22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

●奄美が返還されて50年。そのころの出来事で思い出深いことはありますか?

○大きな声で叫びよったゎ。すごく喜んでもぅ、鹿児島の学校、受験する子供は、「おとーさーん、おとーさーん、私大学に行けるよぉー。内地に行けるんだよぉー」って叫んで走ってきよった。「返還したよー、ばんざい、ばんざい」って言ったことを今も目の前で見えるようだねぇ。

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● 白尾フミさん
昭和3年3月19日生まれ。鹿児島県与論町在住。15歳の時、機織りを習いに鹿児島の姉のもとへ。翌年、工場(こうば)
が潰れ、親戚をたよって大牟田へ。三河鉱第一生命寮で坑夫の賄いをする。終戦にともない帰郷、昭和28年結婚。

○ 聞き手

***

◆◆昭和18年8月、白尾さんは15歳の夏に機織りを習うため故郷の与論島から鹿児島の姉のもとへ向かう。

●琉球丸ちゅう名前の船乗って行ったんだけどね、途中、永良部島と与論島の間ぐらいで潜水艦が見付かってね。

○アメリカの潜水艦がですか。

●危ないっちゅう事でいちど引返して、途中の港で一泊してからまた行ったんですよねえ。そしたらそれ聞いた
うちの親父が、いま行かせたら危ないってんで小船出して漕いで来てね、『降りて来い、降りて来い、島に帰ろう』
って、私を船から降ろそうとしたんです。その姿がいまでも目の前に見えるような感じですねえ。

○そりゃ、危ないですもんね。

●けど私は、『絶対行く。鹿児島行く。行きたい』って言って、父を泣かせて帰らせたんですよねえ。それが一番
かわいそうに思いましたね(笑)。帰ってきた時、『お前が生きて帰ってきたからおれはお母さんに怒られずに
済んだ』って喜んで。親父の涙を見た。

○昭和18年・・・まさに戦時中ですからね。

●それから一年して、その正月は鹿児島で機織った。2ひきぐらい織ってる間に世の中が変わってたんだ。その工場
(こうば)が、もうあんた達雇えないから、なにか他の仕事探してくれって、追ん出されて。

○ほう。

●しかたなし、おじさんを訪ねて大牟田まで行ったんですよねえ。与論には船出ないから帰られないし。親戚の
おじさんの紹介で、第一生命寮っていう……鉱山ですね、朝鮮人がたくさん、600人ぐらい収容されてるところ
の飯炊きに入って。16人ぐらいの炊事婦がおって、交代でそこで働いた。

○ふうむ……。

●空襲がやってきた時にね、飛行機がその寮を焼いてしまったんですよ。朝鮮人の住んでるところを。

○その寮、第一生命寮をですか?

●焼けてしもうてね。その後、内地に空襲が烈しくなって来たの。それから天皇陛下の、あの……声を聞いて、
戦争はもう負けましたちゅう事で、何もかも終ってしもうて。仕事も何もかも。朝鮮人も帰して。それからあの
ね、捕虜よ、捕虜、捕虜。アメリカの捕虜がわいわい騒いで来てね、俺たちを殺した日本人をやっつけてやるっ
てそこから出て来てね。私達それ取り締まる力もないから。日本の国は負けたからね。

○……。

●飛行機から食糧を、石炭増産するとこに落下傘で落すんですよね。缶詰やら。それが落ちて来た時は捕虜が
ワァーッと来て掴むんですよね。

○アメリカ兵の捕虜が。

●それ食べてワアワア叫んで……私達んとこで養ってた豚まで引っ張ってって食べちゃって。何とも言えないです
よねえ、負けたら。それ会社の豚なの。養えって持って来られたのを、私達養ってたの。

○それが大牟田にいた時の話ですよね。すると大牟田には何年まで居たことになるんでしょう?

●(昭和)20年かなあ。


◆◆終戦後、白尾さんは与論に戻るため鹿児島に向かう。練兵場に収容されて引揚船の出るのを待った。与論島
の人ばかり数百人の集団で船に乗り、奄美を経て与論島へ帰った。帰ってみると食べるものが何も無く、家では
芋を作って食べていたという。しかし、前浜などの海で海藻類、貝類、タコやウニを採って食べられたとか。

●生きて帰ってきたら家族がみんなで来て、良かったって。その時私着物なんか無いよ。なんも無いよ。裸一貫
で帰って来てね。でももう家族は、生きて帰ってきただけでいいって。

○戦争中は大変でしたね。

●それはでも、みんなそうだから。誰もがそうやって苦労して来たんだから。

○あの時と比べるといまはいいですか?

●そりゃあ地獄から生きて還ったんだもの。


◆◆白尾さんは昭和28年に結婚。また機織りを始めた。ご主人は店を始めた。島の米を精米して、沖縄まで行って
商売をした。当時の沖縄は物不足だったのでよく売れた。今でいうヤミ商売だったという。白尾さんは与論島の名
前にまつわる面白い話も聞かせてくれた。

○ちなみにご主人のお名前は何と?

●主人の名前は書かないでよお(笑)。うちの人はね、名前が2つあるの。家の名前と戸籍の名前があるわけ。うち
の息子は「ジャ」。それは先祖の名前なの。

○それが家の名前なんですか?

●おじいちゃんが「ジャ」っていったからそう付けたわけよ。私は「ナビ」。与論の名前ね、「ナビ」とか
「ウトゥ」とか「チュウ」とか「ハニ」とか「マチ」、こういう名前があるわけよ。先祖の付けてた名前だから。
おばあちゃんの名前は「ナビ」だったってから、私も「ナビ」って付けられたけど、戸籍のはまた「フミ」って
付けた。

○フミさん。

●そういうあれが……ずっと与論にはあります。2つずつ。

○さっきのお嬢さんにも名前が2つあるんですか?

●あれのおばあさんは「ハナ」だったけど、「ハナ」って呼んだ事ない。「エミちゃん」って呼んでる。最初に
生まれた子供はおばあちゃんの名前付ける。男の子だったらおじいちゃんの名前。この島の人はそうするの。昔
からの伝わり、それ。

○その名前というのは、家の中で使うんですか?

●使うけどね、学校行ったらそれはやっぱり戸籍の名前使う。家の名前誰も知らないから。家で使うだけでみんな
家の名前は言わない。最近は、もう2つ名前付けるところあまり無いですよ。


◆◆先祖は神様で、「ジャ」=ご主人の祖父は、「いちばん上の神様」。ご主人と知り合った話も聞かせてくれた。

●昔は、二十歳十九になったらね、男の人がが三味線弾いて、むすめの所にトーン、トーン、トーンって来たの。
すると女の子は、『あれ、三味線が鳴る。誰かなあ、誰かなあ』って迎えに出るわけよね。すると、(男が)『あな
たの家に遊びにきたよー、僕と遊んでくれるー』って。それが縁組のまえの、出会いという事になるんですよ。

○そうだったんですか。

●男の人は友達も連れて来るんですよ。出てって、涼しいとこ茣蓙敷いて、輪を作って遊ぶんです。踊ったり歌った
りして。いまはもう無いですけどねえ。

○そういう遊びがあった訳ですか。

●歌ったり踊ったり、楽しみがあるのがやっぱりいい暮らしですよね。だからああいうのは昔に返ったほうがいい
かな。男が三味線持って女のとこ行ってっていうのはとてもいいと思います。それは雨でも降らん限り毎晩やりま
した。

○毎晩のようにやってたんですか? その風習はいつ頃までありました?

●えーっとね、昭和……40年ごろまであったと思います。だんだんと消えて行った。

○ご主人もやっぱり三味線を弾いて……?

●この人は、不器用で出来なくてねえ。いっかいすごい歌の上手な人が来たんです。その人の連れて来た中に混じっ
てて。

○そうなんですか(笑)。

●だけど、お互いに自分にはこの人がいいんじゃねえかなって感じることが出来て。他に楽しい人、心の優しい人も
いっぱい居たんだけどねえ、だけどそういう、何か運命の与えてくれた人って気がした(笑)。


◆◆奄美諸島が日本に返還されて50年になる。当時白尾さんは25歳。最後にその時の思い出を紹介。

●その時は……何かワアワア、みんな大きな声で叫びよったわ。返還したっつって喜んで。受験する子供は
『おとーさあん、おとーさあん、私大学に行けるよーっ』て。『内地に行けるんだよーっ』って叫んで走ってきより
ました。弟が畑仕事してるとこへ、男の子が夢中になって『返還したよ、バンザイバンザイ』って喜んで来たの、
今でも目の前に見えるようです。

***
**

★昭和20年夏、食べるものは何もなく、みんな芋を食べていた。しかし、前浜などの海に行けば、ホンダワラなどの海草、タコ、ナマコ、ウニ、貝類などが豊富でとてもおいしく食べた。

★家の周辺は荒れ地で、発破を使って地ならしをした。何をするにも力が必要で、力がなければ生きられない時代。

★昭和28年1月に結婚。その後、30年、フミさんは機織り、ご主人は店を始めた。最初は島の米を精米して沖縄に持ち込んで商売した。当時沖縄はまだアメリカ統治下であったが物不足だったためによく売れた。今でいうところのヤミ商売である。

★昭和20年代始め、土地の金比羅に詣でるのに、みんな金がない。そこで、みんなで米を出し合って管長がまとめて奉納した。

★昭和18年8月、機織りを学ぶために、フミさんは鹿児島へ。鹿児島には姉がいた。船の名は「琉球丸」。沖永良部島に差し掛かったあたりで米軍の潜水艦が表れたという情報が入り、とても恐怖した。

★昭和〓年、与論に戻れず、親戚を訪ね、鹿児島から大牟田へ。三河鉱の第一生命寮で朝鮮人鉱夫向けの賄い婦の仕事に就く。そこには朝鮮人が600人も働いていた。

★戦後、鹿児島に向かった。与論に帰るためであるが、なかなか実現できない。鹿児島でしばらく”収容”された後、与論行きの乗船できることに。何百人かいたがみんな何も持たず、着物すらない。

★島に戻ったら、家族は喜んだ。地獄から生きてきたようなものだ。

★与論には、戸籍の名前と「家の名前」がある。家の中では、「家の名前」で呼び合う。ちなみに、フミさんの「家の名前」は「ナビ」。先祖(おばあさん)の名前にちなんで付けられた。

★「家の名前」は先祖の名前にちなんで付けられる。フミさんのお子さんは、長男から「ジャ」さん、「ウシ」さん、「フラ」さんという。「ジャ」という名は、ご主人の祖父の名、「ウシ」はご主人の父の名、「フラ」は自らの父の名が付けられた。

★ご先祖様は神様であり、「ジャ」=ご主人の祖父は、「いちばん上の神様」である。島には、他にも「ウトゥ」、「チュー」、「ハニ」、「マチ」、「ムチ」という名もある。ただし、学校などでは戸籍の名で呼び合い、使用することはない。最近ではすっかり廃れてしまった。

★19歳、20歳になれば、男は三味線を弾きながら、女を訪ねる。女は手をたたいてそれを迎える。月の晩、草原に茣蓙を敷き、車座になった。そこで踊りを踊ったり、歌を歌ったりして、それは楽しいものだった。それが縁となって、結婚することもしばしばだった。

★フミさんのご主人もその席で知り合った。ただし、ご主人は不器用な人で、三味線が上手な人に混じってやってきた。これが縁で結婚した。

★戦争に負け(いくさに負け)、朝鮮人を帰すことになる。そこでフミさんは仕事を失うことに。

大正10年生まれ。沖永良部島の少年学校を卒業後、20歳で兵役に就き満州へ。昭和20年ソ連の捕虜になり、
重労働に従事させられる。昭和22年帰国、農業を営む。35歳の時和泊町町会議員に。
◆兵役

●末川さんはお生まれが大正10年ということですので、関東大震災のちょっと前ですね。

○うちは家が貧しかったからさ、けっきょく中等学校にも行けなくって。尋常高等小学校というのがだいたい8年かかるんだよね。それから青年学校行って……、もうその当時は兵役の義務あったでしょ。徴兵検査で甲種合格になってね、あとは軍隊生活よ。

●徴兵検査の時はおいくつだったでしょう。

○二十歳よ。あれは義務だからね。三大義務ってあったんですよね、我々の時代。納税、兵役、教育の義務。日本国民だったらいやおうなしに、その歳なったら徴兵検査受けると決まっとったからね。

●ふうん……少年学校におられた頃、世間では二・二六事件とか物騒なことがあった訳ですけど、当時それをどうご覧になってましたか?

○その時はあまり関心とかなかったねえ。満洲事変なんかもあったけども。

●そんなに危機感を感じたりはなかったんですか。

○僕等の時の教育ってのは、いわゆる天皇というのが、なんて云うかな、神様ということで奉ってたんだ。結局あの……絶対服従だと。そういう教育だからね。それにたてつく事できないし。そういう教育でずっと来て、やがて戦争が始まったということでね。まあ結局、不幸な戦争ですよね。原爆投下されたり……。まあ僕は、日本国民として生まれたからには自分の国守るのがつとめだと、そういう教育受けてたからね。

●昭和17年、徴兵されてから鹿児島へ行ったというおはなしですが、これはどうしてなんですか?

○僕等は満洲行くんだったけどね、いちど鹿児島に集められたの。(昭和)17年の1月10日だったかな。満洲って寒いからね、一期間(3ヶ月)そこで訓練受けてから5月に満洲へ渡ったの。そろそろ暖かくなってるから。

●満洲行くときはどこから、佐世保とかからですか。

○いや、門司から。門司から大連に出て、そこから列車。すごい臭い、ニンニクのにおいのする列車でな。当時の満洲はほんとうに立派な、日本の領土みたいな格好になっとったからな。何時間ぐらいだったかな、電車でゴットンゴットン揺られて……5月にもなると向こうも暖かいんだ。

●満洲はどちらへ?

○ハイラルってとこだ。71連隊558部隊に入ってね、それからいろいろあったんだよな。

※末川さんは下士官を志望したので教導学校へ行く。連隊に戻って来てから一年ほどで軍曹に昇進した。 満洲へ渡ったのは末川さんの代が最後で、ご本人ものちに別の連隊に転属になったという。



◆抑留された前後

●初めて行かれた満州のご感想は?

○広いなあーと思ったな。海で水平線見えるでしょ、あれと同じ状況。もう地平線がずーっとあるわけよね。おおーきな河(黒龍江)もあるしね、それ渡ると陣地なわけよ。そこからソ連軍の陣地も見えたよ。

●ソ連軍といえば、その何年かまえにノモンハン事件がありましたね。

○それは僕の行くまえ。みんなやられたんだ。結局ノモンハンというのは、何と云うかなあ、向こうは部隊も大きくって戦車だとかにしても進んだ機械のもの持っとった。それで散々やられたの。

●いつか自分達もソ連とやるんだって思ってましたか?

