両で深川に向かう。この10両の列車が深川に着いたとき、深名線のレールからすべての列車が消え去るのだ。

⑧■3日、21時55分、深川駅

町の人たちは、紙テープの準備をしていた。ひとりのおばさんが、私のところにテープの端を持ってきてくれた。色とりどりのテープが車窓とホームを繋いでいる。いよいよだな、と思い、テープを握っていると、連結のため列車が後ろに向かって走り始めた。残念なことに、テープは思いもよらぬことで切れてしまった。

やがて、連結作業が終わると、大きな喚声のなか、列車はホームをゆっくりとすべり始めた。ホームで見送る人たちとハイタッチしながら廃線を悼んだ。来てよかったと思う。

**

深川に着いたのは、午後10時近かった。朝から12時間も乗り続けていたことになる。乗客は列車から降りても、深名線ホームに佇んでいる。
列車が回送される時間となった。

「ありがとうー、しんめいせーん」「深名線、お疲れさまー」

喚声、拍手、万歳で見送った。

駅を出ると、冷たい雨は相変わらずで、私は頭からびっしょり濡れていた。ぶるぶると震えがいつまでもとまらなかった。

⑨■朱鞠内駅のいま…

谷川昇さんは現在74歳、朱鞠内に住んで60年以上になる。元々は、幌加内町添牛内の出身であるが、朱鞠内の好況を見て、移転してきたのである。
谷川さんは呉服屋のほか、旅館、新聞取次店など手広く経営しながら、朱鞠内の盛衰を見てきた。

「朱鞠内大火前は、このあたりには飲み屋がそれこそ10軒以上、中華料理屋、写真屋、旅館など--それは賑やかなものでした」

「当時は、ここだけでも2000人はいたんじゃないの?」

石川鉄一さんが口を挟む。石川さんは生まれも育ちも朱鞠内という76歳。今では数十人を数える朱鞠内の住人の中でも最古参に入る。

「こんなふうになるとは、思っても見なかったなあ」

石川さんは、朱鞠内駅の跡地を指差しながら、谷川さんに同意を求めた。廃止から■年、跡形もなくなった駅跡には、真新しいバスターミナルが建設されていた。

⑩■幌加内駅のいま…

松屋食堂の主人・松本一夫さんは二代目。食堂は母親が昭和34年に始めたものだ。父親は、幌加内駅前の日通に勤務しており、駅に届いた荷物を馬車で近隣へ運ぶ仕事に就いていた。
幌加内町は一時12000人もの人口があったが現在はわずか2000人。駅周辺にも飲食店が14、5軒あったが今はたった2軒--。松屋食堂はその一軒だ。

「幌加内には役場、病院があったので、汽車を待つお客さんが多かったね。夜になると、近所の人がやって来る。冬場は、周辺が橇と馬でいっぱいになったっけなぁ」

当時を懐かしむ松本さんは自慢のそばを湯がきながら回想する。深名線廃止後、しばらくバスの待合所として機能していた旧幌加内駅も昨年原因不明の出火で焼失。現在は跡形もない。

「鉄道ファン? 来ますよ。あまりの変わりように皆さん、驚いているね。でも、毎日、こうしていると、なかなかその変化に気付かなくなってしまってね…」

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■6(水)
神楽坂のオフィスを出て、オペラで関越(竹内を送った記憶がある)。

■7(木)

11:00新潟港

■8(金)

4:30小樽港

函館本線 小樽~長万部取材 札幌泊

■9(土)

宗谷本線 名寄~稚内取材

010609幌延駅


■10(日)

稚内

興部

紋別

網走

標茶 各駅取材 中標津泊

■11(月)

標茶

釧路

■12(火)

■13(水)

11:00小樽港?

■14(木)

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1■起死回生の一策

昭和63年の瀬戸大橋の開通にあわせて、下津井電鉄は勝負に出た。それまでモータリゼーションの進展のなか、営業面で苦戦を強いられていたが、起死回生の一策を講じたのである。

それまでも沿線を「コーストライン」と名付け、イメージアップを図り、ミニSL、ついには、落書き自由の通称「落書き列車」を走らせるなどの工夫を続けてきたが、なかなか効果が上がらなかった。そこに来て、この僥倖である。凋落のローカル私鉄は新造車両を投入した。その名も「メリーベル号」。真っ赤な車体は斬新で周囲にインパクトを与えたが、わずか【2年:調査!】の運転で終わることになった。

努力実らず、平成3年1月1日、下津井電鉄は【82年:調査!】年の営業に幕を閉じた。

#「メリーベル号」の写真
#「落書き列車」の写真

2■下津井電鉄の歴史

下津井電鉄の前身・下津井軽便鉄道(その後、下津井鉄道に改称)は茶屋町・味野(現在の児島)間で開業した。大正2年のことである。その翌年、大正3年に下津井まで延伸した。

762ミリという軌間のナローゲージを走る電車の車内は当然狭く、立ち上がって車内を歩こうとすれば、他の座っている乗客の膝や体にすぐにぶつかってしまうくらいである。

その後、昭和47年3月31日、営業不振のため、茶屋町・児島間が廃止され、児島・下津井間のみの営業となった。この間が残ったのは、平行道路が未整備だったためだが、これによって両端が鉄道に接続していないきわめて珍しい鉄道線となった。

