22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。

男は共感されるとみじめな気持ちになる。共感というより「同情」といったほうが的確かもしれない。ともかく男というものは、へんに寄り添われると心萎えるものなのだ。
「そんなの悩みのうちに入らないわよ」と背中をバンと張られたほうが気持ちが晴れる。男が欲しているのは「共感」ではなく「激励」なのだ。
だが、そんな男心をわきまえた女性はきわめて少ない。
むろん、これは逆もまた真なりだ。「そんなの悩みのうちに入らないよ」などと“激励”してしまうと、「冷たい人」認定されてしまう(私はこれまでこれで何度もしくじってきた)。
巷間よく言うように、女性は悩みを解決することよりも、悩んでいる自分に共感してもらいたいようである。
そんな反応のズレが男女のすれ違いを生む。これが夫婦ならせいぜいケンカ程度ですむが、母親と息子という関係となると事態は面倒なことになる。
息子が思春期を迎える頃、世の母親は「男の子は難しい」とぼやく。
だが、これは「難しい」息子に問題があるわけではない。母親が男というものに対する学びが浅く、理解が低すぎることに問題がある。おそらく彼女は、夫のことも「難しい」としているのであろう。
男性が女性という別種の生き物をよく学び理解すべきであるのと同様に、女性も男性という別種の生き物をよく学び理解すべきだ。
母親は女性たるおのれの感性を頼りに、息子に向き合ってはならないのである。(つづく)


『英雄問答~「司馬遼太郎」で男の修行』(盛池雄峰著/22世紀堂書店刊)

■概要
司馬遼太郎全作品から、英雄の心構えや技法を中心に約3300項目の「ダンディズム」を抽出。それらを対話形式でまとめた、時代に“逆行”する自己啓発書。英雄問答表紙

■もくじ
まえがき 修行するオヤジが「英雄」になる
第一章 [威厳]しゃべるな、黙れ
「からっぽ」はよくしゃべる  弁が立つからなめられる  無言だから統率できる  肚にしまい込める量が「度量」  暇人が議論する  断定するから自滅する  相手にならず黙殺せよ  仮病をつかって引きこもれ
第二章 [品性]論評するからなめられる
うまいまずいを言うな  論評するから行動できない  小さくみせれば、大きくみられる  紳士は詮索しない  ひらめきは「変節」 「正確」だから正しくない  誇るから軽蔑される  弱虫が差別する
第三章 [度量]バカはすぐ怒る
おだやかな心に気魄は宿る  怒るなら元をとれ  他者に完全を求めることが愚の骨頂  やさしさは強さ  開き直らず徳を積め  無愛想だから愛される  気楽にさせれば人は集まる  オヤジギャグをかませ
第四章 [知性]自分の頭で考えるな
言葉づかいでお里が知れる  不快感を与えたら負け  初夜は型通りに  型にはまれ  習慣で美しくなる  感動できるのは才能  愚者は情報好き  臆病だから勇敢になれる  自分を野放しにするな  「女」を断って気を養え  贅沢は犯罪行為  「頭脳さん」に配慮せよ
第五章 [徳望]素の自分をさらすな
善人を偽装せよ  涙を流して周囲を欺け  「弱者」を演じよ  役割に憑依せよ  阿呆だと思わせよ  傾聴して身を守れ  はしゃぐから幻滅される  しみじみするな  酔っているふりをせよ
第六章 [気魄]捨て身でいけ
出たとこ勝負をするな  「準備」が英雄の仕事  待ち方に力量が表れる  陽気に悪事をはたらけ  誠実に嘘をつけ  一目散に逃げよ  権力者に媚びへつらえ  しつこさは天賦の才
第七章 [覚悟]悪妻にかしずけ
「おんな」は怖い  論より感動  なりふりかまわず容色を褒めよ  むらむらしたら酒を飲め  嫁は選んでもらえ  「無関心」は愛  悪妻は「あげまん」  敵は敷居の「内」にあり
第八章 [分別]あきらめれば曙光が差す
修羅場で「男」が発動する  好色な男は「行者」 「女天下」時代の人生戦略 「自己中」に勝機あり  思い上がってなんぼ  物欲、愛情欲から燃焼欲へ  損得勘定するから損をする  分際をわきまえよ 
あとがき 「司馬遼太郎」という英雄