○その時はソ連と不可侵条約結んでたんだよね。お互いが攻めない、と。だから警戒はするけども、まずソ連は入ってこないだろうと考えとったけどな。ところが最後、日本が負けそうになったら、来たよ。

●はい。

○だから結局ああいった国にとって、条約なんてのは紙切れみたいなもんだったんだよね。こんな常識の無い国だったとは思ってなかった。だから抑留されてからもソ連の兵隊と付き合いしたり、どこか行ったりしたけどね、教養の無い人間がたくさんおる。あの連中見てたらね、負けたのが口惜しかった。本当に口惜しかった。

●ソ連が攻めてきた時は昭和20年の8月ごろですか?いつものように守備に付いてたら攻め込まれたという感じですか。

○うんにゃ、7月には攻めて来たよ。いきなり国境越えて。

※ソ連の参戦、そして終戦へ。「そこからが面白いんだ」と末川さんは語る。末川さんのいた第二大隊の人たちには、フィリピンに転属され、上陸作戦に失敗し玉砕した方々もいるという。「そういうこと考えると、人間ってのは運だな。僕も行ってたら今ごろ生きてないだろうし」

●ソ連に攻め込まれる直前になにか前触れはありましたか。

○前触れなんかないけども、ああいう国だから、この際満洲押さえとこうって事で入り込んだわけよ。満洲はそうとう豊富な資源があったからね。中国は満洲に対して力無いし、結局は朝鮮の北の方まで支配下に入れたわけだな。

●その瞬間にはどうされてました?

○戦闘態勢取って陣地入って、やったんですよね。けど、向こうは戦車でダーッと来るんですよね。兵器なんかでもいろんな面で劣勢だった。対抗するだけの力は無かったよな。

●勝ち目無いって感じでしたか。

○まああそういった感じだね、当時の状況からすればな。だって日本なんてこんな小さな島の人がさ、支那からあんた南方までずーっと守備に行ってたからな。それだけ戦線が広がれば駄目ですよ。

●ハイラルの街にもけっこう民間人が居たことと思いますけども……。

○居たよ。当時の国の政策でね、開拓団というのがあったんだ。義勇軍とかなんとか名前付いとったけどね。その人たちが連れて行かれるんだけど、最後は小さな子供までが、南のほうへトボトボ歩いてくんだよ。恐らく最後まで生きて帰れたのはほとんどわずかでしょう。いちばんかわいそうだったと僕は思ってますよ。

※ソ連軍は末川さんたちを日本に帰すからという話で武装解除を命じた。が、連れて行かれた先はクラスキー。その次はナホトカ。待っていたのは強制労働の日々だった。「ただ運のいい事には、僕等がナホトカ着いたの最後だったから、日本に復員する時いちばん最初に帰れたんだ」

●2年間抑留されていたということですが、どんな事をさせられたのですか?

○いろんな事させられたな。でも最初は良かったのよ。満洲の物資をね、クラスキーの駅まで運んで来たのを汽車に積んだり、けっきょく物資の積み降ろしだね。それを僕40人ぐらいの兵隊といっしょにさせられたんだよね。その時は食糧もあったから、何不自由しなかったわけよ。それが約3ヵ月ぐらいで終っちゃって今度はナホトカ連れてかれてね……それから重労働になった。

●ナホトカではどんな感じの事をさせられました。

○あの、港の埋め立てやる時にさ、発破かけて石を割るでしょ。その石をずっと集めてくんだ。1人当たりノルマが決まってて、それ達成するのにくたびれてね。

●重労働のなかで、亡くなられた方とかはおられませんでしたか。

○いやあ、だからもう零下30度40度でしょ。それでも仕事さぼる訳にはいかないから……でも、僕がいまでも元気あるのはそういう苦労してきたからよね。鍛えられたわけよ。

●そんな生活のなかで、いずれ日本に帰れるんだとか、そういう希望は持てましたか?

○それは何か、いろいろ情報入っとったからね。

●あっそうなんですか。

○まあそれまで死なないようがんばろうと。ただ食糧がさ、これっくらいの枕みたいな黒パンでね、まずいんだよ。それだから道端のセリとか取って食べるし。やっぱり人間ってのは食いものが無くなると心も荒んでね、泥棒してでも食べたいとか、そういう気になれるんですよね。生きるためにね。そういう辛抱したから、僕もいま精神的に肉体的に、きたえられたんじゃないかと思ってますけどね。

※抑留を経て故郷に戻った時、末川さんは27歳になっていた。それから農業をしていたが、その後「若い連中に勧められるままに」町会議員を務める。末川さんの居ないあいだ、沖永良部の島も大変だった。空襲のほか、島の守備隊を標的とした「もう、水兵さんが見えるぐらい近く」からの艦砲射撃もあった。「ポン―ポン―ポン―」(射撃の音)

米兵の上陸こそ無かったが、被害は相当なもの。家屋の屋根などは萱葺きなので、焼夷弾が落ちるたび焼けたという。

末川さんの弟さん(四男。末川さん本人は次男)も中学を出ると同時に学徒動員で召集され、関門海峡で敵の魚雷ために落命されたという。もうひと月もすれば終戦という時期だった。



◆最後に

○まあ、戦争というのは本当につらいもんですよね。日本は負けたんだ結局……兵隊さんだけの戦いじゃなくてその頃はやっぱり、何て云うかなあ、軍でなくてもやられたりやってるわけよね。

●帰ってこられた時はさぞかし驚かれたでしょうね。どんなお気持ちでしたか?

○そうですねえ、もう米国の占領下だから、(星条旗といっしょに)日本の国旗も立ってるような状態じゃな。われわれ日本の国旗見て一生懸命軍隊でがんばってきたけども、それもかなわず敗戦になっちゃったって、そういう風に感じたな。

●島に星条旗が立ってたんですか?

○星条旗立ってなくても結局日本の旗立ってるって感じかな。教育とか全部違って来るでしょ。行政とかね。日本から分離させられたようなもんだからな、沖縄といっしょにね。

●そういえば今年(2003年)がちょうど返還50周年ですね。

○おお、そうなんですよ。だから、今年はおっきなイベントやるんですよ。

●末川さんの目からは、いまの日本はどう見えるのでしょう。

○いま人殺しとかいじめとか多いでしょ。僕等の時は心の教育が徹底しとったからね。だから道徳教育というのが、いま何か駄目だな。僕等の頃は修身と云ったけども。いまの若いみなさんには、もっと自分の祖国というものをね、どういった目で見るのか考えてほしいですね。僕もう83で、いつお迎えが来るかわからんけども、目の黒いうちはやっぱりこう、世のため人のためでやってきたんだから。これからの日本はちょっと耐えないと駄目かな。逆境に耐えられるようなんないと。心の強い子供を育てないと駄目だと思います。それが僕の持論ですね。

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大正8年、鹿児島県生まれ。

国鉄職員を経て、昭和14年に入隊。旧満州各地を歩兵として転々とする。終戦後はソ連軍から逃げ続け、昭和23年、大連より帰国。

昭和24年に東京・神楽坂に居を移す。その後独立、会社役員としての生活の傍ら、国会図書館に通いながらアジア近現代史を自主的に学ぶ。戦友会も束ねるなど精力的に活動している。

日時:2003年5月15日
場所:神楽坂
聞き手:新藤浩伸

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国鉄職員から歩兵へ、満州各地を転戦

国鉄職員。3年いて、昭和14年に満鉄、15年に入隊。部隊の歌は土井晩翠がつくって。徴兵検査は満二十歳。満鉄に一年いました。でも得したことは、あそこは中国人の先生が中国語を週に2回くらい2~3時間教えてくれました。難しい話はともかく、普通の会話は困らない。一人でどこへでも行けます。

―今も?

いま中国に会社を作って。いま変な病気が流行るんで行きませんけど、去年も行ってきました。戦地では、鉄道職員としてではなく、歩兵として。体格よかったから機関銃兵。一分間に機関銃は600発。 55キロの機関銃を分解し、27キロと28キロのものを担いで山でも何でも登る。

―!?すごいですね。

4個中隊、各中隊から選抜された討伐隊、軍用列車で毎年。そして太平洋戦争開始。満州国安定のための戦い。終戦間際は、万里長城付近でのたたかい。列車に乗れば、行く限りの大平原大平原。そこにこれだけの鉄道網の整備を。特急アジアは、大連が基点。奉天、ちょうしゅん、ハルビン。昭和の初期に冷暖房をそなえとった。満鉄総裁だった方が提唱して始められたですよ。

―実際の戦闘も?

ありますよ。たくさん仲間が死にました。階級章は私の頃から肩から襟に。狙われて撃たれるからね。



終戦、脱走、帰国

―終戦後は?

23年、大連から帰国。3年間捕虜生活。中国語をしゃべれるようになった。9月の末、捕虜収容所を脱走して、中国人の農家に飛び込んだ。日本の軍隊はいい服着てるから、中国人の服と代えてもらって。関東省は果物、とうもろこし、さつまいも、何でもできて食べるに困らなかった。奉天から大連まで、400キロくらいを半月ちかくかけて行きました。ソ連軍が入っているから無政府状態。下手に外を歩くとまたひっつかまって連れてかれてしまう。あんまり目立たないようにして、3年間もぐり続けましたよ。

―では捕虜としてではなく、逃げながら3年間を!

一般人の中にまぎれて。大連は日本の租借地、行政区域だから、たくさん日本人いました。神楽坂に来たのは昭和24年。出版の仕事を。しかし倒産、お客さんから、「独立したら仕事回してやるよ」といわれ独立。

―そしていまは図書館がよいを。

満鉄なんて、兵隊行った人でもあんまり知らないでしょう。成り立ちや歴史的なものや。独立守備隊の任務が何だったのかを知りたい。台湾の歴史を知りたい。

―どのあたりの歴史が、今言われている事と違いますか?

重慶まで行って、蒋介石と話ができる度胸のある政治家が欲しかった。

―今は戦友会の事務もなさって。

仙台と靖国で交互に慰霊祭。昭和6年9月18日奉天郊外の柳条溝事件(注:満州事変)の実施部隊がうちの部隊だったんです。それでいつもこのあたりで慰霊祭を。うちの会の第一回会長は、柳条溝事件の部隊長。平成3年、「私の履歴書」に載った島本・部隊長。 靖国の小さい部屋で新聞記者の取材、事務局長の私と島本会長で取材を受けました。 「君たちは知らないかもしれないけど・・・ 満州国・中華人民共和国はわれわれ独立守備隊がつくったようなもんだ。蒋介石の国民党がいつまでも日本と妥協しないから大東亜戦争が破滅。われわれが蒋介石と戦ったから、中共軍が建国できたのだ、よくおぼえとけ」会長はこういいましたね。・・・


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岩田シズヱさん
大正4年2月16日生まれ。17歳で結婚、ご主人を戦地で亡くす。
原田静子さん
大正13年1月10日生まれ。元小学校の教員。
国光武子さん
大正11年7月10日生まれ。ご主人はのり会社を営む。戦中は使用人25人を抱え、家庭を支える。
宇多信江さん
大正5年11月20日生まれ。元気でどこも悪くない!と豪語する。

日時:平成15年3月20日
場所:広島県の岩田さん宅
聴き手:新藤浩伸

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岩田シズヱさん

岩田:子供の頃は夏休みには草刈り。みしろを打ちよって、縄をのうて、自分の小遣い持ってって、鉛筆こうてこうて、うちらのこどもんときゃあね。 宿題でもちいたああったかもしらんけど、いつも子供を負わされるんじゃけん。ほいちゃあ遊びに行って、おろしてまた遊ぶんよ。4年生ごろじゃったかの。

―11人もいたら賑やかだったでしょうね。お嫁に行ってからは?

岩田:17の3月。主人が23じゃった。8人のうち6人が女ばかりの岩田家へ。主人と弟が男。温室でカーネーションを作った。昭和16年、召集かかって主人が出た。でも出ることを内緒にせにゃいけんかった。9月23日に来て五日目に出た。親類と近所にだけ知らせて。いつもは青年会が集まって、一杯飲んで出たんやけどね。わしと親類だけ電車で行って。ちょっと後ろ向いて、ああこれで最後じゃと思ったんじゃろうね。暁部隊いう部隊で、ちょっと来たとき、「今5分休憩」ゆうて「おとうちゃん兵隊になったけん、いいこにせえよ」ゆうたきりで、出るのを見もせんと戻ったんよ。ララマ、スマトラ、比島、橋をかけたり、家を建てたり、まあひどかったようです。そしたら今度はビルマに渡って。手紙が来んようになった。最後じゃいうんが来てから、20年の7月に戦死した。

―それでお骨を受け取って。

岩田:岩田の骨ったってなんもありゃせん。しょうがない、骨もろうて、風呂敷包んで、戻ったわけ。墓もたってもらえん。京都でも靖国神社でも。しょうがなかったんよね。お寺に集めて葬式してもろうただけじゃ、欲しいとも思わんが勲章も何もありゃせん。20年の7月20日に戦死したわけやけど、小指切って焼いて箱入れて戻った。しょうがないよね。どうしようもないよね。誰もゆうちゃいけん。どうじゃろうかのう、ある人ははよ死んだゆうけどわからんよね。部隊長さんが言われたとおりにして。憲兵が殺しに来るってゆうて恐ろしかったね。なにをゆうても憲兵、憲兵…。なにひとつ言われるじゃない。

―そのころがいちばん大変でしたか。

岩田:ええ。婦人会で松葉を負うておいといて、空襲きたらそれをうすぼらす、煙で隠す。はよ、飛行機来るけんゆうて。娘三人、電気も消して泥棒もよう入らなんだこと(笑)。B29が山口に来たらサイレンがウーウー鳴る。防空壕、刃物の破れで穴掘って。


宇多:あの頃の話をすると涙が止まりませんよ。戦死したり、大変だった。私らの若いころ、戦争中、何も食べるものがなくなって。パーマかけてもいけない。みんな食うや食わず。私のところは8人家族、やっと食べられるだけのお米をもらって。ゆのみへちょこっと。供出してしまって。あたしも長生きしちゃ国にご迷惑かけちゃいけないと思うわけよね(笑)みんなゲートボールしよってっけど、まちでも年寄りのほうが多いですよ。一生懸命食うや食わずで銃後の婦人。年寄りが長いこと生きてるのは、みんな元気で青春時代を取り戻しちょるんじゃ。・・・さて、一時間や二時間じゃ語れません。どこを絞って聞きたいの?