#下津井電鉄の古い写真
#狭い車内の様子

3■瀬戸内の要衝・下津井

下津井は、今でこそ静かな瀬戸内海の漁港という風情であるが、明治に入るまで北前船の寄港地として賑わった。

岡山県を代表する民謡「下津井節」は、往時の殷賑ぶりを今に伝えている。

  下津井港はョ 入りよて出よてョ
    まともまきよてョー まぎりてョ
  下津井港にョ 碇を入れりゃョ
    街の行燈のョ 灯が招くョ
  船が着く着くョ 下津井港ョ
    三十五丁艫のョ 御座船がョ

北でとれた昆布、ニシン粕、かずのこなどを満載した船がやって来るころ、町はにわかに活気づいた。町はずれの女郎屋では近隣の盛り場に応援を頼むほどであったという。

#写真は、下津井のいい風景。俯瞰図など
#港町としての風情ある写真を

4■下津井の見どころ

古くから下津井は四国へ渡る玄関口でもあった。対岸の丸亀へ就航する船は引きも切らず、金比羅参りの観光客で賑わったという。

<現在の下津井>

タコ料理、下津井城址、古い町並みなど

#「むかし下津井回船問屋」
#干しタコ

5■下津井駅の今

下津井電鉄が廃止されてから、早いもので十年が経過した。今も下津井の駅舎は残っているが、身の丈もあるような鉄条網に覆われていて中に入ることはできない。

駅周辺にはかつての賑わいを感じさせるものは何もなく、駅を出てすぐのところにある漁港のたたずまいもじつにのどかである。

遠くに瀬戸大橋が見える。かつての交通の要衝も時代のなかで役割を終えたようだ。




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6■「マラソン桟橋」

昭和56年以降、宇野駅はよく利用した。当時は、岡山駅から快速列車が約1時間おきに運行され、宇野駅では8分の待ち合わせで高松への宇高航路が連絡していた。

快速列車が宇野駅に着くと、乗り継ぎ客が我れ先にと跨線橋を駆け上がり、連絡船へと乗り込む光景が見られた。私はこうした混雑に巻き込まれないように、快速の1本前の各停電車に乗り、ひと足先に宇野桟橋の待合所で乗船を待つことにしていた。しばらくすると、快速列車からの乗り継ぎ客がどっと乗り込んで来て、座席は大方埋まった。

昭和35年に改善されたとはいえ、宇野駅から乗船口までは400メートルに及ぶ長い桟橋があった。お盆・正月の帰省ピーク時には、連絡船からの乗客が我先に列車に駆け込む「マラソン桟橋」の光景がテレビでよく映されたものだ。ある時には心臓発作で死亡する人も出たということである。

7■本四連絡の要衝として

宇野駅は、本四連絡の玄関口として、特別な存在感があった。昭和60年頃、岡山付近の列車の短編成化が進むなかで、宇野線は12両という頂長大編成の列車が運行されていた。

なかなか新車の導入されなかった岡山地区において、昭和62年3月改正で新車の213系が導入されたのが宇野線である。ステンレスボディの転換クロスシートで「備讃ライナー」と命名された。その後、瀬戸大橋線開業後は「マリンライナー」と改称され、展望グリーン車を連結し現在に至っている。

寝台特急「瀬戸」は、宇野駅の名を全国区にした。中学生の頃のブルトレブームで、構内に留置されている「瀬戸」を時々見に宇野駅に行ったものだ。ピカピカの車体をみては「いつか乗ってみたいなあ」とホームから眺めていたのを思い出す。

8■連絡船の思い出

連絡船内にはテレビがあり、売店では土産物や酒、おつまみ、高松駅の駅弁などを売っていた。
私にとって特に思い出深いのが、讃岐うどん。出港後しばらくすると甲板にある店が開くが、いつも一番乗りで「てんぷらうどん」を注文していた。とにかく味は絶品であった。

瀬戸大橋の完成を間近にした時期、夏場にかき氷を売ったり、甲板にパターゴルフを設置したりと営業努力をしていたが、かえってもの悲しさをかこつだけであった。

瀬戸大橋線開通半年前の昭和62年11月15日、連絡船に乗るのもこれが最後かもしれないとグリーン券を購入。初めて購入した「自由席グリーン券」は500円也--。廃止ブームにはまだ少し早かったとはいえ、グリーン船室はガラガラであった。

9■宇野駅、取り壊し

昭和63年4月10日、瀬戸大橋が開通した。この瞬間、宇野駅は手に入れて間もない本四連絡メインルートの座を明け渡すことになった。

瀬戸大橋線開通に先駆けて、地元では、宇野線の茶屋町・宇野間が廃止という噂はあったが、それは杞憂に終わった。
しかし、「宇野線=長編成」というイメージを持っていただけに、茶屋町・宇野間でマッチ箱のような単行電車が登場したのはショックだった。

瀬戸大橋線開業後もしばらくは高速艇が運行していたが、全便休止、そして平成3年3月、宇高航路正式廃止--。駅はますます寂しくなった。

長いホームは不要となり、駅改札より奥はロープが張られ、連絡船乗り場へ続いていた跨線橋も閉鎖された。そして駅舎も取り壊されることになった。現在の駅舎は、平成6年に改築されたものである。




■12(木)

神戸
岡山 岡山シティホテル

■13(金)

下津井、玉野、小松島?