■ご購入

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仮想通貨などで大いに利益をあげたブロガーのイケハヤ氏は「MacBookおじさん」と称して、若きクリエイターにコンピュータをプレゼントした。
フェラーリ購入や子供の留学資金などでなく、近隣のカネのない若者を支援したところに、私はいにしえの篤志家の姿を見た。
庄屋とか名主とよばれた地域の名士は、地域の有能な子供たちを学校に行かせることがあった。我が祖父もそうであったと聞いて、誇らしく思ったものだ。
こうした行動はたんなる道楽ではない。彼らは50年、100年、あるいはそれ以上のスパンでの損得勘定の上での投資だったからだ。
教育を介しての人間関係が、自分に直接ではないにしても、おのれの子孫や近隣の人たちの幸福に資する。この真実を彼らは知っていたのである。
目先の利益一辺倒、自分一代の「夢」実現にしか目が行かない現代である。こんな長期にわたる時間軸を持った行動が、若者(イケハヤ氏はたしか30歳過ぎ)の間で見られるようになったことはうれしいかぎりである。
もっともこうした篤志家的行動の動機が、長期であれ損得勘定だけではないことは言うまでもない。
人の成長の手助けすることは何よりもの喜びだ。人の喜びをもってして、自分の喜びにできる人こそ、最高の幸せ者であり、成功者であるといえる。
最近の若者はたいしたものだ。50歳手前のじじいであるが、こうべを垂れて教えを乞うことにしよう。

仮想通貨バブルで小銭を稼いだ(とはいっても、現時点では含み益でしかないが)。
8月1日にビットコインが分裂すると報じられると、仮想通貨は暴落するであろうと、先行きに対して暗い見通しが一気に広まった。
こういうとき、私は危ない橋を渡りたくなる。
そこで7月下旬、いくらかコインを買い足してみた。すると、分裂騒動については特段何事もなく終息し、その後、ビットコインは暴騰を続けている。
こうなると、健全な人びとは明るい見通しを語り始めるのだが、こうなると、へそ曲がりの私は手仕舞いを考えるようになる(今回は、ブロックチェーンの世界をもっと知りたいからしばらく放置する)。
だが、今回の私の儲けなど微々たるもので、一部には「億り人」なる富豪も誕生している。
彼らの行動を観察していると、その利益でフェラーリを買ったとか、別荘を買ったとか、そういう痛い人がほとんど見られないのが印象的だ。
彼らの多くははカネをモノに変えるのではなく、さまざまな人や仕組みに再投資している。
仮想で得た利益を「未来の仮想」に投資する。この循環に、私は今後の教育の姿を見るような思いがした。(つづく)

価格交渉から妥結にいたる。それから請求書を起こし、入金が行われたかを確認する。仕事の本質とは、この一連の過程に他ならない。
だが、これは子を産むという神聖な営みが、煎じ詰めればセックスであることと同様に、あまりにも生々しい。だから、あまり表立って語られることはない。
学生たちは、会社に入れば、パワポ資料をプロジェクターに映し出しながらプレゼンするものだと思っているが、そんな機会はまずない。
仕事の大半は書類作りとお金のやりとりなのだが、職業体験ものは、いずれも映像映えする部分だけ切り出す(法廷での弁護士と検事の丁々発止などはその典型例だ)。これでは「体験」とは名ばかりで、実態は「ごっこ」であると言わざるをえない。
そんな「体験」をたよりに仕事を選べば失望が待っている。新社会人のくじけやすさは、学校時代の陳腐な「体験(その時期に視聴したテレビ番組なども含め)」に起因するのではないか。
学校がやるべきことは、むしろ、こうしたギャップを埋めることにあるのだろうが、それができる教師がどれだけいるだろうか。
もっとも、そこまで教師に求めるのも酷だ。本来は、家庭教育でカバーすべき領域だろう。
だが、家庭で社会を体験するほうがよりハードルは高い。家庭はもはや社会から切り離された存在だからだ。
だがそれは近年の傾向だ。往時はちがった。
私淑する大先輩は、小学生時代、しばしば学校を休んでは、父親の行商に同行して手伝っていたという。こんな営みこそ「職業体験」ではないか。
その方は仕事を手伝いながら、高校卒業後、一流大学に入学され、家業を継いで精を出し、市長も歴任された。
「仕事をしていると勉強したくなるんだよ。それに勉強も身につく」この言葉は多くの示唆に富んでいる。子供が勉強するようになるためには、遠回りかもしれないが、仕事をさせるのがよいのである。
私自身実感する。あんなにデタラメだった学生時代とうってかわって、仕事を始めてからの勉強は真剣そのものだ。
学校の空転は、子供を「労働」から切り離したところ誘因であるように思えてならない。
職業体験などでお茶を濁さず、「リアル労働(当然、カネのやり取りも含め)」に従事させる。これが、子供・学校・家庭のよき関係を復活させるのではなかろうか。