―やはり戦争のときのことを。



戦争の思い出

宇多:大変だった。あの頃はみんな米を作った。突然台所へ入って、見回りに来る。ある日、団子作ってたら、おじいさんが「今日はもちが食べにくいのお、ヨモギが多いんじゃないかのお」って。6人兄弟の一番上、下に男二人、その下に女二人。私は今、目も耳も、口も達者。昔のことなんか誰も聞いちゃくれん。古いこというなって。今もイラクがあるけど。どこの家にも戦死者がおる、優秀なのが。そのころの話すりゃあ、語るも涙。いやじゃないけど、そのころの辛さはなしたって、現在をもっと元気に生きてもらわにゃいけんし。でも忘れて欲しくない、あのころの辛さ。あのころ、庭の松ノ木にもかぼちゃ登らす。でなったのを食べる。弟が戦死したのが終戦の日、接岸作戦で。そのごろ、戦争のこと大きな声で話しちゃいけん、憲兵さんにやられるからね。あのときでないとわからん。あの時は戦争せにゃいけんかった。やるとかやらんとかじゃない、政治の流れでやらにゃいけんかった。そういう時代に生きてきたのじゃ。政治の大事さもわかる。私ら田んぼ耕しちゃ、銃後の守りじゃって一生懸命、だから私も節くれだった手。
原爆落ちて終戦になったとき、山の畑におって、こうして泣きました。涙が落ちて、あたしらが一生懸命やったけど、こんなにたくさん亡くなってしまって。戦争のない国にせにゃいけん思った。持ってる鍬を立てて、涙がぽろぽろ落ちるんです。私は短歌を作ってるんですけど、その時代を生きてきた歌日記になってるんです。「軍靴を今高らかに出でたつと・・・」行進していくそのなかに自分の弟たちがいる。今ドームがあるでしょう。あそこまで、握り飯作って、歩いていった。あれが西練兵場。あの軍靴のなかに弟がいる、生きて帰れますように、って祈って。でも口に出しちゃあいけない。夜中に広島駅まで歩いていって、列車が着くのを待って。「市川さん、市川さん、いらっしゃいませんかああーー!」そうしたらいたんです。「お姉さんここまで来てくれてすいません」「元気で帰ってきて下さいよ!」列車が通過するために止まった。改札員は誰もおらん、私が開けて入ったんです。走ってプラットホームの中へ。遠い昔じゃけんね。

国光:戦争も終わりのほうは、みんな死ぬるゆうことわかって出陣したんじゃ。消耗品みたいに。玉砕いうて、言葉はいいけどあんた・・・国内の警備のほうにまわっとった。東洋工業が大砲の弾など作ったんですよ。今のような平和産業ではなく。その部品を作るほうへまわっとったんです、私の主人。ひとつも軍事、海外へは行かん、国内警備にまわっとった。サイレンが鳴ればゲートルこう巻いて、帽子かぶってタオルを持っていくんですよ。巻いたりはずしたり大変やった。東洋工業と製鋼所がほとんど。非国民ですけど、海外へは行かなかった。国内警備に召集されたのは昭和18年の12月1日。私ら結婚式が11月20日。10日しかないんですよ。はよ嫁もろうとかにゃといって。そうすりゃ兵隊の生活が苦しくても、自分で自分を撃つことがないゆうて。苦しいんですよその兵隊の生活は。一つのりんごを八つに分けて食う生活。九人いたからなお難しい(笑)。おにぎりでも分けて。今の時代の人はもったいないことするねと思う。ごみ見てごらんなさい。

宇多:あの頃のことを思えばね。テツドウグサをとって食べよった人いっぱいある。

―テツドウグサ?

宇多:鉄道のヘリに花が咲いとる。いもはまだいい、茎や葉っぱも甘みがあっておいしい。そのごろそれご馳走じゃったんですよ。

国光:のり商売をやっていて、使用人まで25に食べさせなきゃならん。大戸をあけてテーブルを並べて、朝食べて片付けたらもう支度、朝味噌汁とのり、昼は晩のおにしめの残り、とうどんって決めてた。で夜はまた材料を買い出して。昭和20年に生まれた長男をおぶっててんてこまい。やんやんやんやんいう子供をおぶって。結婚は22。

宇多:一番苦労されたのはこの岩田さんじゃろうね。子供が3人も4人も生まれたころ戦争で。そりゃ辛いときよ。

岩田:(笑)・・・

国光:化粧だのファッションだのいう時代やないんですよ。いつ空襲来てもとんで出られるように。子供を後ろに負うな、見えんから前に抱っこして行きなさいよゆうて。長男が20年の1月に生まれて、これを死なしちゃならん思うて。で庭の中に防空壕ほって畳ひいて電気引いて。豪華な防空壕じゃったよ(笑)

岩田:私んとこむしろじゃった。ほんとは電気つけちゃいけないんじゃけどね。

国光:電気つけりゃ泣き止むよ。21年、23年、26年、みんな男ばっかり。



原爆の落ちたころ

宇多:肝心なことは絞ってきかにゃあ、夜んなってもおわらんよ。長い人生じゃけん(笑)

―では、原爆のことを聞かせて下さい。

国光:19年の暮れに空襲。小倉から見ても呉が大火災。呉は軍港だったから、次は広島じゃいうて。その日は今から役場へ行こう思うときでした。どっかーん、ああ今どこかな思うたら、ヤカンも何もひっくりかえっとる。ガラスがびびーんって響いて。

宇多:ガラスを十文字に張っといたね。

国光:私んとこのおばあさんとおじいさんは「なあにここがやられるわけがない、わしは日清日露を経験してきとる。あんなことがあるもんかい」「おじいさん、今ごろは兵器が盛んになっとるんじゃけん、」いうても頑として動かん。そうしたところにボカーンと来たでしょう。主人はすぐ部隊のほうにいったんやけどだーれもおらんやったから戻ってきた。で夜探しにいったら、おじいさんがガラス窓のとこにポカーンっていて血まみれになってた。箪笥が倒れ掛かって、その下から声がする、「あんた、箪笥の下じゃけん」いうたら下からおばあさんの白髪頭が出てきて引きずり出した。なんにもありゃせん、工場も全滅。あのときは涙涙よ。お父さんも「支店がみなやられた」いうて男泣きでしたよ。おじいさんも怪我しとる、火達磨のようじゃ。ガラスの破片が爆風で飛んできて刺さっとる。お医者さんいったら一つ一つピンセットで。もう見られんよ。こっちが気い失いそうになる。外科の先生が、「おうちのほうへ帰っとって下さい、患者さんは届けますから。」あっちの病院もこっちの病院も負傷者ばっかり。主人はおじいさんとおばあさんを大八車に乗せて家に届けて会社へ。そしたら何にもありゃせん。

宇多:この辺は家は倒れなかったけどガラスは割れた。私のところは直接のあれはない、看護はした。子供が帰らんおらんいうて探しには行った。病気にもならん。ここらまでは大きな被害はない。ここから建物疎開に行った人は被害を受けた。

国光:8時半から9時ごろのあいだにもくもくもくもく。こりゃただ事じゃないよって。毒ガスかわからん、こっち来るけんいうてひどかったね。びびーんいうて。

原田:記憶にあるのは・・・学校で教員してて、分校に出てたんですよ。遠く。帰りに「先生、広島の方はおおごとじゃそうだよ」いうて見たら、高い山の向こうから黒い煙がもくもく。何もわからず帰って。原爆のあと、姉の学校の教室が全部被爆者の収容所。全部髪ぬけて、男か女かわかりません。みなさん髪がない。知り合いの人が、髪が抜けるんじゃいうて、なんとなく髪がなくなってるんですよ。それから勤め先に電話して、村長さんのご子息が原爆にあわれて亡くなったって。私は姉のところ行って。学校からは煙が上がり、ああ誰かが亡くなったんだろうなと。お骨が二トン車に二台。今の児童館のところにトラックで二台。そこでみな焼いたんじゃろうな。霊が出るよって。

岩田:焼くところで降ろしちゃみな焼いた。焼き場の番をするおじさんが、「12時過ぎたら鳴く声が聞こえる」って。霊が「ここじゃなかった、うちじゃない」いうんじゃろうよ。役場の人が行ってみてみたら、やっぱりわんわんわんわん泣くんじゃけ。毎日お経上げたら霊が治まった。

国光:骨の中のりんが燃える音がするんじゃって。方々で焼くんだから。



しばしの別れ

岩田:また因縁じゃけんねえ。会えるのも因縁。

宇多:とりとめもない話を悪いね。みんな年寄りじゃけん、あっはっはっは!

岩田:因縁じゃけんねー!

西ヶ迫五郎さん(73)
昭和6年、広島県生まれ。

退職後は平和公園内でビールを飲みながら、道行く人と話しをする毎日。

日時:平成15年3月19日

■原爆の光

ここから一時間ほど離れたところでしたが、ぱーっと黄色く光ったですよ。目の前が黄色くなってね、広島の空見たら原爆の雲が、すぐあがったです。原爆ドームの200、300メートル離れた島病院の550メートル上空で炸裂したんよ。大正4年にできて、市のいろんな珍しいもん展示してあるところだったですよ。

―原爆の被害は?

全然なかった。原爆症にもならなんだ。ちょっとトイレ行っとく。川のほうでちょっと・・・。

・・・

■世代間の差、日米の力の差

飲んだ方が話しが弾む。こうして人の話聞くのも社会勉強じゃ。人間は生きとる間は一日一日が勉強じゃけんね。いろんな人と話すのがええ。話ししてから、相手の悪いとこは四捨五入してはねるんよ。でええとこを吸収すればええ。だれでもみな長所短所ある、それでええんよ、人間死ぬまで勉強、これでええいうことはない。職人でも研究仕事でもみなそうでしょう、これでええいうことはない。人間社会はきりがない。今の若いもんは生意気なもんが多い。毎日のように言いよるでしょう、親が子を、子が親を殺す。私ら子供んときゃそんなこと滅多になかった。

―何が違うんでしょう。教育? 環境?

修身と道徳で、親孝行を習った。そのあとマッカーサーが修身道徳なくしてしもうたんじゃ。人間だめにしよ思うて。そうすりゃ自分の好きなようにできるでしょう。で今の暴走族みたいなのができた。特攻隊でも杯いっぱいで最後じゃけ、敵の軍艦突っ込んで、死んで帰らぬが花。

―おじさんは兵隊へは?

14歳で身体検査は受けたんよ。それですぐ終戦。戦争に14歳の兵隊出したって、何の役に立たりゃせんが。鉄砲打つことも手旗信号もなんもできん。日本とアメリカ、三つ子と赤子が相撲とるようなもんだ。日本が昔ロシアを相手に勝ったでしょう。シナ事変でも勝った、勝ち戦でしょう、のぼせてしもうた。でもアメリカは相手が違う。新聞には大本営発表言うてね、敵の軍艦何隻沈めた、飛行機何機落とした言うて、みな嘘やった。

―そのときは本当だと?

そのぐらい言わにゃあ国民がやる気にならんでしょうが。逆にいい知らせ書きよったんや。わしら子供のときやから、嘘を書いとったのはわからんやった。山口の萩、吉田松陰の門下生、伊藤博文。石炭炊いてぽんぽん蒸気、革靴はいて背広着てネクタイ締めて。日本は下駄はいて着物着て。伊藤博文は日本はアメリカに100年遅れてる言うた。で戦争中だって、アメリカは原爆もっとったのに、夏に婦人会が、アメリカの兵隊突くんや言うて、青竹をとんがらかして練習しよる。勝てるわけないよ。今日本の車の3分の1は女の人。戦前でもアメリカは女の人でも子供でも車を運転しよる。今になってようやっと追いついとる。60年遅れとんのや。わしら子供のとき女の人が運転しよるの見たことない。農業機械だって60年遅れとる。明治維新の伊藤博文がアメリカ行ったから日本は変わった。門下生14,15人が日本を変えよった。

■食事

一日2合5尺の米の配給。それに大根やらいもづるやら入れて雑炊炊きよった。いももない。

―うまいもんですか?

おなかが減っとるからなんでもうまい。で夏は八時過ぎまで明るいでしょう。で雑炊は3分の2が水でしょう。で2、3回トイレ行ったら、夜おなかがきゅうきゅういって寝られんのよ。

―腹一杯食べた覚えがないでしょう?

ないですね。で終戦になってようやくコッペパンが一食に一戸ずつ配給になって、そんときは嬉しかったですよ。さつまいも蒸したもんもらったら、おごちそうやいうて頬張って食べよったよ。若い人に話してあげたい。

年寄り=偉いことはない

―じっさい、若い人に話す機会はあるんですか?

・・・ないね。お兄さんみたいに聴いてくれる人がありゃいいけん、「おじさん、昔のこと言いさんな」て言われるけ。自分の体験やないことは聞いてもわからんしめんどくさがりよる。でも人間苦労しなきゃだめよね。

―僕らは苦労がない世代。食べ物もある、学校にも行ける、食いっぱぐれることもない。子供がじいちゃんに話を聞く機会がない、そうやって苦労も知らないまま育ってしまっていいのかな。

子供に、「昔は戦争中で食べ物に苦労したんじゃ」と教えてもぴんとこんじゃろうな。頭のええ子は一生懸命聞くんじゃろうな。えらい子はじっと聞いとります。知らん顔してる子もおる。みながみなじゃない。ここに座っとっても、おじさんこんにちはって頭下げる子もおりますよ。女の子でこんにちはって。

―おじさんはここによく来て?