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3年前に、大夕張を訪れた。初夏の北海道は、花の色が鮮やかで、大夕張への道のりは印象的であった。
すでに、大夕張が数年内にダムで水没することは決まっており、私が訪れた時には、早くも一部の建物を
除いてすべて撤去されていた。アスファルトの道路の両側には何もなく、一定間隔で電信柱が立つだけで
あった。10年前のこの時間、小学生の遊ぶ姿や買い物をする主婦の姿があったかとにわかに想像ができ
ない。
帰り道、旧南大夕張駅跡に放置されている列車を見物した。ガラス窓は破られ、木の床は抜け、ホームも
自然崩壊に任されていた。現役当時を偲ぶよすがもない。こうして朽ち果 ててゆくのか--。
今月の「あの駅はいま…」は、南大夕張駅を取り上げる。三菱大夕張鉄道保存会会長・奥山道紀さん(7、
8を除く)と★事務局長・今井一郎さん(7、8)に語っていただく。 三菱大夕張鉄道保存会では、ホー
ムページを開設している。ぜひ、ご覧いただきたい。

1.「ナハフ1」を復旧せよ
★平成11年3月、廃止後旧ホーム傍らに野ざらしにされていた客車が転倒した。★三菱大夕張鉄道唯一
の自社発注客車「ナハフ1」である。そのニュースを知った私は、当時から交流のあった夕張の郷土学習
グループ・シューパロ塾の有志を募り、対応を協議した。調べてみると、★車両は閉山時に、三菱から夕
張市に譲渡されていた。復旧には、市の理解と協力が不可欠ということになる。私たちは、行政に訴える
べく、車両復旧のための署名運動を開始した。
運動の成果が現れた。市の協力が得られたのである。転倒から半年を経過した12月13日、2台のクレ
ーン車を導入した大掛かりな復旧作業がなされた。当日は、天候は曇りがちで寒さの厳しい日だったが、
心配していたほどの悪天候とはならず作業は順調に進んだ。
こうして、「ナハフ1」はみごと復旧した。市民と「三菱大夕張鉄道保存会」の活動が実った瞬間である。

クレーンを利用して起きあげる(写真:★三菱大夕張鉄道保存会)
無事に復旧は終了(写真:★三菱大夕張鉄道保存会)

2.★私と三菱大夕張鉄道
南大夕張駅は、私にとって思い出深い駅である。私の通っていた南部小学校は、駅の背後の高台にあった。
幼少時から鉄道に触れることになり、自ずと興味は高まることになった。
高校時代は、★清水沢まで毎日、この列車に乗って通った。当時の思い出は、やはり、「だるまストーブ」
だろう。雪深く、底冷えする冬、列車内の唯一の暖はこのストーブだけであった。しかし、ストーブ周辺
は、上級生たちによって占拠されてしまい、下級生である私たちは遠くから暖をとるので精一杯であった。
ストーブは例年、夕張岳の頂が白くなる11月から翌年の4月までの間設置された。今ではまったく見られ
なくなってしまった光景である。

昭和36年当時のだるまストーブ(写真:星良助氏)
★客車の屋根からT字形の煙突が突き出す(写真:奥山道紀氏)

3.人命の保証はいたしません
三菱大夕張鉄道は★大夕張炭砿の専用鉄道として、明治44年6月に清水沢・二股(後の南大夕張)が開通
したのがその始まりである。昭和4年に★炭砿が北部に移転したのにともない、通洞(後の大夕張炭山)ま
で延長された。
鉄道は、石炭輸送だけではなく、森林鉄道からの木材輸送にも利用される他、★道路が未整備な沿線住民の
貴重な足としても重要な役割を果たした。
しかし、当時から、輸送の主は石炭であり、混合列車で運ばれる「人」はいうならば、”ついで”であった
ことは否めない。また、施設も悪く、危険が多かったこともあり、★昭和14年、晴れて地方鉄道になるま
では勘合証(キップ)の裏面には「人命の保証はしない」という注記が付されていた話は有名である。

待ち人で賑わう大夕張駅のホーム(写真:飯田雅人氏)
★竜田沢を埋め立て工事の9200形SL(写真:夕張市石炭博物館)

4.★三菱大夕張炭砿閉山
戦後、石炭は復興の国策の柱と位置付けられたが、石油や外国産の石炭、そして政府のエネルギー政策に翻
弄されながら、全体としては、下降基調をたどっていた。
しかし、夕張は産出されるその良質な石炭、そしてそれを経営する財閥系企業の底力を得て、順調に業績を
伸ばしていた。特に、★南大夕張砿は全国的に閉山が相次ぐなか、★国のスクラップアンドビルド政策の中
「ビルド鉱」として、新鉱開発が行われた。そして、昭和45年8月、★三菱南大夕張炭砿の操業が開始さ
れるに至るのだ。
しかし、その一方で、奥地にある★大夕張砿は採炭現場の悪化に伴い産出量が減少、先細りの様相を呈し始
めていた。そして、昭和48年、★三菱大夕張炭砿は閉山。これにともない、三菱大夕張鉄道の南大夕張・
大夕張炭山間は廃止、★同時に機関車もSLからDLに転換された。

夕張駅構内での入れ替え(★写真:夕張市石炭博物館)
※夕張駅は国鉄駅で直接大夕張鉄道に関係してきません。
星良助さん当たりで相応しい写真無いでしょうか?
下記サイトにも大夕張炭山での石炭積込みの写真(昭和40年頃)があります
http://club.pep.ne.jp/~shuparo/images/9607B.jpg