無着成恭の『やまびこ学校』は胸を打つ。学校に行きたい、存分に勉強したい、父ちゃん母ちゃんに楽をさせたい。そんな子供の赤心が胸にしみる。
あの時代、農村の小学生の日常は勉学ではなく、労働が主体であった。
農作業や家事、そして子守に明け暮れる。学校はそんな日常から離脱できる、つかの間のパラダイスだったのである。
私の恩師は鳥取県の片田舎出身だ。彼は親から「東大に行くのなら、進学させてやる」と言われて無我夢中で勉強した。そしてみごと鳥取市の名門校に進学、その後、東大に合格した。
ちなみに恩師は長男で「家」を離脱したことに今でも背徳感に苛まれているという。
だが、野良仕事に生涯を捧げることにくらべれば、それくらいの苦しみは甘受しなければならないのかもしれない。
かように、子供にとって(恒常的な)農作業というものは苦痛でしかなく、勉強こそが悦楽だったのである。
昨今、農作業が子供の教育上よいとされ、多くの学校では農業体験をカリキュラムに組み込んでいる。だが、その学習効果とは、どのようなものなのだろうか。
以前、私の経営する会社で、インターンシップを受け入れていたことがある。
我々は「お客様」、いやインターンシップ生を飽きさせないようなメニューを念入りにこしらえて迎え入れた。
まるで税務調査を受けるかのように、微に入り細に入り精魂傾けた。そのせいで、インターンシップ期間が終えたときには、担当者も疲れきっていた(なので、3年で打ち切った。その後も再三、受け入れ要請があったことを思うと、いずこの会社もインターンシップ疲れがあったものと思われる)。
その甲斐あってか、我が社のインターンシップは好評で、翌年以降、高倍率企業の一つとなった。
だが、あれが本来の「社会」体験かといえば疑問だ。実態は、学生版キッザニアではなかったか。そんな虚構は教育の名のもとにごまんとある。(つづく)

驕る平家は久しからず。増長した女たち(むろん全ての女性ではない。文字通り「増長した女たち」である)は、同じく増長した男たちがかつて歩んだ轍を着実に踏みつつある。
所与の幸福をみずからぶち壊しただけでなく、愛する息子を惰弱にし、仲良し娘を猛々しくすることで、不幸家庭を再生産していく。生みだした禍根は早晩我が身に降りかかるのである。
かねてより中流家庭の崩壊が叫ばれているが、その主たる層はこの母権膨張家庭に他ならない。それは私にとっても他人ごとではない。油断は禁物だ。
私はこうした主題を、おのれを戒め律するために追求してきた。あわせて、同士たりうる友を探そうと訴えかけてきた。
だが、最近その意欲がいくらか減退してきた。というのは、「夫」もしくは「父」に埋没する男たちの多くは、すでに去勢され萎縮し、すっかりフニャチン野郎に堕ちてしまっていたからである。
「臆病で無責任な百姓町人は三代経なければしゃんとしない」こう発言したのは福沢諭吉だったが、いまの男たちもこれに近い。
薄い笑みをたたえながら、眉をひそめて当惑するばかりの彼らに問題提起したところで暖簾に腕押しだ(あるいは心中、世間知らずの書正論と蔑んでいるのかもしれないが)。
明治維新後にしても太平洋戦争後にしても、過ぎ去ってみて、はじめて前時代の体制がいかに重苦しいものであったかを思い知る。
だが、渦中に身を置いていると、そんな理不尽ですら馴れが生じて、とくに不満も感じなくなるものだ。現今の男たちも飼いならされ、そんな不感症に陥っているのであろうか。
むしろ、一部の女性たちのほうが響いてくれる。知的で気品ある女性たちだ。
たまさかの時流に驕ることなく、冷静に謙虚におのれの歩むべき道を見出そうとする。そんな女性が少なからずいることは、せめてもの救いだ。
この社会の行く末は、そんな聡明なな女性たちが主導するのではないか。
対立軸は男対女ではなく、「聡明な女性」対「傲りたかぶった女」なのかもしれない。

男にとっての幸せは、多くの女にモテることである。それに対し、女にとっての幸せとは一人の男に愛されることであるーーらしい。
「らしい」というのは、男の私にとって仄聞でしかないからだ。
これが真実だとすると、いま進んでいる女権膨張は、女総体の待遇を向上させるが、個々の女の幸せには寄与しそうにない。
家計を握り、親権を盾にして、夫を完全制圧。そんな専横を極めた女を心底愛せるような男はそうはいないからである。
男性器は強者を叩くように設計されていない。弱者に対して威力を発揮する。司馬遼太郎はこんなふうにおどけてみせたが、これは真実である。
つい先ごろ、東大卒のエリート街道まっしぐら代議士が男性秘書をさんざん罵倒して問題になったが、やはり旦那にも逃げられてしまったようである。
今後、熟年離婚が増えるであろう。だが、それは以前のように、妻が三下り半を突きつけるのではなく、夫のほうから愛想を尽かされるものになるに違いない。
子供を育て上げ、老後はひとりで(あるいは仲間と、あるいは新しい女性と)趣味に仕事に余生を過ごすのを心待ちにしている男は少なくないはずだ。「いつか王子様がーー」は、こんにち男たちの切ない胸の内なのである。
昨今、生涯未婚者が増加しているが、これは男性主導によるものであろう。結婚したい女に対し、結婚してもいいと思う男の供給が追いつかないのである。
それも無理もない。家庭を持ったところで、こんな苛烈な運命が待っているのなら、結婚なんて願い下げと考えるのは当然のことである。
「女性のライバルは、男の趣味」これは作家・中谷彰宏の言葉だ。
結婚してしまったがために、好きなことを奪われ、監視され、隷属させられるなんてまっぴらごめん。そんな賢明な男たちの存在が女権膨張社会におけるレジスタンスなのだろう。(つづく)