もうあんまり仕事もせんけんね。人通るの見ながら、ビール好きやからよくこうして飲みよる。やからお兄さん、人間は、年取ってるからえらい、若いけんえろうないいうことは言われん。なんぼ60年70年人生経験積んどっても、心の悪い人はだめじゃけんね。人生経験だけじゃない、脳みその問題じゃ。小学生でも頭下げていきよる子もおれば、大人でも心の遅れた人はだめじゃ。やっぱり人間脳みそや。子供でも相手の気分を壊さんようにものを言うてくれる。その人間の持ち前じゃ。わしゃそう思っとる。でもあいさつようできるからって、大きゅうなってその子が出世できるかいうたら、それは保障できん。子供と大人はまた考えが変わる。でも大体子供のとき賢い子は大人になっても賢い。いつも座っとって感心するんよ。ほいでやっぱし、あいさつしてくれりゃ気持ちええよね。大人の人でも話しかけてもめんどくさい、知らんような顔して通るけんね。

■人生は厳しくも楽しい

結局あれよね、日本の財閥いうたら世界の財閥やけんね。松下幸之助は東北のほうの人間、親がコレがないけん小学校にもろくにいっとらんよ。で大阪の自転車屋に丁稚奉公。で集金に行かせたら、向こうの人が「まけてくれ」いうてまけて帰ったんよ。14さいぐらい。「ばかたれこの、なんでまけて帰った!商売人は食うか食われるかじゃけ、あほなことすな」いうて怒られた。こうして世界の松下じゃ。人間、脳みそ持ったもんと、まるいもん持ったもんが、貧乏人を食いもんにするんよ。人生がそういうもんになってるんですよ。野生の王国と同じじゃ。

―厳しいですね。

おにいさんもう一杯飲め、話が弾むやろ。

―ああすいません。

月謝もらわにゃいけん

―ええ!?

わはは冗談や冗談。ちっと小便行ってくる。

・・・

お兄さんとよう話しが合うけん、こう話するんよ。結局世の中一寸先が闇いうけど、うちの兄が公務員やった。25年して辞めたんよ。でその兄の嫁さんの弟が尾道にある因島いうところでスーパーを一軒始めたら儲かるかわからん言うて、作ったらしいんよ。そいから半年くらいしたらもっと大きいスーパーができて、結局食われて半年間で1000万円パー。当時でよ。今も昔も、コレもっとる方が強い。安く売る。

―今なんかもっとひどいでしょうな。

今贅沢しておるのは日本。米騒動いうて、組合の倉庫に押し入って、大正時代にね。今凶作になっても心配はない。貿易やるから。

―詳しいですね!商売されとるんですか?

トーダイでとるんよ。宇品の灯台でとるんよ。

―・・・。

わっはっは冗談やがな。人間冗談言えにゃあいかんよ。冗談言えん人は出世できん。

―どうしたら言えるようになるんですか?

そりゃあ場踏まないかん。人生経験体験せないかん。わしもはじめ言えんかったよ。人間いうのは相手のケツ極端に持ち上げようとしてもだめ。腹ぁ見られる。相手に気がつかんようにジワリジワリ持ち上げる。おにいさん、これ。

―え?もう一本?どうも。

よう聞いてくれるけん。

(まだまだ続きました。)

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繁さん:僕は恵まれているんです。19歳で徴兵検査を受けました。日本の兵隊さんの最後の現役兵として徴兵されたんです。新兵さんはそれ以降はいないんです。あとはみんなお年寄りが入ってきました。40から50くらい。息子さんが見習士官という初老の人もいました。二等兵や上等兵にいつも叩かれてね。叩かれに行ったようなもんだ。僕らは新兵さんの一番最後。旧制中学を卒業して、一年ぐらい仕事して召集されました。

芳香さん:私は勤労奉仕。各工場に行きましたよ。

―じゃ日本からは出ないで?

繁さん:そう。タイメン鉄道建設を完成させた当時の技術軍団です。鉄道兵と云うんです。でも銃剣もありませんでした。分隊長が当時としては思考力の幅広い人で、幹部候補生(私等はそう云う名前で呼ばれていました。)教育の説話時間に、島崎藤村の詩を読んで聞かせてくれました。

―・・・へえ。

繁さん:特殊な人でした。ほんと兵隊さんらしくない。本来なら当然将校になれるのに、「自分は下士官で満足だ」と。でもそのかわり、ほかの二等兵や上等兵に叩かれる叩かれる(笑)ものすごく叩くんですよ。靴で叩かれる。お互いを叩かせる。仲間同士で。やさしくしよったら、また叩く。初頭兵教育なら当然。そういう時代でした。

―!!!

繁さん:僕の弟は旧制中学二年のとき予科練に志願して出征しました。当時16歳、まだかわいい子供ですよ。特攻隊、二度と帰ってこない飛行機に乗ることをわかってて志願する。燃料は帰りの分は積んでない。たまたま終戦になって帰ってきたけどね。


仕事に忙しく
繁さん:結婚は昭和26年。25歳のとき。

芳香さん:あなたももうそろそろね(笑)

―仕事がないことにはなあ。

繁さん:復員してきて、新日鉄を辞めて、福岡銀行へ。この人も福岡銀行、戦前から。僕は戦後。

―お仕事は大変だったんでしょうか。

繁さん:朝は早くから夜遅くまで。子供たちの成長の過程や学校に行く姿等は、写真で見るよりほかに記憶にない。

芳香さん:引越しを3回しましたが、主人は荷造りすらしたことはありません。

繁さん:非常に忙しかった。でも希望がありましたよ。一生懸命やれば将来は明るい幸せが必ずあると。

―そこは今の向き合い方と違うなあ。これだけ景気が悪いと、どれだけがんばっても、働くことに希望を持ちにくいのかもしれません。

繁さん:特殊な技能を持つ人はいい。でもそうたくさんはいないもんね。あなたたちは一番苦しい世代ですよ。将来に希望を持てない、不透明な時代を生きて行くことは、本当に難しい。

―そういう生活が定年まで続いたんですね。

芳香さん:家のことはなんもかんも私。いまは料理のボランティア。健康料理教室、市が主催のふれあい昼食会。65歳以上の一人暮らしのお年寄りの方に来ていただいて料理を食べてもらう。ぜんぜんでれっとしてるわけじゃない(笑)なんのかんのと世間の中で生きて行くのは楽しいね。昔はこの家に15人おったんですけどね。おじいちゃんおばあちゃんと三世帯、小さいのがうようよ7人いたんだもん。

―15人!??

芳香さん:私の子供はみんなここでお産。いっぺんにお風呂に入れて、オムツを洗って、三度三度のごはんをつくって。


今になってみれば
繁さん:やっぱり人間というものはその人の寿命というか運命というか、決められて生まれてくる。そう思いますね、この年になると。長生きしたいと思っても、早く死にたいと思っても、そうも行かない。このごろ、そう思うようになった。若いうちは考えないもん。

―考えもしない。明日のことや、今腹が減ったとか。

繁さん:自分の持ち時間が少なくなってきたというのは確実にわかる。人間やっぱり、毎日毎日を悔いなく生きること、生活すること。そうしたらきっといいこともある。

―毎日誠実にというのは難しいですね。

繁さん:ちょうどあなた方の年代は悩むね。でもその時代時代、年齢年齢にふさわしい悩みがある。悩む人はいいよ。悩む人はいい。進歩がある。

芳香さん:私はがんで、子宮も卵巣もない。だんなさんはトイレでばたーって倒れた。やっぱ年ぃとったらだめね。血液検査は3ヶ月にいっぺんは必要です。

繁さん:平成5年の暮れ、くも膜下出血で倒れ、平成13年に胃がん。3分の2切った。くも膜下出血で運ばれたら、脳外科の先生が当直だった。すぐに頭切って。早期発見、早くてよかった。もう78にも77にもなりゃ…もうええ(笑)

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―こうしてよく集まってお話を?

きみ江さん:みんなでゲートボールやっとったな。でももうあかんわ。
椴山さん:この人うまいの、ゲートボールでも風船バレーでも的当てでも何でも腕前達者。
きみ江さん:ゲートボールはやったなんて言えないよ。何でも玉が横に行っちゃう。
椴山:それあたしのことだわ。(笑)

竹内きみ江さん(写真右)
大正11年10月2日、常滑市矢田生まれ。尋常小学校卒業後、紡績工場に勤める。結婚後は家業のさらし屋を手伝う。

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椴山(もみやま)みよさん(写真中央)
大正12年1月25日、岐阜県生まれ。陶器工場の事務員として働く。結婚後、常滑に移り住む。

竹内タマさん(写真左)
大正12年、6人きょうだいの長女として、常滑市に生まれる。横須賀の女学校に通った後、おじの手伝いで綿織物業に従事。

林チカさん(写真はお嫌いとのこと)
大正14年常滑市生まれ。タマさんの妹。横須賀での女学校時代、捕虜の強制労働の姿を強烈に憶えている。



聞き取り日時:2003年3月17日
場所:愛知県知多市 竹内きみ江さんのお宅にて
聞き手:新藤浩伸


子供時代

きみ江:常滑市矢田で育ちました。

林:よう知っとるね。記憶力いいね。

きみ江:間違ってても合ってる風な顔して言うだ。

林:よう憶えておいでだわ。

きみ江:違っとっかもしれんよ。ごめんなさい。

―何人兄弟?

きみ江:生まれるはようけ生まれた。六人生まれて三人は亡くなった。一人は20年あとに生まれて。

―そんなに違うんですか?

タマ:上と下はそんぐらい違う。親子みたいなもんじゃって。

椴山:(笑)今の人が見ると面白いやな。

きみ江:私のだんなさんが怒ったもん「今頃・・・」って。

林:怒ってもできやあ仕方ないがな。

きみ江:怒らんでもいいやね。

椴山:自分が悪いんだもの、怒らんでもええやのお。

タマ:うちは6人、女が5人に一人戦死。長男が。政府が悩んでいる間に、朝鮮の先で沈没しちゃった。さっぱりわからん。軍隊手帳もありゃせん。もう半年はよう終戦になっとったら。

椴山:私の姉は92で、12違うけど元気なの。兄が戦争で亡くなったけど、4人兄弟はみんな元気なの。



仕事

きみ江:尋常小学校6年行って。学校が嫌いで、岡田の工場へ働きに行った。

タマ:この辺は綿織物が盛んだったわさ。

きみ江:私は勉強嫌いだったからいいけど、勉強できる人は泣いとったよ。

林:まるでおしんみたいなこといっとる(笑)。

椴山:むぎわら峠なんて話があったでしょう、あんなもんだよ。

きみ江:5、6年。くだまき、へとおし。

―くだまき、へとおし?

タマ:若い人にはわからんだろう。私はおじが田舎で機屋。召集され兵隊に。それで私は機屋の女工さんのご飯炊き。それで工場のこと知っとるんだわ。おじのとこで覚えた。ようやらしてもらったわ。いちにいいちにいって。だからあんたのことよくわかる。原綿できた糸を織って、小幅の機を織る。おしっこなんかでついた油を加工して白くする、そういう商売をうちでしていたの。昔からそういう商売。手ぬぐいぐらいの長さに裁断して、工場へ持ってくだよ。それから何もかも切符制になっちゃったでしょ。で、妊婦者には、ハラマキを一畳、それも配給で出さなならん。そういうのも作ってたね。今はマジックでひっつけるだけでしょう。

―お仕事はいつまで?

タマ:最盛期は戦争中。昔は木綿で肌着をつくってた。東京だ大阪だ、肌シャツをたくさん使うところがあって、繁盛しとったよ。大野の駅前に芸者屋、機屋の景気よかったときはすごかった。夢じゃ。夢夢。あんなことやって、どれぐらい遊んだだか。

きみ江:工場で働き行ったことだけ言える。

椴山:聞いてもわからんだろ、そんなこと。

―林さんは?

林:私はどこもいっとらん。朝倉の資料館行ってみな。昔の手機を今もやってるよ。

椴山:私は全然方角違い、全然知らない。陶器工場の事務。登り窯が山にだーっと並んでる。都会のほうからみえると火事だって腰抜けるぐらいびっくりする。岐阜県の洞戸村からかまどに送りつけられてくる。

―事務仕事はいつまで?

椴山:…5年くらい働いたか。働いたか、遊んだか…諏訪湖に遊びにも行った。



空襲

タマ:ここに工場があったもんで、狙われたな。

林:空襲で、土手にぺたあーって張り付いて。

林:怖かったよ。松林に逃げても飛行機で追っかけてくるんだもん。タマ:夜中でも来たもんな。このへんに工場があって。ものすごい爆撃を受けた。

林:お通夜でろうそくの火がちょろちょろってしてたからそこをめがけてでででででででーってきたって。燃えるならもっと燃えればいいのにな、燃えついでに(笑)って思っとった。

タマ:北粕谷なんか全滅かって思ったもんね。それと飛行場の空襲だな。地震もあったし、上から下から怖かった。

椴山:粕谷に落ちたとき、まあきれいなこと!

タマ:そらきれいだよ。あんな光見たことない。粕谷全滅だと思ったもんな。

林:ちょうど花火が落ちるが如しだなあ。ほんでも死ぬのは嫌で土手に張り付いて見とったね。

タマ:あの焼夷弾ってのは、ゴムでもついてんのか、ぱあんぱあんってはぜて壁でも何でも張り付くだいな。屋根突き抜けてね。



食糧難

林:ひどかったよ。るたやら…

―「るた」?

タマ:こんな大きな丸い…

林:大根か人参みたいな…。

タマ:あと種粕!大豆の殻みたいなの。あれご飯に入ってるの思い出すとうえぇってなる。まずい。入ってかへん。ちょっと食べたら倍になって戻ってくる。るた、大根、干し大根の入ったご飯、とうもろこしのだんご汁なんて、食べれんよ!

―いつごろから食べ物はひどくなりました?

タマ:配給になってからだな。わしが女学校にいたのが昭和15年…私たちの女学校、横須賀では、冬になると豚汁を作ってくれたの。私たちの出た後がひどくなったみたいね。学校でも勤労奉仕やって、工場へ借り出されて。

―戦後になったらやはり楽になりましたか?

もみやま:でも昭和25年ぐらいまでは…

タマ:そうええことないわねえ。終戦後でも。

林:何しろ、犬も食べんようなものを食べとったね。

タマ:終戦後、軍隊が解散するとき、リヤカーで米をもらいに行った人もあるよ。食料事情は何しろ悪かったねえ。田舎は外で飼っっとった牛でも豚でも、盗まれた。そのぐらい泥棒があっただよ。商売でやったかもしれんよ。牛一匹盗られた、豚盗られたって、粕谷の方では盗人がよくあっただよ。

林:そこらにありゃ、よそのものもうちのものもありゃせんわな。

タマ:動物性の食料が足りんだわ。

きみ江:私の矢田ってとこは、米が豊富。でも供出だのなんだので出さにゃならんで、大変だったよ。

タマ:名古屋から古着を持って、物々交換。流行ったよ。えらい旦那衆の人がええ着物持ってきてねえ。粕谷の方では米と交換したね。

―その頃はみんな大変だったって聞きますね。

タマ:全国がそうだろうよ。だけどまあ、米は本当に、食べたかったね! どれぐらいひもじい思いしたか!