★北菱炭砿の石炭積み込みポケットにて(写真:本間正雄氏)

5.三菱の企業城下町として
大夕張という街を語る上で外すことのできないのが、三菱という企業である。そもそもこの大夕張の地は国
有地であった。それを三菱鉱業が借り受け、★炭砿開発にあてたという経緯がある。
何もない★山中に、鉄道、工場をはじめ、病院、映画館、住宅、道路、水道などのインフラに至るまで、す
べて三菱が整備した。行政が関わったのは学校だけというわけである。まさに、三菱の企業城下町というに
ふさわしい。
戦後間もない昭和28年には、大夕張地区を夕張市から切り離す、いわゆる分町運動が盛り上がった。結局、
市議会で否決されたが、それだけ自らのコミュニティに対する住民の意識が高いことの証左であろう。
国策の要ともいうべき石炭を扱っていたことから、大夕張への人の出入りは制限された。戦後しばらく経過
するまで、道路が整備されなかったのは、こうした人の出入りを制限するもので★あったともいわれる。
現実に、戦後になるまで、旅客列車は、清水沢の直前に「新清水沢」という駅を設けて、そこで乗り降りさ
せることにした。あえて、国鉄清水沢駅と直結させなかったのである。

メーデーに集う人々(写真:本間正雄氏)
「裸まいり」の気合い(写真:本間正雄氏)

6.★映画の街・夕張

★炭砿は若者の街だ。そうした若者が集まれば、娯楽が求められる。当時の娯楽といえば、やはり、映画で
ある。★大夕張には、「協和会館」と「大夕張劇場」という映画館があり、いつも炭鉱労働者で賑わってい
た。私も映画好きの父によく連れて行ったもらったものだ。
同時に、夕張は数多くの映画の舞台ともなった。「女ひとり大地を行く」(昭和28年・炭労制作)、「あ
の橋の畔で」(昭和37年・松竹制作)、「幸せの黄色いハンカチ」(昭和52年・松竹制作)等多くの名
作が夕張を舞台としている。
撮影地としては、「皇帝のいない8月」(昭和53年・松竹)が挙げられる。この映画では、南大夕張駅構
内にブルートレインのセットを組み、自衛隊の夜間襲撃シーンを撮影した。★また、「 鉄道員(ぽっぽや)
」の高倉健も2回ほど三菱大夕張鉄道に映画撮影に訪れている。
★炭砿閉山後、夕張市は「石炭の歴史村」「レースイスキー場」等の観光開発を推進し、平成2年より夕張
国際映画祭を開催するなど「映画のある街・夕張」をテーマにした街づくりを推進している。

昭和30年代の大夕張劇場入り口(写真:佐藤次男氏)
ブルートレイン「さくら号」が出現(写真:奥山道紀氏)

7.5年後には、駅長に
私が三菱大夕張鉄道に入社したのは、昭和59年の秋。それまで3ヶ月ほど、★坑内に入っていたのだが、
鉄道に求人の口があり、それに応募したのだ。
私が勤務していた当時、★1日5往復(昭和62年の廃止時で混合3往復+貨物3往復の計6往復です。間
違いでは?)の列車が清水沢とを結んでいた。ふだんから忙しくないのに、日曜日になれば、通学生がいな
いので、列車は間引かれる。朝、清水沢からの★列車を迎えれば、次は夕方まで★列車は来ない。
職員は将棋を指したり、たばこを吸いながら散歩したり、詰め所で昼寝をしたりしていた。今にして思えば
、のどかな職場であった。
当時、駅には、駅務を担当する「内勤」が5人、操車や転轍を担当する「外勤」が7人の職員がいた。50
代以上がほとんどで、皆、私よりも年長の人ばかりであった。
「お前、あと5年もすれば、駅長だな」
と冗談とも真ともとれぬことをよく言われたものだ。しかし、それは実現することはなかった。

★大夕張駅を出発する混合列車(写真:本間正雄氏)
三菱マークが見える南大夕張駅(写真:奥山道紀氏)

8.「合理化」の名の下に
私が南大夕張駅に勤務したころ、すでに石炭は冬の時代を迎えていた。「合理化」の名の下に、人員カット
が遂行され、★炭砿は閉山へと向かっていた。
昭和60年5月23日、南大夕張砿でガス爆発事故が起こった。未曾有の大惨事で、62名の尊い命が犠牲
になった。炭砿には事故はつきものとはわかってはいたが、こうした大きな悲劇を目の当たりにして、背筋
が凍る思いがした。炭砿が操業を停止したため、駅には、次から次へと送り込まれる「セキ」がヤード一杯
になり、私はそのやり繰りに忙殺された。
南大夕張砿は平成2年に閉山になるが、今にして思えばこれがきっかけであったようだ
しかし、鉄道は一足早く、昭和62年の春、三菱より鉄道廃止の通知がなされると、何の抵抗もなく、★7
月21日を持って廃止された。★76年の歴史であった。

★閉山反対のペイントを施したSL・昭和48年(写真:本間正雄氏)
放置されたままのラッセル車(写真:飯田雅人氏)

9.ダムに沈む町
大夕張は現在、建設中の★シューパロダムによって水没しようとしている。すでに、★大夕張の町全体の建
物は取り壊された。何でも、水没するとき、浮いてきて困るので、すべて破壊・除去してしまうのだという。
この町で、運動会、祭などを思い起こすと、胸を裂かれるような思いにさせられる。かつてこの地に、鉄道
が延び、人々が暮らし、文化が花開いたことも、遠い記憶の彼方に沈もうとしている。
町の★記憶を残す意味でも、南大夕張に★遺された列車をしっかりと★守っていくことがそこを古里とする
者の使命と思う。

鹿島小学校(写真:飯田雅人氏)
壊れた鹿島小学校門と記念碑(写真:ヒロ三浦氏)
http://www1.mat.muroran-it.ac.jp/ishigaki/gio/image/PA210043.JPG



■23(木)

北斗星?