親権争いは、子供を「連れ去った」側に軍配が上がる。やや乱暴な表現だが、これが実状である。
だから、「開戦やむなし」と判断したら、まず“玉”をおさえる。これは源平の世以来、いくさの常道である。
ある日、妻が子供の手を引いて実家に身を寄せる。こうして親権戦の火蓋が切られる。
奇襲をくらった男はこうなればもう為すすべがない(奪還しようものなら、警察が出てくる。これで逮捕された父親もいる)。
その後の調停から裁判に至る過程は俎上の鯉だ。せいぜい面会交流権をどれくらい確保できるか程度が争わされ、子供との生活は途絶えることになる。
妻サイド(そのときは弁護士や実家の親たちも参戦)は子供を「人質」に、養育費をめぐる交渉を有利にもっていこうと必死だ。
夫は日々の勤務を果たしつつ、収束の見えない消耗戦に引きずり込まれる。
子供がある程度の年齢に達していれば、子供当人の意思が尊重されるという。ところが「ある程度の年齢」というのが平均すれば10歳ということだ。
だが10歳であろうと、意思表示をしっかりしなければ、女親の元に置かれることになる。
その歳で「お母さんとの生活を望みません。私はお父さんとの暮らしを望みます」などと明言できる子供はそういまい。
正確な数字は把握していないが、戦前は父親の親権獲得率は9割近かったのではないか。それがこんにち1割程度であるといわれる。
この大転換の背景には、民法改正による家父長制の消滅もあるが、心理学における新理論も関係している。
心理学者ジョン・ボウルビィの愛着理論がそれだ。幼少期における母子密着(必ずしも母親でなくてもよい)の大切さが説かれていて、私も賛意を表する一人だ。
だが、この理論は、女天下の時勢の中なか、都合よく援用されてしまった。
「愛着理論にあるように、子供は母親から引き離されることは生育上有害である。したがって、親権は母親が保有すべきである」と。
ともかく父親が親権を獲得することは並大抵のことではない。
父親が親権獲得するには、それなりの財産があり、それなりの収入がある。その上で、日常的に子供と一緒にいられる時間が豊富にある(自営業や自由業)ことや自分の両親と同居しているなどの良環境といった難易度の高い条件が突きつけられる。
核家族のサラリーマンではとうていクリアできるものではない。
こういう「情報」は世の中に出回っているから、それを悪用する連中も出てくる。
夫の子供に対する愛情という「弱点」を突いて、やりたい放題の妻はかなりの数になるはずだ。
だが、お天道様はご覧になっている。このような理不尽は長続きしないことは、男がたどった歴史をみてもあきらかである。
次回は、女天下の行く末をみていくことにしよう。

うかうかしているうちに、男は「財布」と「子供」を妻に奪われていた。これでは勝ち目はゼロだ。
戦国時代、領国を奪われるのは、領主の「不在」が最大の原因だし、農地改革では、不在地主が土地を奪われた。そう、「いない」と奪われるのが世の常なのだ。
にもかかわらず、サラリーマンはとにかく家を空けていた。遠方の勤め先に日々通うのだからしかたないともいえるが、それだけではない。
小津安二郎の映画などに描かれるように、昔の勤め人は陽のあるうちに帰宅していた。
妻の手助け受けて、着流しに着替え、煙草をくゆられてくつろぐ。そんなシーンが印象的だ(「東京日和」だったか)。
こんな暮らしであれば、不在亭主として零落することはなかろうが、仕事後だらだらと飲み歩き、週末も仕事と称してゴルフでは、下克上をくらうのも無理もない。
子育ては積極的に取り組むと楽しく味わい深いものだが、片手間にやると、じつに面倒くさい(歯を食いしばって子守するイクメンたちを見よ)。
彼らの腰のすわらない生半可さに、妻は不満を覚え、子供も侮りはじめる。
「子育ては、妻に任せている」とうそぶいているうちに、「領国」の統治体系はしだいに変質していくのである。
それに追い打ちをかけたのが、親権をめぐる激変だ。これについては、次回述べることにしよう。(つづく)

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