横須賀の捕虜

林:工場には行かなかったけど、百姓には借り出された。捕虜の人がこんな重そうな荷物を象みたいに引きずって、かわいそうだったな。じゃらじゃらじゃらじゃら歩いてるんだもん。憲兵が竹もって叩くのよ。「どういうことするの!」ってよく喧嘩したもんよ。

―捕虜というのは…

林:確か中国人だったと思うよ。涙こぼして、裸足でやっとった。冷たいだろうねって言っとって。曲芸の象みたいに繋がれて、ちょっとけつまずくとぴしゃっていくんだもん。

タマ:横須賀には留置場があったのかな。

―どんな仕事を?

林:それは見せてくれなんだ。でも空襲だって言えばあっというまに逃げて早かったよ。私たちもかごをかぶって逃げて、怖かったよ。ばらばらばらばらって降ってきて。





戦中の意識

タマ:下らん話ばっかりで。今イラクのことでどうのこうの言ってるけど、やれば犠牲者が出るから止めないかん。

―戦争開始当時、嫌だって思いましたか?

タマ:そんなもの、勝った勝った勝った勝ったって情報ばっかだもん。

林:負けたことちっとも言わへん(笑)

タマ:ほんだけど最後の時には、なんだあな、なぎなただの槍だの稽古しに行ったなあ。

林:あんな竹で突かれて死ぬたわけはおらんよねえ(笑)ようやったと思うよ。

きみ江:私は忘れちゃって口にだせん。覚えてないの。

タマ:広いとこで稽古した。お寺さんだのお宮さんだの。あんなの、爆弾バカバカーンって落とされりゃ役に立つもんかい!

―じゃ、やってるときもばかばかしいと?

タマ:ほのときは軍を信用しとったからねえ。まあでも今の子にそんな話したってよくわからんらに。

林:わからんより、ばかだって言っとるわね。このばかが何やっとるって。





エピソード

・結婚、空襲、みかんの花

椴山:結婚式は戦争中、熱田神宮でやったの。で電車で常滑に来るとき、空襲がまたあった。朝倉のほうかな。島田のかつら下げてね。私、ここに嫁いで来たの5月だったけどね、みかんの木を見たことがなかったの。そしたら浜のほうからずっと上がってくると、みかんの花が咲いてるもんでびっくりしてね。そのあとみかんをむいてみたらぼろぼろでね(笑)びっくりしたねえ。はじめてみた。

タマ:花がつくころはそうなっちゃう。ぱさぱさだね。

林:このへんみんな桑畑ばっかりだったな。ずーっと。

椴山;私のうちのとこももそうだった。それからみかんを植えたね。

・松茸大豊作

椴山:これは松茸。取るとぼりぼりって音がするよ。これは取れた記念で撮ったの。私らの会社は名古屋の布池に本部がある。

林:松茸は足で蹴飛ばしていったよ。靴で踏んで見向きもしない。あの松茸山どうなってって聞いたらゴルフ場になったって。

・遠足
椴山:これは遠足。ひげの先生が珠算、修身、国語を教えてくれたの。





藤平恭子さん(ふじひら・きょうこ)
昭和4年、山形県米沢市の藤電機商会社長・藤平貫一の四女として生まれる。戦時中は事業がうまくいっていたお陰で、ある程度財産を持っていた家だったが、戦後妻よし(恭子の母親)が他界したことで仕事のやる気をなくし、毎日酒と芸者遊びに明け暮れるようになる。そんな父親の姿を見ていた恭子は、結婚をするのを辞め、藤平家を継ぐと決心。30歳頃、東京に出てきてからも最後まで父親の面倒を見ていた。現在では、貫一の17回忌やその母ハルの50回忌など法事を取り仕切きる。

聞き取り日時:2003年1月30日
場所:東京都西東京市

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■戦後の状況

藤平:終戦を伝えた天皇陛下のお言葉。あれを初めて聞いたとき、意味が理解できなかったんですよ。男の人に教えてもらってやっと日本が負けたって分かってね。「おい、日本負けたんだってよ」って、泣きましたね。

――戦争を終えたとき、直後の混乱ぶりはどのようなものだったんですか?

藤平:進駐軍が山形に入って米沢見に来るっていうんで、女、見つけられると引っ張っていかれそうだと思ったから、親父が緊張して、屋根裏に女だけ隠して、囲うとこ作ってくれたんですよ。

――それは、藤平家としては、ほとんど全員いなくなるみたいな。男は親父さんしかいないですもんね。

藤平:はい、そうです。もう何されるか分からないですから。昔は戦争で負けたら殺されるくらいは覚悟してましたから。

――そうだったんですか。

藤平:そうしたら、ちょうどうちの前で、アメリカさんたちのジープがパンクしたんです。

――あらら。

藤平:でも、うちには入ってきそうもなかったんで、二階の屋根裏の窓からそ~っと姉妹全員で覗いてたんです。そしたら、すごいですねぇ。自動車のタイヤに入れる空気入れが日本にはないんですよ。自転車用のしかない。だから、その自転車用の空気入れで空気を入れてたんですけど、その体力のあること!シャッ、シャッ、と。きちんと空気入れましたからね。

――え、自転車用の空気入れで、ジープのパンクを直しちゃったんですか?

藤平:ええ。しかも、最後までしっかり押しているの。力持ちだね~、そりゃ日本は戦争に負けるわけだよね~って。日本の男だったら、すぐへなへなになって、あんなのできないよね、ってこそこそしゃべっていたのを覚えています。

――そうですか~。それを屋根裏の窓の間から見ていたわけですね。

藤平:そうです。曇りガラスのちょっとの間からね。見つかると何されっかわからないから、見っかんないように見なさいよなんて言われてさ(笑)。



戦前と戦後の価値観の違い

――戦後になって、例えば、民主主義という言葉とか、いろいろ戦前とは違う価値観が入ってきましたよね。そういう世間の価値観が変わったことについてはどうお感じになりましたか?

藤平:そうですねぇ、もう学校は卒業してしまったので、ある日突然先生の教えることが変わったとか、教科書に墨を塗った経験はしてないですね。で、親たちからは厳しく長幼之序を仕込まれていましたから。どんな無理を言われても「はい、お姉様」。それで来てますから。最近、こっち(東京)来てからですよ。妹たちにも敬語付けるようになったのは。

――妹さんたちには、敬語を付けるようになった?

藤平:はい。前には妹たちには呼び捨て、上には敬称付けたんです。だけど、妹たちもひとりの人格として見なすようになって、敬称つけるようになったのはこっち来てからですね。

――そうですか。

藤平:それまでは、威張ってていいんです。ひとつでも上ならば。だから、姉は言いますよ。「いいなぁ、妹は。娘よりも言うこと聞いてくれるから」って(笑)。

――どうして変わられたんですか。

藤平:それは、周りの民主主義かなんかの影響でなんとなく。世の中の流れでね。でも、気持ちはまだ姉だぞというのはありますね。



戦時中(幼少~少女)の頃

●藤電機商会は銀行から米沢で一番経済的に潤っていたと言われたことがあるくらい事業が軌道に乗っていた。その社長貫一の娘七人姉妹は、当時まだ周りが着物を着ていた中で、洋服に身を包んでいたため、地元では「藤電のお嬢様」と言われていたらしい。

●住んでいたのは、米沢の町のちょうど中心部。

●しかし、物は乏しく、白いご飯を食べると周りから言われるため、食事というと芋がいっぱい入ったご飯ばかりだった。卵はごちそうだった。

●軍歌を好んで歌った。特に「露営の歌」(♪天皇陛下のためならばあ なんで命が惜しかろう…)。戦争は当たり前だと思っていた。個人の自由なんてないのが当たり前だと思ったいた。

●女学校を卒業した後は、栃木へ1年間家事手伝い(花嫁修行)に出された。掃除や水汲みなど、一通り行った。途中で帰りたいことも度々あったが、親から言われた通り1年間はしっかりやろうと決め、最後までがんばった。

●米沢はあまり空襲されることがなく、防空壕には2、3回ほどしか避難したことはない。ただ、夜は明かりをつけられなかった。戦争が終わって、自由に明かりをつけられるようになったのは嬉しかった。



■父・貫一の仕事

●満州にて鉱山開発を行う。

●貫一は、よく出張していたため、家にはほとんどいなかった。店は、母親よしがすべて切り盛りしていた。妹が学校で父について「顔を見たことがない」と作文に書いたとき、母は「まるで妾の子だねぇ」と笑ったことがあるという。

●米沢に工場はあったが、東京まで仕事を取りに出かけていた。


■戦後

●満州から父が帰還した。焼け焦げた頭巾を被り、玄関にいる父の姿を見たとき、まるでお化けが立っているのかと思った。

●母よしが亡くなり、貫一は一気に仕事へのやる気をなくす。酒と芸者遊びに明け暮れる日々が続いた。

●日本が高度経済成長期に入っても、事業はずっと右肩下がりが続いた。

●預金封鎖によって、財産の大部分を失った。貫一は、事業を行うためには金が必要だと言って、財産のほとんどは物や土地にせず、銀行へ預けていたことが裏目に出た。

●虱が大発生。どんなに綺麗にしていても、どこからか湧いて出た。シャボン等のものがまったくなかったせい。

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樺島和加(かばしま・わか)さん

大正9年、上海に生まれる。8歳で日本に帰国、祖母のいた奈良に住む。
昭和16年、精一さんのもとに嫁ぎ、福岡へ。福岡市内、田川市へと転勤、昭和38年に東京へ。
クリスチャンとして、日曜の礼拝を欠かさず続けている。

日時:平成15年1月29日
場所:東京都中野区

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樺島和加さん-10代の奈良―平和な日々にさす戦争の影

◆8歳で小学校に入るときに父に日本に返され、祖母がいた(公証役場未亡人)奈良にいついた。奈良の女子高等師範に行くためでもあった。

樺島:女高師付属のあいだはほんと平和でした。女学校5年ごろから(s12ころ)戦争の気配がしてきたんです。
女学校時代はのほほんとしたほんといい時代だったんです。そのあとの人がね、英語はないわ動員されて工場に働きに行ったりしたみたい。そういう目にあわないで済んだんです。

―いい時代だったんですね。

樺島:震災で母の兄一家が東京から女中を連れてきたんです。
そしたら大仏さんのごーんという鐘で腰を抜かして、それを私覚えてるんです。大仏さんのすぐ側だったんです。でもいい時代でした。春日さんのお祭りとか、若草山のお祭りとか。

―しばらくすると、東京では515事件とか226事件とか結構物騒な事件が起きてきます。そういうものを奈良にいながらどのようにご覧になっていました?

樺島:あまり知らされてなかったんですよ。226事件なんて新聞にもあまり出ないし。
満州国の皇帝さんがきましたよ。そして私行列してお迎えしました。それからあとが兵隊さんが出征するのを旗振って…

―まだ幸せな時期だったんですね。その5年後に戦争が起きるなんて考えてらっしゃいましたか?

樺島:そんなのぜんぜん!思いもかけない。盧溝橋事件があったというのも、日本が正しいようにずっと聞かされてたし、警察も「アカ」っていううちを探して、何にもわかんないけど「『アカ』ってこわい」って聞いたり。

―次第にそういうようなことが身の回りにおきるようになってきて、不安を感じるようになったんですね。そのころは楽しかったですか?

樺島:いいえ、あまり。もうほんとになごやかなあれからこうだんだん戦争に出て行くっていう感じで、どうなるかなあっていう気持ちはあったと思いますね。

―10代前半は穏やかな時期で、後半は急激に…



家族

◆父・藤井岬さんは、当時中国にあった大学・東亜同文書院(現在、跡地は鉄道大学に)に事務職として勤めていた。おじ(和加さんの姉のご主人)が東亜同文書院の創設者の一人で、おじ夫婦が父に中国行きを勧めた。

樺島:父がおじに傾倒してね、私の名前も付けてくれたんです。死んだあとも、墓側にたのむっていって、桃山の墓地の隣に。

◆母・二宮きのさんは高知の出身。女子高等師範を出て小学校の教諭・助手をやっていたが父と結婚した。

樺島:わかが生まれて父は喜び、ベランダから食用鳩を逃がしてやったんだって。

―食用鳩?

樺島:昔はね、鳩をね、自分のうちでね、毛をむしってね、食べたんですよ。
そしたらね、パーっと飛んで行ってね、どっか高いとこへとまって、サーっと逃げていったの。母がよく言ってた。

―そういう風習が上海にあったわけですね。

樺島:父は姉を連れてレストランへ行ったりもしました。

―上海では裕福な家だったんですね。

樺島:そうですね。お給料がよくて苦労知らずだったみたい。



父の死

◆女学校の五年のとき父がなくなってから売り食いだ。
◆姉に聞いたら保険を解約したりして暮らしたって。
◆姉は同志社の女専を出て三井信託に勤めていた。
◆姉とは4歳半上なの 大正5年1月生まれ
◆母は、父の死後幼稚園に勤務。嫁ぐ前は先生をやっていた
◆現在唯一残る家具も、母が父の墓を作るとき売ろうかとしたが、主人が「そんなの売るんだったら僕が買う」と残した。

―お母様とお姉さまがしっかりしていたから、それ程苦労されなかったんですね。

樺島:でもなんか物売りましたね、いろいろ。土地はなく借家でした。売り食いは戦争前5年間くらいです。



戦争中に見た中国

樺島 :北京のおじのさそいで、結婚する1年前に、北京に行きました。紫禁城とか。そしたらすっごいんです。日本とまるで規模が違う。あまり中国がみたとこすごかった。日光行ったらわるいけどぼっちゃんみたいで…。あれをみたからかな 戦争なんて馬鹿なことをするんだって…私一人で思ってたんですよ。

―そのときの北京の様子はどうでした?

樺島:日本人威張ってました。アマっていって中国のお手伝いさん、ボーイもいて、かわいがってくれました。

―中国での印象的なことは?