■24(金)

札幌 
15:00 奥山氏面会

幌加内?

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加計駅は広島県北部の山あいの駅だ。私は7年前、一度訪れたことがある。その加計駅がいま、存続の危機を迎えている。可部線の可部駅以北が近々廃止として俎上に上げられているのである。

今月の「あの駅はいま・・・」は小田豊隆さんに、加計駅を語っていただく。小田さんは加計町で生まれ育った。当然、加計駅に並々ならぬ愛着を持っている。小田さんは言う。

「単なる採算という指標だけで、地域の切り捨てがあっていいものでしょうか? JR西日本という一民間企業にそのような権限を持たせていいものでしょうか・・・」

結論は3月末に出される。

小田さんのサイトでは、可部線存続に向けての活動が紹介されている。ぜひ、ご覧いただきたい。

 がんばろう可部線
 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kabeline/index.html
                               
                            (清水正夫)

①■加計駅の思い出

加計駅開業は昭和29年、私が生まれる前の年のことである。

開業の日、5歳になっていた姉は、父の押す自転車に乗せられて加計駅に行った。真新しい加計駅には、大勢の人集まり、一番列車の到着を待っていた。すると、突然爆音が周囲の山々にこだました。

大人の背に取り囲まれて周囲が見えない姉は、思わず上を見上げたらしい。爆音の主は新聞社の写真撮影用のセスナ機であった。

「大人の背で空しか見えなかった。子ども達みんなは、”汽車”ではなく、空の”記者”を見ていたんだね」

姉は、当時を冗談交じりに振り返る。

②■待ちこがれる町民

開業日のようすは、加計正文さんが書いた「本郷線開通のよろこび」から引用するのがいいだろう。加計さんはその名の通り、この町の名士で、可部線延伸にたいへん努力された方だ。

 ***

 加計は……本年布・加計間の工事が完成して、三月三十日愈々開通式が挙行 されることになった。

 六十年来待ちに待ち焦がれていた沿線町村民の喜びようは到底筆舌に尽くし がたいほどである。そのため工事中も大人、子供の見物は絶えず、架橋工事 を弁当持ちで終日見物する老人があるかと思えば、工事用無蓋車の運転を見 て、雨天には傘を持って乗らねばならぬかとつぶやく老婆があると云う、嘘 のような話さえ随所に聞かれたのであった。

③■「万歳! 万歳!」

 愈々開通式の三月三十日、弥生の空は雲一つなく天気は正に上々、招待客臨 時列車が加計駅着予定の時刻十二時数分前、ホームにも線路両側の柵外にも 至るところ数千人の歓迎の人々が溢れ、国旗を手に手に固唾をのんで待って いる。正にあらしの前の静けさである。

 やがて南方遙に汽笛の音が鳴り響いた思うと間もなく、太田渓谷の緑山碧水 を縫うて白煙を長く棚曳かせながら汽車がどんどん進んで来る。
 交叉した国 旗を前部に飾った機関車が、待ちに待った汽車が加計駅ホーム に滑り込んだ。一瞬、静まりかえっていた黒山の人から一斉に万歳の声が起 った。この感激はみんな生涯忘れられないだろう。

④■町民の歓迎ぶり

 続いて開通式、祝賀会が型通りに終ると、さあ大変である。近村近郷、地元 各部落の餅撒き、田楽、手踊り、仮装行列、俵もみ等々趣向をこらした数々 多彩の催し物がくり拡げられ、加計の町は興奮の渦に巻き込まれてしまっ  た。そしてその伴奏でもあるかのように駅に発着する汽車が高く汽笛を鳴り 響かせば、踊るものも見るものも益々勢いづき興奮其の極に達しいつ果つべ くもない。

 この町に溢れた大衆は三万余り、さんさんと降りそそぐ春光を浴びて老いも 若きも喜びに満ち充ちて堪えがたい顔、顔、顔。まったく私達には涙なしで は見られない情景である。……

  広浜鉄道期成加計同盟会長・加計正文の「本郷線開通のよろこび」
  広島鉄道管理局機関誌「ひろしま」六ニ号所収

⑤■可部線の来歴

古来、加計は陰陽連絡路の要衝として殷賑を極めてきた。長きにわたって、川舟、筏を使用した太田川舟運が交通の主体であったが、明治になり、鉄道が各地に敷設され始めると、鉄道のあるなしによる地域格差が歴然とし始め、加計に鉄道を引こうという動きが活発化した。

明治三十年代には早くも「広浜鉄道」の敷設が出願された。川筋の道路が、必ずしも期待通り機能しなかったこともあった。

柿本正廣さんは可部線開業当時をこう振り返る。

 当時、線路にかかって移転することになった家があって、その新築のための 地突き言うて、家を建てる前に地面を固めることをするんですが、<途中略 >あの頃は何かあったらすぐ隣近所、地区の者が集まって協力しあってやっ ていた。祭でも何でも。