樺島:アマなどは快く思ってないかな、と思いましたね。日本人に対して気持ちよく思ってないって。

―日本人は結構いたんですね。

樺島:満鉄の人や清水組・大林組など建設の人が多く、暮らしぶりが豊かでした。

―北京には1年ぐらいいて、それでつれもどされてお嫁に行かれた。

樺島:15年に訪中、16年4月に嫁ぎました。帰ってきたら普通の人は中国に行けなくなっていたんです。



嫁ぎ先・福岡で戦争が始まって

◆ご主人・精一さんは同志社を出て大牟田の三井鉱山の事務をしていた。娘が生まれたときには長崎の生月島に出征していた。
◆精一さんは、岬さん・佳寿雄さん(きのさんの姉)に子供がなく、久留米の高橋家から養子に来た。岬さんの妹が高橋に嫁ぎ、生まれた子供が精一さん。
樺島:戦争が始まった昭和16年、九州に片付いたんですよ。この年の12月8日に戦争が始まったんですよね。防空壕を妹と一生懸命彫ったんですよ。終戦の日も。戦争の起こった日は、アメリカと戦争をするなんて「なんてばかなことするんだろう」ってほんと思いました。

―全然かなう相手じゃないと。

樺島:そう。もう全部だめだなって思いました。そのときはそうでもなかったですが、だんだん、死ぬより他しょうがないなって。それで、近所のおじいさんが村の畑を全部畑にしていたんですね。したらそのおじいさんが一手に引き受けて泊りがけで 10日ぐらい泊まっちゃあいろいろ作業してたんですよ。そしたらアメリカの飛行機が空から銃撃してきて。そして打たれそうになって腰抜かしちゃった。そこ歩いてたら。戦争始まってまもなくの時期です。

―あのあたりにも飛行機が舞い込んで来てたんですね。

樺島:あのあたりに爆弾落としてね、大きな穴が開いてるよとかいう話を聞きました。それから大牟田が空襲でめっちゃくちゃになって おたけさんの家族が4人で逃げてきて いまはない蔵で暮らしてた。私たちの主人が どうせ死ねばもろともだってんで 母と姉とでおじが北京から5人で引き上げてきて、大入り満員。戦時中はほんともう無我夢中。そして母も私がやった事がない畑に行くわけですよ。母にやらせちゃいけないと思ったりして家中お掃除、畑もしてお芋作ったりして。


大牟田空襲の夜

・長女・玲子さんが奈良で生まれ、九州に帰った。精一さんは生月島へ出征していた。

和加さん:防空壕を1メートルぐらい掘って そこに入ったの。大牟田っていう町は全滅。じゃんじゃんそこに焼夷弾を落としてもう全滅。そしてね、うちのうらに穴掘って この人を抱いて中入ってんの。そしたらね、他の人みんな見物してんですよ。あの…空襲を。見物っつったらおかしいけど、あああって感じで。

―見えたんですか?

和加さん:見えたんです。私はこの人死んだら困るっと思ってもうそんな見るどころじゃなかった。向こうからぶわーっときて落としといてさーっと向こう行ったですよ。海の方行ったのかな。



昭和30年代の福岡市内
・旧家を出て、4年間福岡市内へ。

玲子さん:でも福岡の4年間が一番良かったらしいですよ。住んでる人がもうほんとにやさしかったものね。福岡は住みやすいんですよ。埋め立ててなくて、家から散歩していくともう海。小さい頃、水着を着て家を出てそのまま海に行きました。西鉄ライオンズの寮が、家と海の途中にありました。豊田さん、仰木さん、西村さん、高倉さん、中西さん、稲尾さん…もうぞろぞろ出入りして。夕方4時ぐらいになるとバスが選手を迎えに来るんですよ。でバスが後ろ向きに入ってくると、私たちが車に乗り込むのを見に行くんですよ。町も商店街も良かった。博多どんたくとか山笠とか、花電車がとおったり、おみこしが来たらお水をかけたり、断片的におぼえてます。ちょうど良かったんじゃないかな。時代的に。

・市内での勤務を経て、五木寛之『青春の門』の舞台にもなった筑豊の田川へ。

玲子さん:石炭を掘る人と職員が別なんです。岡の上に職員社宅があるんです。従業員は坂の下に長屋。学校まで違うんです。掘る人は危険な仕事だからお金はもらってたみたい。昼間寝る人もいる。おっきなお風呂が会って、24時間稼動してる。ひっきりなしに入りにくるんです。コヤマっていって、三井関係じゃない名もない炭鉱の人がこっそり入りにくるんです。飯塚のほうに行くと住友とかあった。そのコヤマのなかに上清炭鉱ってのがあって、上田清次郎夫婦が一山当てちゃったんですよ。日本の長者番付の10本の指に入っちゃったんですよ。おおきな御殿を立てて。長屋は狭いけれどもお金は職員よりもらっていた。住むところは違っても遊びに行っていた。



慣れない東京
・田川での石炭産業が斜陽になり、縁あって東京へ。
・姉と妹がすでに東京にいた。姉はそれ以前大牟田に勤務、青山学院に勤務していたおじのところに嫁ぎ、上京。15歳下の妹も和加さんの母も、姉の嫁ぎ先に上京。用賀に大きい家があった。
・当時、汚い古い家。4畳半4つ、3畳2つのアパート、そこに青山の学生や写大(工芸大学)の学生が。窓に網戸がついてないってごろごろって来て。つるしあげられておそろしくって。あーそうですかってかんじ。とにかくそのまま入ってもらった。あんときは驚いちゃった。
・誠一さんは三井の重役が作った東京の会社に入ったがうまく行かなかった。二つぐらいうまくいかなくなって独立し、トイレの脱臭剤を大量に仕入れた。全然売れず、和加さんがせっせせっせと捨てた。コンクリートをうつときに、ミキサー車を時間通り現場に着かせる仕事もした。
・九州の人が経営する神田にある会社を任されていたことも。和加さんが事務員で、二人で行っていた。

和加さん:子どもが4人いましたでしょ、そんな家借りて住むなんて考えられない、ていって主人がここ買っちゃったんですよ。そして東京行ったら騙されないようにしなさいって社宅の人が(笑)東京は怖いからねって。そのころローンなんてないでしょ。そして買ったら、裁判があるから出て来いって。境界争い。全然そんなこといわなかった。

―買ったあとにわかったんですか。

和加さん:びっくりして。8万円持って来いって。ああ騙されたと思った。昭和38年ごろの東京・新宿

―40年いれば、東京の思い出が一番大きいんじゃないですか?

和加さん:もう来たときはオリンピックの直前で、あっちもこっちも道路整備。しょっちゅう掘り返したり広げたり。毎週渋谷から姉の用賀まで、昔の玉電で45分。青虫みたいな路面電車。

―新宿が見えますけど、風景も変わりましたね?

和加さん:もうあそこは、浄水場だったものね。新宿によく歩いていったら、浄水場の塀があって、あとは何にもなかった。警察ができて…。中野坂上がなかったから、新宿まで歩いていきました。

―オリンピックは行きました?

和加さん:最後に終わりの火が消えるのを見た。知らないビルの上に上がってみたら、聖火がぱっと消えたとこだった。それだけ(笑)。あーおかしい。



結婚のいきさつ
・当時奈良にいて、おば・かずおさんのところに嫁いだ。京都の学校に行っていた、精一さんがよく会いに来たが、奈良で育った和加さんは、福岡へ嫁ぐのを嫌がった。
・おば・かずおさんは高知生まれ、関西育ちで九州では四面楚歌。小日向台の鳩山音羽御殿の近くに住んでたのが、熊本へ。50で主人(岬さん)に先立たれ、子どもなく、苦労した。隣の分家の人から邪魔がられ、追い出されそうにもなった。

玲子さん:九州に行くのは抵抗したんですよ。断りに行ったの。父が同志社に行ってたとき、休みのたびに京都から奈良へ行ってアピールしてたわけですよ。

和加さん:こんな高いゲタはいちゃってさ。バンカラのね。であたし、九州の人ってなんだと思ってたですよ。そしたらおばも九州でたった一人、相当苦労したみたい。

玲子さん:そういう田舎だから行きたくなかったんでしょうね。

和加さん:その叔母がしっかりもんでね、「こわいおばさん」って言われてた。二番目のあたしに眼をつけて、精一もあたしを気に入って。でも母もあまり九州にやりたくなかったから、もよりの駅で断って、そのまま帰ってきちゃった(笑)。それで北京の親戚に1年逃げてたの。よかった、これさいわいと行ったの。でも叔父は早く帰してくれって行って、帰ってきたの。私はひとり立ちしようと思って、邦文のタイプライターの学校に行ったの。そしたら叔父が「樺島家どうするつもりだ」って。そしたら母が「兄に言われちゃって」てへっちゃんこになっちゃって、もうしょうがないって。

玲子さん:今みたいに関門トンネルがないから船で渡って。(笑)

和加さん:それで、その16年4月から初めて女中のいない生活。何にも役に立たない嫁で腹立っただろうね。拭き掃除でもたてに拭かなきゃいけないっていちいち一つ一つ具体的に。それがおわったらお針仕事。



荒らされた旧家
和加さん:私たちが転勤している間、おばあちゃまが「やるよ」っていって蔵をひとつあげちゃったの。そこへね、戦時中親戚がね、疎開してたんですよ。蔵の中に。それでこの田舎に10年いました。それで福岡市に転勤になったんです。福岡ドームの近くに。

―それでこの家を出られて。

和加さん:そうなんですよ。そしたらお手伝いさんがおばあちゃまと一緒に住んでくれて。

玲子さん:かずおさんが78歳で亡くなった後は、お手伝いさん一家が住んでいた。何年かに一度父が行くが、あとはほったらかし。お手伝いさんが亡くなり、ご主人と子どもになってからが運の尽き。骨董屋さんに家を見せてしまい、何度やお蔵から金目のものを掠め取って、売ってた。一つ二つがエスカレートし、どんどん流出。あるとき父が見たら何度が空っぽ、すぐに出て行ってもらったけどもう後の祭り。父が仕事を辞めて10年ぐらい一緒によく半々の行ったりきたり。車に積んでフェリーで運んで。あるとき、よそのうちに行ったらものがあるんです。そんなことがいろいろあって、父がなくなって、一人の人が18回泥棒に入り、他にも何人か。写真を撮ったものが、次の年にはもうないんです。

和加さん:あんな重いものをさあ…よく盗られたもんだ。考えたら腹が立つから考えない事にしてる(笑)おとうちゃまがなくなってからがひどかったね。



クリスチャンとして
・父・藤井太七さん(9人きょうだいの7男)の実家、滋賀・長浜がクリスチャン。

和加さん:母はかんかんなクリスチャン。祖母がまたクリスチャン。もう教会一辺倒。5年生でなくなるときみんなで賛美歌うたったんですよ。そしたら口をちょっと動かしてました。そしてすーっと亡くなったんですよ。はあ、人が死ぬってこういうことか、と思ったんですね。私なんかただ母にくっついて教会いったっていうだけでね。で母が日曜学校してたんです。子どもと賛美歌うたって、エス様の話をして…だからひらめいてもなんでもない。親戚がみんなわりとクリスチャン。

―戦争中はご苦労はありました?

和加さん:大牟田の教会が空襲で焼けて。牧師さんが家を回ってたんですが、終わりの頃はもう滅茶苦茶。牧師さんもどこいっちゃったんだか。子どもらはみんな行ってました。

玲子さん:でも今は教会すごいですよ。毎週欠かさず。

和加さん:私はもう教会しかない。教会とお習字。絵手紙はもうつまんなくなっちゃって。教会行って一週間の事ざんげして、清められて帰ってきて、一週間また穢れてまた行って(笑)あーおかしい。とにかく行ったらいい友達が一杯いて、ごはんを食べに行っていいたいこと言い合って、みんな何言っても許してくれるんですよ。ほんとにこれだけはなんの障りもない。

玲子さん:今の教会は、父が葬式をしてもらってからだから、10数年。ルーテル教会になじめなくて、神学講座に5、6年通って。そしてローマに行ってルターがひざを突いてのぼった階段に行って。 イスラエル旅行
玲子さん:20年ぐらい前に、ローマ、イスラエル。せまいところを一週間。今みたいに危なくないので、ぐるぐる回って。それからギリシャへ。そのときのガイドさんが良かったんですよ。

和加さん:涙とともに祈ってくださったんです。情熱的な方で。それから帰ってきて、知り合ったお友達の誘いでイスラエルの集いで行ったら、またイスラエル旅行に当たっちゃったんですよ。一度目の次の次の年にもう一回行っちゃったんです。銀座みたいな町も行きました。こんなとこがあるんだってびっくり。

―礼拝堂のイメージが…

玲子さん:あそこは旧市街。テルアビブは最先端ですよ。

和加さん:嘆きの壁に願い事をかいてはさんできたんです。「世界平和」って。なんとなくそんな気がして。(笑)

玲子さん:私たちの頃は結構どこへでもいけたんですよ。

和加さん:イエスキリストの当時のままの石段を歩けたんですよ。今は鎖がかかっていていけない。ここをエス様が上られたんだなあって。海外旅行の楽しみ 玲子さん:こうやってみると結構お母さん幸せな人生だよ。とくに北朝鮮の人の話を聞けばね。

和加さん:父が死んだとき、女学校やめなきゃって思ったけど、そんなも事なかった。品物は死んで持ってけるわけじゃないし、どうでもいい。

玲子さん:あと母は、毎年のようにヨーロッパ行ってます。

―えっ!!

玲子さん:ここ10年以上毎年。パリには必ず。自分たちで計画を立てて行くんです。白鳥城ちかくの安い民宿に泊まったら、親戚の方が「よく来たねえ、勇気あるねえ」って。(笑)

和加さん:この人のおかげで、ほんとに玲子さまさま。だれがこんな私をつれていってくれますか(笑)。

玲子さん:お母さんはどこが好きですかね?

和加さん:小学校の友達が天才ピアニスト、戦争が始まっても帰ってこなかった。今はなくなってしまったその親しい友達(ようちゃん)のいたパリが大好き。

玲子さん:マッターホル唐ナ気分が悪くなってしまった。ラッキーなことに、たった一泊のマッターホルンの朝焼けを見ることができた。

―いいですね!また行かれるんですか?

玲子さん:前みたいに移動ができないから、楽なところで。

和加さん:いつも「これが最後」と思って。行くのが楽しみ。うれしくってわくわく。セーヌの水を触ってきました。何でもやりたい事をやって。

◆8歳で小学校に入るときに父に日本に返され、祖母がいた(公証役場未亡人)奈良にいついた。奈良の女子高等師範に行くためでもあった。

樺島:女高師付属のあいだはほんと平和でした。女学校5年ごろから(s12ころ)戦争の気配がしてきたんです。
女学校時代はのほほんとしたほんといい時代だったんです。そのあとの人がね、英語はないわ動員されて工場に働きに行ったりしたみたい。そういう目にあわないで済んだんです。

―いい時代だったんですね。

樺島:震災で母の兄一家が東京から女中を連れてきたんです。
そしたら大仏さんのごーんという鐘で腰を抜かして、それを私覚えてるんです。大仏さんのすぐ側だったんです。でもいい時代でした。春日さんのお祭りとか、若草山のお祭りとか。

―しばらくすると、東京では515事件とか226事件とか結構物騒な事件が起きてきます。そういうものを奈良にいながらどのようにご覧になっていました?