 可部線もそうやって作った線路なんですよね。農地を提供し、山を削りして 通した線路が、今もう役にたたないと言われると・・・時代の流れとはいえ 残念だねーと思うんです。今の若い方には車が便利なんでしょうが・・・。 私のような者には、町に汽車が通ったと喜んだのもついこの前のことのよう な気がするんですよ。

こうした地元の期待を背負って、昭和29年、可部線は加計駅まで到達した。
⑥■かつての加計駅

加計駅開業当時の利用客は、昭和29年度の年間乗客人員が、7万9300人であった。その後増え始め、昭和33年に、9万6000人でピークを迎えた。しかし、その後は、次第に減り始め、昭和38年には、同29年の約三分の二までに落ち込んでいた。

一方、貨物の取扱いでは、昭和30年当時、1日1往復の貨物列車が運転され、加計からは木材、木炭、鉄鋼、機械などが運び出され、逆に、セメント、機械、鉄鉱石、肥料などが運び込まれた。貨物輸送に関しては、地元企業の帝国製鉄に依拠するところが大きかった。

⑦■神楽囃子で夜は更けて

加計町は私の生まれ育った土地だ。山間の小さな町であるが、山陽・山陰を結ぶ交通の要衝として、古来、栄えてきた土地だ。

町の名物といえば、まず挙げられるのが、神楽である。町には、神楽団と呼ばれる組織があり、日夜、加計神楽伝承のための稽古が行われている。

温井ダムは加計の新名所である。アーチ式ダムでは黒四ダムに次いで全国第2位の堤高を誇るこのダムは、平成12年11月に完成した。周辺には、ホテルや観光施設が整備された。

⑧■未完の「広浜鉄道」

乗客の減少をしり目に、昭和39年、戸河内へ向けての建設に着手し、44年には、三段峡まで開通した。可部線は、さらにここから山陰本線・浜田まで延伸される予定であった。--広浜鉄道である。
しかし、この構想が実現するはずもなかった。すでに、鉄道の時代は終わりつつあったのだ。

私が勤務する島根県金城町には、この延伸鉄道の工事跡が多数ある。トンネルや鉄橋がほぼ完成したまま放置されているのである。

⑨■加計駅はいま・・・

乗客の減少にともない、鉄道本数も減少するという悪循環の結果、昭和63年には、国鉄の赤字ローカル線として、その存続が危ぶまれるようになった。地元にも、可部線廃止という危機感が走り、廃止反対運動が盛り上がった。

地元住民の反対運動が功を奏して、このときの廃止は免れることとなったが、可部線の利用者減少には歯止めがかからなかった。
あれから13年、再び、可部線に白羽の矢が立った。

この2月12日、JR西日本による試験増便が終わり、3月中に、結論が出されることになっている。開業から45年、先人たちの悲願であったこの駅が、今、存亡の危機を迎えている。

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 がんばろう可部線
 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kabeline/index.html

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①■珠洲駅とともに

#1-1:ふるさと列車「おくのと」
#1-2:大歓迎の珠洲市民

私が生まれたのは昭和39年10月9日、珠洲駅開業が同じ39年の9月21日--。私の人生は、珠洲駅とともに歩んできたといってもよい。

小学校に上がる前、父に連れられてよく珠洲駅に遊びに行った。毎朝、8時30分頃、ディーゼル機関車に牽引された貨物列車が到着するのだが、その入換え作業を見るためである。その帰り道、近くの本屋さんで汽車の絵本を買ってもらうこともあった。

私は貨物列車は好きだったが、なぜかSLは苦手だった。ふるさと列車「おくのと」というSL観光列車が運転し始めた時、喜ぶだろうと珠洲駅へ連れて行ってもらったのだが、あの黒い塊と煙を見た途端びっくりして、汽笛で飛び上がって泣いたそうだ。

②■貨物列車を追って

#2-1:米、レンガ、能登瓦が運ばれていった
#2-2:お手製ヘッドマークと貨物列車

貨物列車が好きだった私は、小学校、中学校、高校になっても暇さえあれば貨物列車の入換えを見に行った。どこから貨物が発送されてくるかには、とりわけ関心を持った。鉄道で全国が繋がっているのだと、実感したものだ。

ちょうど、高度成長期の頃で、貨物列車もたくさん連結されていた。しかし、トラック輸送などの伸びにともない、年を追うごとに貨物取扱量は減少し、昭和56年11月19日、ついに国鉄は珠洲駅の貨物取り扱いを廃止した。

高校に入学してから、鉄道同好会を設立したが、その当時の出来事であった。私たちは、皆でヘッドマークを作成し、機関車に取り付け、別れを惜しんだ。
③■押し寄せるモータリゼーションの波

#3-1:賑わう駅改札
#3-2:急行「能登路」

貨物取り扱いが廃止され、「国鉄再建法」が国会で成立するなど、鉄道の時代の衰退を告げるような出来事が続いたが、珠洲駅は、地域の玄関口として、観光の拠点として賑わっていた。