樺島:あまり知らされてなかったんですよ。226事件なんて新聞にもあまり出ないし。
満州国の皇帝さんがきましたよ。そして私行列してお迎えしました。それからあとが兵隊さんが出征するのを旗振って…

―まだ幸せな時期だったんですね。その5年後に戦争が起きるなんて考えてらっしゃいましたか?

樺島:そんなのぜんぜん!思いもかけない。盧溝橋事件があったというのも、日本が正しいようにずっと聞かされてたし、警察も「アカ」っていううちを探して、何にもわかんないけど「『アカ』ってこわい」って聞いたり。

―次第にそういうようなことが身の回りにおきるようになってきて、不安を感じるようになったんですね。そのころは楽しかったですか?

樺島:いいえ、あまり。もうほんとになごやかなあれからこうだんだん戦争に出て行くっていう感じで、どうなるかなあっていう気持ちはあったと思いますね。

―10代前半は穏やかな時期で、後半は急激に…



家族

◆父・藤井岬さんは、当時中国にあった大学・東亜同文書院(現在、跡地は鉄道大学に)に事務職として勤めていた。おじ(和加さんの姉のご主人)が東亜同文書院の創設者の一人で、おじ夫婦が父に中国行きを勧めた。

樺島:父がおじに傾倒してね、私の名前も付けてくれたんです。死んだあとも、墓側にたのむっていって、桃山の墓地の隣に。

◆母・二宮きのさんは高知の出身。女子高等師範を出て小学校の教諭・助手をやっていたが父と結婚した。

樺島:わかが生まれて父は喜び、ベランダから食用鳩を逃がしてやったんだって。

―食用鳩?

樺島:昔はね、鳩をね、自分のうちでね、毛をむしってね、食べたんですよ。
そしたらね、パーっと飛んで行ってね、どっか高いとこへとまって、サーっと逃げていったの。母がよく言ってた。

―そういう風習が上海にあったわけですね。

樺島:父は姉を連れてレストランへ行ったりもしました。

―上海では裕福な家だったんですね。

樺島:そうですね。お給料がよくて苦労知らずだったみたい。



父の死

◆女学校の五年のとき父がなくなってから売り食いだ。
◆姉に聞いたら保険を解約したりして暮らしたって。
◆姉は同志社の女専を出て三井信託に勤めていた。
◆姉とは4歳半上なの 大正5年1月生まれ
◆母は、父の死後幼稚園に勤務。嫁ぐ前は先生をやっていた
◆現在唯一残る家具も、母が父の墓を作るとき売ろうかとしたが、主人が「そんなの売るんだったら僕が買う」と残した。

―お母様とお姉さまがしっかりしていたから、それ程苦労されなかったんですね。

樺島:でもなんか物売りましたね、いろいろ。土地はなく借家でした。売り食いは戦争前5年間くらいです。



戦争中に見た中国

樺島 :北京のおじのさそいで、結婚する1年前に、北京に行きました。紫禁城とか。そしたらすっごいんです。日本とまるで規模が違う。あまり中国がみたとこすごかった。日光行ったらわるいけどぼっちゃんみたいで…。あれをみたからかな 戦争なんて馬鹿なことをするんだって…私一人で思ってたんですよ。

―そのときの北京の様子はどうでした?

樺島:日本人威張ってました。アマっていって中国のお手伝いさん、ボーイもいて、かわいがってくれました。

―中国での印象的なことは?

樺島:アマなどは快く思ってないかな、と思いましたね。日本人に対して気持ちよく思ってないって。

―日本人は結構いたんですね。

樺島:満鉄の人や清水組・大林組など建設の人が多く、暮らしぶりが豊かでした。

―北京には1年ぐらいいて、それでつれもどされてお嫁に行かれた。

樺島:15年に訪中、16年4月に嫁ぎました。帰ってきたら普通の人は中国に行けなくなっていたんです。



嫁ぎ先・福岡で戦争が始まって

◆ご主人・精一さんは同志社を出て大牟田の三井鉱山の事務をしていた。娘が生まれたときには長崎の生月島に出征していた。
◆精一さんは、岬さん・佳寿雄さん(きのさんの姉)に子供がなく、久留米の高橋家から養子に来た。岬さんの妹が高橋に嫁ぎ、生まれた子供が精一さん。
樺島:戦争が始まった昭和16年、九州に片付いたんですよ。この年の12月8日に戦争が始まったんですよね。防空壕を妹と一生懸命彫ったんですよ。終戦の日も。戦争の起こった日は、アメリカと戦争をするなんて「なんてばかなことするんだろう」ってほんと思いました。

―全然かなう相手じゃないと。

樺島:そう。もう全部だめだなって思いました。そのときはそうでもなかったですが、だんだん、死ぬより他しょうがないなって。それで、近所のおじいさんが村の畑を全部畑にしていたんですね。したらそのおじいさんが一手に引き受けて泊りがけで 10日ぐらい泊まっちゃあいろいろ作業してたんですよ。そしたらアメリカの飛行機が空から銃撃してきて。そして打たれそうになって腰抜かしちゃった。そこ歩いてたら。戦争始まってまもなくの時期です。

―あのあたりにも飛行機が舞い込んで来てたんですね。

樺島:あのあたりに爆弾落としてね、大きな穴が開いてるよとかいう話を聞きました。それから大牟田が空襲でめっちゃくちゃになって おたけさんの家族が4人で逃げてきて いまはない蔵で暮らしてた。私たちの主人が どうせ死ねばもろともだってんで 母と姉とでおじが北京から5人で引き上げてきて、大入り満員。戦時中はほんともう無我夢中。そして母も私がやった事がない畑に行くわけですよ。母にやらせちゃいけないと思ったりして家中お掃除、畑もしてお芋作ったりして。樺島3.jpg


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齋藤律子さん(73)
大正15年生まれ
米沢の電機会社の七人姉妹の次女として裕福な暮らしを送る。戦後は夫との苦労の日々

○お家はどんなことやられてたんですか?

●電機工事と販売と、大きなモーターや変圧器の修理やなんか。キョウデンで。米沢なんか機織り
が名物ですからさぞかしそういう仕事があるだろうって米沢に構えてはみたんですが、なかなか
そういう仕事って入らないんですよ。かえって東京から仕事が来て、やってたようです。

○キョウデンっていうのは何でしょう?

●ラジオとかの弱電に対して、強い電器のこと。工事関係のものです。

◎発電所から来る電力を使ったりする……。

○「強電」ですか。

●おかげさまでね、その頃電機屋さんなんかあまり無かったものですから。

◎二軒しかなかったんです。

●それで割合、おかげさまで、手広くなって、いまで言う????(確認中)なんか付けたものですから、
市内からみんなわざわざ乗りに来たそうですよ。その頃はすごく良かったんですけど、私たちの小さい
時はね。女中さんも3人居てね。

○じゃずいぶん大きなお屋敷だったんですね。

●それが段々、段々ね、終戦後没落してって(笑)。

◎見事にねえ。

●だから育ち盛りはね、おかげさまでねえ。お琴だのを習わせていただきました。

○お琴をねえ。いまそこにもありますけども、その頃からやられていた訳で。

◎いちおう七人姉妹ぜんぶお琴持っています。昔はピアノよりお琴でしたからねえ。

○なるほど。それはあれですか、お父さんやお母さんが習いなさいみたいな感じでですか?

●そうなんですよねえ。

◎下の方はもういい加減です。こうなっちゃってから。

●戦争中なんてよく、出征兵士慰安のために、市の公会堂あたりでお琴弾いて、踊り習ってる人なら
踊りをご披露したりねえ。

○じゃ、その頃まさに、公会堂とかでみなさん七人姉妹で出たりなさったんですか。

◎私たちは……上の連中だけですけども、出たのは。私たちは、まだ女学校でABCやっと揃った
ぐらいですよ。あとは工場行ってヤスリ掛けて。

○あっそれは、学徒動員でですか。

◎だから(生まれる年が)ちょっと違うだけで。育ちはグッと違いますよね。

○そんな感じですよねえ。じゃ結構、律子さんの時はいい時代だったんですね。

●母が亡くなってからねえ、やっぱりどんどんどんどん、こう……殴り合いになったって言うか。

◎終戦後。現金草とか、親父さんの一所懸命買ってたお金を全部押さえられて。それで、逮捕になった時はお金の
価値がこんな下がってるから。そこでもう、ずいぶん貧乏になりました。その前はいい思いしたけど私たちの時は貧乏した(笑)。

○その、いい思いした時のエピソードは何かありますか?こんな贅沢な暮らしをしていたとか、そういうのは。

●贅沢ねえ……そう言えば、お祭りの時なんかは、皆さん一張羅着てたってお祭りに行くんですよ。その時にね、お祭り行くのに
父がわざわざタクシー呼んで、人混みのなかをわざとブーブーブーって(笑)、鳴らして通ってった覚えがあります。タクシー
そのものが贅沢で普通乗れなかったんです。だから、みんなよけてくれるの。ふんぞり返って、親父さん乗せてくれた覚えあります。
いまにしてみりゃ当たり前のことがすごい贅沢だったんですね。いまそんなブーなんて鳴らしたら怒られますよねえ(笑)。

○そうですよねえ(笑)。

●あとね、お盆にお寺さんにお参りする時に、やっぱり七人姉妹でしょ。七人みんなで着物着て行く訳ですよね。そしたら、
近所でね、藤電さんのお嬢さんが通る時は楽しみだと言ってたそうです。

◎七人姉妹がそろそろ出てくるころだー、とか言ってたそうです。後で聞いた話ですけどもね。

○見物人が居た訳ですか(笑)。じゃその街のアイドルだったんですね。

●◎(笑)。

***

★大正15年生まれ。その年、実家が米沢に家を建てていたので、「建子」と名付けたかったが、
それではおかしいというので、ぎょうにんべんを付けて「律子」に。七人姉妹の次女。

★実家は電気の工事、販売、モーターや変圧器の修理をしていた。

★父君は米沢では織物が名物なので、電機の需要を見込んでいたが、むしろ仕事の依頼は東京の
ほうから来た。

★電機屋は当時米沢に二軒だけ。実家の経済は潤い、琴などの習い事もさせてもらえた。父君の
扱っていたのは強電のものだった。

★タクシーというのが当時は誰も乗ったことの無いような贅沢だった。お祭りに行くのに父君は
タクシーを呼んでくれた。みんな道をよけてくれた。

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大正12年(1923年)生まれ。百姓家の大家、7人きょうだいの一人として生まれてすぐ、一家で北海道に開拓に向かう。山梨に戻り青年学校を卒業後、甲府市役所に勤務するが、結核のため退職、三年間の闘病生活を送る。昭和22年、海軍に招集されていた、いとこに当たる親家の儀筆さんと結婚(儀筆さんは平成8年に亡くなる)、三人の娘をもうける。子育ての傍ら百姓仕事に従事、現在は一人暮らし。

聞き取り日時 :2002年11月17日
場所:山梨県韮崎市
聞き手:新藤浩伸(しんどう・ひろのぶ)
写真:平成14年秋 稲刈りの一休みに




―じいちゃんと結婚したのは何年だえ?

新藤:昭和23年だよ。…22年か。

―若いな!

新藤:おばあちゃんのが上だもん。
おじいちゃんもすきなひとがあったじゃねえかな。

―じいちゃんは結婚が嫌で逃げ回ったっちゃどういうこんだえ?

新藤:まだ22だったから恥ずかしかっただね。ほーて、いとこだからねえさんねえさんっちゅってたやつが。ほいでおばあちゃんは他に話があってね。嫁に行くっていえば、こんだ親がそれじゃ困るっつって、よそへやるけんどいいかっつってこけえ乗り込むだよ。側へ置きたくてね。

―ばあちゃんは嫌じゃなかった?

新藤:親の言うなりだから何も言えんさ。んな反抗したらえらいこんだ。だけん苦労したよ。

―どういで?

新藤:なんちゅうかあの 身体もこんなに健康じゃなかったのにほりゃああのうちのしがやせったいしだから。田んぼから帰ってきたらね、途中手甲脱ぎながらご飯の支度にかかれっちゅうだよ。

―ほう。ほいじゃ昔は働きが悪かっただか。

新藤:身体が弱くてできなんだだね。ほいでおじいさんが連れてって畑の掘割を教えてくれるだけど、そんのえらいなんのって!ほいでおじいちゃんは、軍隊であのほら、苦労仕事ができなんだだ。腕のとこに弾が入って…。ほんだから戦争いった人のことを、目の前で死んだ人のことを考えてね、苦しいって最後まで言わなんだね。苦しいっちゅうことを一言も言わんだ。



兄・孝儀さん

新藤:あんなとこまで攻めてってどうしょうと思ったのかな?何の見通しもなく、広いとこ駆けずり回されて大変だったね。あすこいって占領してどうするだえ?えらいことを…その当時の内閣を恨みたくならあね。あんな広いとこ占領したってどーーうにもならんだ。住民もいるだし。わからなんだずらかね?

―その当時どう思ってた?

新藤:ほんなこたあ・・うん・・

―わからなんだ?

新藤:うん。終戦になってそして初めて驚いただから。よもや負けるとは思わんじゃん

―勝つと思ってた?

新藤:そのときにみんな気持ちが一つになったっちゃえらいもんだね。

―ほいじゃ、戦地に行くなんてえば悲しむことじゃなくて?