昭和55年10月のダイヤ改正では、急行「能登路」は20号まで運転されていた。お盆を迎える頃には、4両編成の列車は満員で、珠洲駅はたいへんな賑わいであった。

しかし、ちょうどその頃、北陸鉄道による奥能登特急バスの運転開始、能登有料道路の全線開通など、モータリゼーションの波がひたひたと奥能登を侵しつつあったのである。

④■「能登線」はこれから・・・

#4-1:JRからのと鉄道へ
#4-2:のと鉄道のディーゼルカー
#4-3:珠洲駅
※「4-3」は、撮影:西崎さいき氏
※上記以外写真はすべて、巽好弘氏

昭和62年4月1日、国鉄は分割・民営化され、能登線はJR西日本に移管された。しかし、そのときにはすでに、「能登線」は第三セクター化されることが決まっていたのだ。
JRに移行した翌年の昭和63年3月25日、穴水・蛸島間は「のと鉄道」に移管された。「廃止」という最悪の事態を免れたが、全国を網羅する交通網から切り離されたような寂しい気持ちにさせられた。

こうして発足したのと鉄道であるが、当初の黒字経営もつかの間、ここ数年、利用客は年々減少にともなう苦しい経営状態にさらされている。
この3月末、穴水・輪島間が廃止されるが、今後、のと鉄道・能登線もどのような運命をたどるか予断を許さない状況である。今後も、のと鉄道を見守り続けていきたい。

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--朝の10時過ぎに到着した列車のお客さんが、全員バスに乗りきるのは、午後3時になることもあったのですよ。

輪島駅前で土産物屋を営む岡田尚史さんは、閑散とした駅に目をやりながらこう振り返る。

開業以来じつに66年--地域コミュニティの中心として、そして能登の玄関口として活躍してきた輪島駅は、この3月、その役目を終える。

今月の「あの駅はいま・・・」は、のと鉄道・輪島駅を取り上げる。語り手は、小原修さん--輪島に縁の深い方だ。小原さんは、北陸の鉄道に関して、たんねんな記録、資料をウェブ上に公開している。あわせてご覧いただけたらと思う。

石川の鉄道 http://www2.nsknet.or.jp/~ohara216/isitetu.index.html

第2部では、珠洲駅を取り上げる。奥能登の中心・珠洲も近年、高規格道路が延び、鉄道はいよいよ凋落の一途をたどっている。のと鉄道職員で、能登鉄道友の会の巽好弘さんに珠洲駅を紹介していただく。
巽さんは、自らのホームページで、のと鉄道の紹介をしている。のと鉄道の準公式サイトでもある。ぜひ、ご覧いただきたい。

能登鉄道友の会ホームページ http://www.suzu.or.jp/pub/tatsumi/
                                 
                        
①■昭和41年3月、輪島に着任

昭和41年3月25日、名古屋での1年間の研修を終え、私は最初の赴任地・輪島に降り立った。輪島駅を出て、冷たいみぞれ混じりの雨が降るなか、ひとけの少ない輪島の町を歩いた。

根雪の残る細い路地を抜けると、突然、海原が現れた。そこで見た日本海は今でも忘れない。そこには、水平線が曖昧で、空と海の境目が判然としない、どんよりとした日本海特有の濃い灰色が視界に広がっていたのだ。
押し寄せては岩に砕け散る荒波を眺めながら「これが最果てか、遠くへ来たものだな・・・」と、しみじみ感じ入ったのを思い出す。そういえば、輪島駅ホームの駅名標に、次の駅は「シベリア」と書いてあった。

②■能登観光ブーム

遅い春が終わり、初夏を迎える頃、駅や町は若い旅行客でしだいに賑わい始め、輪島の町はにわかに活気づく。
当時の輪島は、映画「忘却の花びら」や松本清張の小説『ゼロの焦点』をきっかけとした秘境能登観光ブームの絶頂期であった。

金沢からの4両や6両編成の急行列車が到着すると、若者のグループがホームにどっと下り立ち、曽々木海岸をはじめとした”秘境”へと旅立っていった。駅前は観光バスが引きも切らず、輪島の町は降って湧いたような観光特需に沸き立っていた。

③■汽車の思い出

輪島の町にも、そして仕事にも慣れ始めると、出張で珠洲方面に出向くこともあった。ふだんならそれほど込み合うことのない列車も、夏場は混雑して座れないこともしばしばであった。しかし、車内で、同年代の観光客の女性と仲良くなったりと、けっして悪いことばかりでもなかった。今では懐かしい思い出である。

また、途中の穴水駅では輪島から来る列車と珠洲から来る列車が同時に駅に進入することがよくあった。鉄道ファンの私は、並行して走る列車を見ては、「東京の複々線のようだ」と、心躍らせていた。

④■駅の風格

当時、七尾線は旅客列車はすべて気動車になっていたが、貨物列車は依然として蒸気機関車が活躍しており、七尾・輪島間は小型のC56が受け持っていた。そのため、輪島駅には、終着駅にふさわしく、じつにさまざまな設備が整っていた。
転車台、給水塔、給炭台、機関庫があり、駅構内には、数多くの側線が敷かれ、鉄道駅としての風格をいやおうなく誇示していた。木材やチップそして米などを載積した貨物列車は、動輪を響かせながら穴水方面へ走って行った。今では見ることのできない懐かしい風景である。

私は、時間をみては、輪島駅に繰り出し、購入したばかりのカメラを蒸気機関車に向けるのであった。

⑤■輪島駅、開業

昭和10年7月30日、輪島駅が開業した。一番列車は、午前5時25分発。客車3両に貨車1両の編成であった。輪島に鉄路が通ったまさに記念すべき日である。しかし、ここに至るまでに、どれだけ先人の苦労があったかを想像するに余りある。
明治31年に七尾まで伸びた鉄道は、その後、大正14年に和倉、昭和7年に穴水に到達という具合に遅々として進まず、輪島に伸びたのは昭和10年。じつに37年もの歳月を要しているのである。

私は当時のことを直接知りようもないが、輪島の人々がこの日をどれだけ待ちわびていたのか、当時の写真はそれを物語る。鉄道はまさに地域住民の期待と希望の星だったのである。

⑥■漆器と朝市の町--輪島

輪島といえば、輪島塗--漆器と連想される人がほとんどであろう。その昔、北前船が活躍していた頃、輪島から全国各地へ出荷されたそうである。輪島塗は高価なこともあり、なかなか我々庶民の手には入らないが、その製造工程を見学し、じっさいに手に取ってみると、漆職人の息吹が伝わってくるようで、その価値の高さに驚かされるだろう。

一方の朝市も輪島を代表する名所である。漁師のおかみさんたちが、近海の新鮮な魚介類や民芸品を道端にならべて元気な声をあげる。

--こうてくだ!

近年、観光化が著しいという批判もあるが、おばさんたちの元気な声は、時々急に懐かしくなる。そういうとき、私は朝市に足を運んでみるのだ。

⑦■鉄道の凋落

高度経済成長期を経て、日本は大きく変わった。その変化の最たるものの一つは、モータリゼーションだろう。移動も輸送も、この時期に、鉄道利用から自動車利用へと移り変わるなか、この北陸の地の鉄道も次々と姿を消していった。北陸鉄道金石線、同加南線、同能登線は、いずれも昭和40年代に廃止された。

七尾線輪島駅も、昭和50年代に入ると乗降客数が減少の一途をたどった。乗客の減少にともない、列車本数も間引きされるという悪循環に陥っていたのである。
その後、平成3年、それまでJR七尾線であった輪島・和倉温泉間が、第3セクター「のと鉄道」に移管された。一部では、津幡・和倉温泉間の電化と取り引きされたという声もあがっていた。

⑧■再び輪島へ

平成12年7月、私は再び輪島の地を踏んだ。最初の赴任地として着任した時以来、じつに30年ぶりである。
私自身も変わったが、輪島駅もずいぶん変わった。かつてあれだけ賑わった駅構内も閑散とし、側線のレールも剥がされ、今ではホームに1本残るのみである。一時は、金沢方面からの急行列車が1日4往復あったのだが、今では、わずかに1往復を残すのみである。時間の経過とはいえ、その変わりように私は少なからず衝撃を受けた。そしてまさにこの時、輪島駅は存続の危機にさらされていたのだ。

その後、地元の反対運動も実らず、この3月末でいよいよ輪島・穴水間は廃止されることになった。

⑨■「能登はやさしや土までも」

輪島駅は私にとって、人生の道標であったと思う。まだまだ人間としても幼いまま、輪島に着任し、地元の方々の暖かい思いやりによって、社会人として人生の第一歩を記した輪島--。
「能登はやさしや土までも」という言葉があるが、その意味を実感したのを思い出す。

その後、結婚し、子どもたちを育て上げ、仕事の上でも一つの境地に差しかかろうとしていたときに、おそらく最後の仕事場として、再び輪島に来ることになったことに不思議な因縁を感じる。
輪島駅は間もなくなくなるが、この駅のあったことを後世に伝えていくことが、私のささやかな恩返しだと考えている。


●横川駅

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●三滝駅

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●安芸長束駅

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●下祇園駅

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●古市橋駅

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●大町駅

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●緑井駅

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●七軒茶屋駅

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●梅林駅

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●上八木駅

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●中島駅

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●可部駅

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●河戸駅

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●今井田駅

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●安芸亀山駅

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●毛木駅

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●安芸飯室駅

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●布駅

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●小河内駅

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●安野駅

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●水内駅

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●坪野駅

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●田之尻駅

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●津浪駅

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●香草駅

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●加計駅

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●木坂駅

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●殿賀駅

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●上殿駅

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●筒賀駅

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●土居駅

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●戸河内駅

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●三段峡駅

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■2(金)

可部線調査

■3(土)

加計にて、小田氏面会。
井原鉄道乗車。
岡山・西崎氏面会。
蛸島にて、巽氏面会。

●和倉温泉駅

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●田鶴浜駅

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●笠師保駅

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●能登中島駅

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●西岸駅

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●能登鹿島駅

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●能登三井駅

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●能登市ノ瀬駅

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●輪島駅

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■23(火)

上野 〓 寝台特急北陸

■24(水)

和倉温泉 レンタカー

のと鉄道、輪島泊

■25(木)

のと鉄道 ランプの宿

■26(金)

千里浜→加賀温泉

急行能登

■27(土)

上野

●穴水駅

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●中居駅

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●比良駅

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●鹿波駅

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●甲駅

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●沖波駅

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●前波駅

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●古君駅

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●鵜川駅

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●七見駅

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●矢波駅

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●波並駅

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●藤波駅

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●宇出津駅

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●羽根駅

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●小浦駅

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●縄文真脇駅

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●九十九湾小木駅

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●白丸駅

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●九里川尻駅

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●松波駅

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●恋路駅

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●鵜島駅

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●南黒丸駅

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●鵜飼駅

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●上戸駅

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●飯田駅

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●珠洲駅

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珠洲ホーム4.jpg


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●正院駅

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正院待合室2.jpg


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●蛸島駅

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