新藤:うんうん当然だよ。んだけど悪いこともなかったね。あの・・残った人たちがいろいろ刑事事件を起こすとかね。みんな一心不乱だったから、国のためにね。



両親

・当時は許されなかった恋愛結婚をし、祖父に憎まれ、兄孝儀さんを残して一家は何年かの間北海道へ渡る。生活は厳しく、そこで生まれ、すぐに亡くなった姉妹もいる。

・山梨に帰ってきてからも辛い思いをし、祖父にいじめられたという。





兄と

・祖父母にかわいがられ、開拓に行くときも山梨に一人残った。
・結婚式の夜に三回目の召集令状を受け取り、そのまま帰ってこなかった。
・東京の大学の夜間部を卒業後、山梨県庁や東京の電気商会などに勤務。
・中国の魯山戦には通信兵として参加。昭和19年、最後の出征地レイテで戦死。

近所

村芝居 一座

・戦後、都会からの買い出しの人々がたくさん来た。
バス停が近くにあり、警察に見つかった買い出しの人が米袋を庭に投げ入れ、そのまま帰ってこないこともあった。

・秋祭りはとても盛大に行われたという。

・娯楽がなかった戦前、村芝居をみんなでやった。


青年学校、市役所、闘病、そして結婚

夫・儀筆さん (近所のガソリンスタンドや機械工場に勤務)

・高等科を卒業後、甲府市役所に勤務。
しかし19歳で結核を患い、入院。助からないという評判すら出たが、3年間の療養で回復。

・ 戦後、儀筆さんとの結婚後は野良仕事に従事するが、はじめは弱い体の上になれない仕事で、とても苦労した。儀筆さんも、戦地で砲弾を身体に受け、満足に働けなかった。

仕込まれたこと

野良仕事 (左がフジ子さん)

・母が昼間に裁縫していれば、祖父に「ひるひなかからお裁縫なんかして!」と裏の田んぼに投げ込まれたという。
夜子どもを寝かしつけてからやれ、ということだ。

・食事の支度は手甲を脱ぎながらやれ、と、働くことを仕込まれた。

・自由恋愛は許されぬ、親が決めた縁談に逆らってはいけなかった。



・頭いてえなんちゃあ何かしてりゃあ忘れちもうじゃんけ。
仕事につけばね、すっきりだよ。ほんとに元気すぎて困るな。オバンまだ生きてるだか、なんちゅうようになっても困らあ。

・ひとに感謝しねえ。「悪いね」っていう言葉を言わなきゃだめさ。こういう人間だから気が済まんどう。
こっちもご無沙汰してえちゃやだからね。いつ死ぬかわからんに。


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■27(日)

東京 22:00 サンライズ瀬戸

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茶豆をつまみながら。

■28(月)

高松

室戸岬 バスで周遊。途中によさげな集落が点在。

高知

宿毛 フェリーで。

佐伯 佐伯駅近くの居酒屋で一献。

■29(火)

佐伯 たしか鈍行で移動。宗太郎越え。途中から特急?

油津

川俣氏面会
渡辺氏聴き取り

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伊勢海老、うまい!

■30(水)

油津

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志布志
↓ たしか、このコース。
都城

吉松

人吉

大牟田

西鉄渡瀬


■31(木)

*埋蔵金発掘1日目

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■1(金)

*埋蔵金発掘2日目

熊本

■2(土)

熊本

大分

*川野氏面会、宿泊

■3(日)

*白山村
*久住

別府 富士

■4(月)

東京

●父と鉄道

薩摩大口駅──それは国鉄マンであった父の最後の職場であり、さかのぼれば、母方の曾祖父の土地に開業した駅でもある。大きくなったら国鉄マンになって、父のあとを継ぐ場所だと心に決めていた「駅」である。

私が物心ついたとき、父は油津駅で、改札と構内アナウンスを担当していた。

──油津 油津 ご乗車おつかれさまでした。車内にお忘れ物のございませぬ よう、お手回り品にご注意下さい。まもなく宮崎行きが発車いたします。次の停車駅は日南、日南でございます

というフレーズを幼い私は、

──あぶちゅー あぶちゅー おつかれました。つぎのていちゃえちは ちなん ちなんでじゃます

と真似していたそうだ。遊び場は当然、父の働く駅である。終日、貨物列車の入換を見たり、出札口にちょこんと座らせてもらい、汽車の絵を描いたりしていた。

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●赤字ローカル線が俎上に

昭和50年代後半、莫大な累積債務に喘いでいた国鉄は、それを脱却するには徹底的な合理化そして分割民営化を余儀なくされていた。その具体策として、赤字ローカル線が俎上に上がり、私の住む大口を走る山野線、宮之城線が選定・承認された。

そのころ高校生であった私は大きなショックを受けた。父を始め、家族全員がたいへん世話になり、思い出のいっぱい詰まったこの薩摩大口駅──感謝の意を込めて、「今できることを精一杯しておこう」と決意したのは、この時である。以来、私は写真撮影や資料の収集に奔走した。それはまさに時間との闘いであった。

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●薩摩大口駅の来歴


薩摩大口駅は伊佐盆地で収穫される米や木材の輸送路線として、大正10年9月11日に開業し、それまで栗野まで馬車に頼っていたこれらの移出や、肥料・食塩その他の物産移入に寄与した。
その後、昭和12年12月12日、山野線の久木野・薩摩布計間、川内方面から東に建設を進めてきた宮之城線の薩摩永野・薩摩大口間も全通し、薩摩大口駅は北、西、南に鉄路を延ばす交通 の要衝としての地位を築いた。

戦時中、軍人の出征や遺骨の出迎え、そして種子島からの学童疎開の受け入れ、米国戦闘機による駅への機銃掃射に見られるような暗い時代を経て、戦後を迎えた。そして高度成長期に入ると、旅客列車のディーゼル化、宮崎・出水間を走破する準急『からくに』号が運転されるなど、鉄道の全盛期を迎えるに至る。
しかし、昭和40年代後半入ると、マイカーに押されて利用者が減少し、ダイヤが間引きされ、貨物輸送は57年11月15日、荷物は59年2月1日にそれぞれ廃止され、旅客営業だけとなった。

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●鉄道の恩恵


鉄道によってもたらされた恩恵は絶大であった。これまで陸の孤島として、新鮮な海産物とは縁遠かった大口であるが、水俣方面で取れる海産物を両手と背中一杯に背負ってやって来る行商のおばさんたちのおかげで、人々は新鮮な海の幸を口にすることができるようになった。

また、駅周辺には、国鉄の物資部、運送店、米検査所、製材工場、商店、金融機関などが次々と建設され、産業、地域経済の発展に大きく貢献した。また、馬車や船で一昼夜近くかかっていた鹿児島までの道のりも3時間あまりに大幅に短縮され、人と物資の流動性が一気に促進された。
このように、鉄道そして駅は地域経済、そして街づくりの中心として重要な役割を演じてきたのである。


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●地域社会の中心として

薩摩大口駅の朝は、山野、菱刈、薩摩永野方面からの通学生で賑わう。往年は4~5両編成でも満員で、一番後の学生が降りるころには、もう先頭の学生は大口高校に達していた、というくらい長い学生の列が駅と学校を繋いでいたという。
昼は、近隣から大口へ病院通いのお年寄りや買い物客がやって来て、駅前通りは活気にあふれ、夜は、帰途のひとときをくつろぐ勤め人が近隣の酒場を賑わせた。

二本のレールは全国に延び、各地の親戚、知人との一体感・安心感を生み出した。そして、その玄関である駅は、単なる汽車の乗降場としてだけではなく、コミュニティーの中心として機能し、様々な人生模様の舞台となったのだ。

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●駅は眠らない

山野線、宮之城線の分岐駅であった薩摩大口駅には、昭和50年代後半まで駅長以下首席助役、助役、運転主任、改札、出札、小荷物担当の他信号場、機関支区、保線区などに約100人もの職員が在籍していた。

早朝5時ごろからの始発列車の仕業検査、入換からはじまり、朝礼、点呼、乗客への案内、通票閉塞器を使用しての運転業務など、職員はそれぞれの業務をキビキビとこなし、午後9時過ぎの終列車の発車後も翌日の準備などに余念がなかった。
泊まり勤務の職員もおり、ディーゼルカーのアイドリング音は、休むことなく、夜通 し駅構内に響き渡っていた。

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●「鹿児島の北海道」

大口の別名は「鹿児島の北海道」──。四方を山に囲まれた盆地の中心に位 置し、冬は放射冷却現象で氷点下7~8度まで気温が下がる。また南九州には珍しく、年に数回積雪もあり、大口駅で十センチぐらいの積雪でも山間部では数十センチにもなり、大口市から川内、人吉方面 、水俣・栗野方面への国道が軒並みチェーン規制や通行止めになるなか、山野線、宮之城線は運休することなく定時運行した。

──汽車が走っで陸の孤島にならんじすんなあ。まこて心強かど

こうした近所の人の声を、私は朧気に記憶している。

しかし、その陰には、カンテラを焚いてポイントの凍結防止に努め、始発列車にさきがけて線路の点検や吹き溜まりの除雪作業に出動する保線区員、見通 しが悪く運転感覚も違うなか慎重に運転する運転士、安全運行を駅で支え見守る助役──そんな人たちのたゆまぬ 努力があったのだ。


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●廃止に至る日々


廃止の日程が決定すると、今まで無関心であった沿線住民が堰を切ったように乗車し始めた。JRが走らせた「さようなら臨時列車」は日を追うごとに別れを惜しむ人々であふれかえり、沿線には日頃皆無に等しかったカメラやビデオを持った人々が繰り出した。ガラ空きだった定期列車でさえも、都会のラッシュ並みの混雑で積み残しが出るほどであった。

鉄道マン達は、最後の日まで安全に列車を運行することを懸命に取り組んでいたが、次第に別れの時が近づいて来ると、

──胸にこみ上げてくるものがあり、本当は放送したくはないんです・・・

と車内放送で、心情をもらす車掌もいた。
私は引退した父に、何度か「駅に一緒に行ってみよう」と声をかけたのだが、決して腰を上げることはなかった。


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●薩摩大口駅、最後の日

山野線、そして薩摩大口駅最後の日となった昭和63年1月31日、早朝よりたいへんな人出であった。定期列車は予備車や日頃他線区で運用されている車両を増結。鹿児島・宮崎各方面 からの「さようなら列車」、その合間を縫って団体列車が線路容量いっぱいに運転された。
JR、県、大口市それぞれの廃止記念式典、山野線を陰から支えて下さった方々への表彰、JRからバス会社への「ハンドル引き渡し式」、乗務員や駅長への花束贈呈や発車式などのイベントが催された。

午後10時過ぎの最終列車の見送りでは、「蛍の光」を背景に、感謝や別れの声が飛び交った。泣きむせぶような長い汽笛を鳴らしながら、ゆっくりゆっくり走り去っていく列車を、私たちは断腸の思いで見送った。
そして自分にとっていかに大切なものであったかを痛感し、先人達が想像もできないような努力をして開業させ、私たちにたくさんの恩恵を与えてくれたこの駅を、みすみす廃止させてしまった世代の人間の一人として、やりきれない思いに苛まれた。

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●廃止から13年

2月1日──それは山野線・薩摩大口駅の廃止された日である。早いもので今年で13年になる。
駅なきあと、大口市は人々の交流・文化の中心地になるようにと願いを込めて、ちょうどホームのあった場所に、平成4年『大口ふれあいセンター』を開館。アトリウム、図書館、多目的ホール、そして鉄道があったころの様子を語り継いで行くための資料館がある。
線路敷は道路になり、都市計画事業もあいまって、駅周辺に鉄道があったころの面影を伝えるものは何もない。久方ぶりに大口市に帰省した方からは、あまりの変わり様に『まるで浦島太郎になったようだ』との声が聞かれるほどだ。

私は鉄道マンにはなれなかったが、父が働いていたこの場所に建設された「ふれあいセンター」に勤務し、鉄道の案内をしていることに奇妙な縁を感じる。今は、薩摩大口駅の思い出を風化させず、未来に伝えていくことが私の使命であり、はなむけでもあると考えている。

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●“箱庭”の風情

「春の霞がかかる山々に囲まれた小さな駅に下り立つと、山の奥からは採掘の音が聞こえてきました。ちょうど駅前の桜が満開で、まさに“箱庭”とでもいうような風情でした」

渡辺誠さんは当時をこう振り返る。今から約25年前、初めて東赤谷を訪れたときのことだ。東赤谷の雰囲気にすっかり魅了された渡辺さんは、以来、この地を何度も訪れた。

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●ヤマの賑わい

1970年代の東赤谷駅は、まだ鉄鉱石輸送でたいへんな賑わいをみせていた。この駅から、専用線でさらに分け入ったところに採鉱所があるのだ。駅には間断なく、山奥からの貨物列車が到着し、貨物列車に積み荷を移していた。
駅付近には、鉱山に務める人たちの家々が軒を連ね、山間のわずかな平地に民家がひしめいていた。その数は最盛期に100戸を越えていたという。


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●夕刻、小さな駅は活気づく

夕方になれば、新発田方面 から息を切らせて登ってきたディーゼルカーがスイッチバックを経由して短いホームにちょこんと停車する。そこから、黒い制服姿の中学生、高校生が降りてきて、小さな駅はにわかに活気づく。

佐藤諭駅長は、その誰とでも顔見知りだ。


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●駅の思い出

「私が駅長の頃には、乗客は学生さんだけでした。週末になれば、焼峰山などに登る人も来ましたけど・・・。とにかくみんな顔見知りでした。駅の周りには、小学校や銭湯、商店などもあったんですよ。でも、今はもうないでしょうね」

当時を懐かしむ佐藤さんは、現在、山内に住んでいる。かつて「新山内」駅があったあたりである。

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●駅長はいま

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まもなくススキを透して右手に一段高く東赤谷駅のホームと直立する駅長の姿が見えてくる。
(宮脇俊三著『終着駅へ行ってきます』「東赤谷」より)
         ***
この「直立する駅長」が、佐藤諭さんである。 佐藤さんは、赤谷線が廃止になる年、国鉄を定年退職した。その後、悠々自適の生活を送っていたが、最近、心臓を患い、療養生活を送っている。 「もう72──、歳ですよ」──と自嘲するが、佐藤さんの笑顔は今も若々しい。


●汽車か、道路か

──汽車がなくなるということになったとき、村中みんな反対しましたねえ。でも、道路を代わりにつくるというので、納得したんですよ

──汽車と自動車、どちらが便利だと思いますか?

──やっぱり、そうねえ、道路の方がよかったのかねえ・・・

「東赤谷」の対岸には、滝谷と呼ばれる集落がある。ここに暮らす星和子さんは、赤谷線廃止当時の記憶を辿る。

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●鉄鉱石を運ぶ汽車

赤谷線は大正9年、商工省製鉄所専用線として開業した。当初は、途中駅である簀立沢までであったが、大正14年に赤谷、昭和16年に東赤谷まで開通した。

急勾配に位置する東赤谷は、スイッチバック式の駅であった。これは国鉄の終着駅としては唯一の存在として、よく知られていた。

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●あの駅はいま

しかし、鉄鉱石の産出が減少したことと、モータリゼーションが進む中で、東赤谷に住む人々は土地を後にした。そして、昭和58年、赤谷線は地元の合意を得た上で廃止されることになった。

東赤谷駅の駅舎は、赤谷線が廃止されても、しばらく残されていたが、3年の後、ついに取り壊された。現在、跡地は整地が進み、その面 影を残すのは、駅の入り口脇に立っていた大きな桜の木だけである。


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