22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

「ダンナのことは好きだけど、息子には、ああなって欲しくない」こうのたまう母親は少なくない。
女性という生き物は、優良な遺伝子を残したいという本能を持っているーーそう学んだが、これはいったいどういうことか。
「旦那のことはべつに好きでもないけど、息子には旦那のような男になってもらいたい」
このほうが女性の本来のあり方に近いように思える。ちなみに我が嫁は、このタイプである。
さんざんお見合いを繰り返して、わたしをよしとしたのも、わたしという人物というより、元気で生命力のあるタネに惹かれたのであろう(家内本人もそんなことをいっているw)。
ちなみに夫婦仲がよいというわけではない。いわゆるラブラブ夫婦とは程遠い。
だが、男としては、ラブなどどうでもよい。ただし、リスペクトは不可欠だ。
リスペクトなき関係は屈辱でしかない。リスペクトは男が男として存立するための拠り所だからだ。
最愛の息子に父親のようになってもらいたいかどうか。これが、夫へのリスペクトの存否をはかる踏み絵となるのだろう。
そう考えると、世の中に「都合のいい女」というのが存在するように「都合のいい男」というのも存在するようである。
尽くしてくれる。こまめによく動いてくれる。そんな好都合な男は、このご時世引き合いも多かろう。
だが、ひとたび男児をなせば、状況は一変する。我が息子には「都合のいい男」になってもらいたくないからだ。
だが、息子が「都合のいい男」へと成長する可能性はかなり高い。それが遺伝をめぐる厳しい現実だ。
好都合を追求した挙げ句、究極の不都合に直面してしまう。問題の先送りはより大きな禍根を招く。
都合より本能。論理より直感。おのれの身体から聴こえてくる声をキャッチするほうが自然(じねん)の加護を受けられるように思う。

子供に医者にしたいのなら、親ができうることは2つだ。
1つは、これから親が医者になること。もう1つは、難病で不慮の死を遂げることだ。
むろん例外はある。だが、おのれの力量を超えた希望を子供に託すことは、今から猛勉強するか死ぬかくらい過酷なことであることを知っておきたい。その想像力がなければ、パワハラ育児につながることだろう。
だが、世の親は無邪気に高望みする。自分の血が流れていることを棚に上げて、教育という「呪術」に精を出す。
長年、知力についての遺伝の影響は「さほどない」とされてきたが、近年ようやく、「大いにある」と是正されてきた。
体格や運動センスについては明確で、東京オリンピックでの活躍が期待されるアスリートは軒並み元選手の子女であることからも明らかだ。
一方、知能系については、遺伝の影響はタブーとされてきた。
だが、先ごろノーベル賞を受賞した本所佑先生の親も医師であるように、遺伝(あるいは文化圏)の影響が絶大であることは明白だ。
しかるに、いまだに先天的要因(=遺伝)よりも後天的要因(=教育など)のほうに期待をかける人のほうが大多数だ。
世の中に学校及び教育関係者は多い。この現実は、社会の土台骨を揺るがしかねない。当面「ない」ことにされるのであろう。
こうした現実といつまでも夢を見ていたい親の心情があいまって、今日も子供たちは、親からゲームを禁止されながらも、親の無理ゲーを強いられている。

「別居」といえば、人聞きが悪いから「別宅」とでも呼ぶべきか。家内と同じ屋根の下で過ごすのは、週に2日か3日だ。
たとえば今日。わたしは八王子の家で日がな一日読書。家内と子供たちは、昨日から山梨の家で、我が両親や親類たちと過ごしている。平日は、これが逆になる。
私は自由業、家内は専業主婦なので、放っておくと四六時中いっしょにいることになりかねない。
上手にすれ違わなければ、いくら仲がよい夫婦でもストレスがたまる。時には、火花が散ることだろう(ましてや、うちなどなおさらだ)。
一部の人から「すれ違い夫婦は、子供にとって悲劇」「家族はつねにいっしょにいるもの」という批判を浴びることもある。だが、そう思っているのは、たいてい女性である。
夫のほうは「ああ、たまには、ひとりでいたいなあ」が本音なのであるが、口にできずにいる。彼らは、通勤の途上、つかの間の静寂を味わうことでよしとしているのだ。
女性諸君には、なかなか理解できないだろうが、男には「静寂」が必要なのである。
孤独な時間がなければ心は冷え、魂は枯れてしまう。ときには、ひとり静かな時間を持つことで、心身を回復させる必要がある。
そういう意味で、母親のこまごまとした世話は、少年にとって「騒音」でしかない。そして、ひっきりなしに騒音にさらされた子供は疲弊して、やがて活力を失っていくことになる。
何度も言うが、男には静寂が必要だ。すれ違いシステムは、そんな男を癒やしてくれる、家内安全方略なのである。上手にすれ違ってくれる家内に感謝したい。

『日本人の9割が知らない残酷な真実』はタイトル通り残酷な本だ。
子供の未来を「学校」に託そうとする親たちに、冷や水をかけることになるからだ。
音楽、執筆、数学、スポーツといった分野において、遺伝の影響度合いは80〜90パーセントになるという。
同様に、知能も性格も遺伝であるというから、教育は意味ないのではないかと絶望する親も少なくないだろう。
このスクールで勉強すれば、食いっぱぐれない資格が取得できますよ。この学校で教育を受ければ、芸術性が育まれますよ。
おのれが成しえなかった「理想」への変身を願う親にとって、こうした囁きかけは魅力的に映る。
だがそれは、しょせん開運ペンダントやパワースポットめぐりのようなもので、お望みの結果につながらないのが現実らしい。
自分には才能がないにも関わらず、子供に医者やらアスリートやら芸術家になってもらいたいなどと期待するのは「頑張って血液型を変えろ」というようなものだ。
そんな無茶振りをされた身にもなってみるがいい。それは教育ではなく虐待だ。
だが、悲観的になる必要はない。忌まわしき遺伝的制約を「持ち前」と言い換えてみてはどうだろうか。
遺伝を積極的に受け入れ、それを社会に適合させてゆく力。これこそ教育の本質に他ならない。
先祖代々、営々と受け継がれた所与の持ち前をいかにして生かすかが、当代たる我々に問われているのだ。
遺伝を通じて子供と共有した「持ち前」。これに磨きをかけてゆくという夫婦親子の共同事業。これが親が成しえる最高の取り組みなのではないか。
こんな崇高ないとなみを、学校にアウトソースするのはもったいなさすぎる。

北京で現代アートのギャラリーを経営している友人が嘆いていた。
「日本のアーティストには怒りがないの。中国のアーティストには怒りがある」
社会に対する怒り、自分に対する怒り、境遇に対する怒り。ボノもスティングも若かりし日、その怒りを音楽にぶつけた。いずれにせよ、怒りはおのれのテーマをもたらしてくれる。
かっこ悪いが、わたしの場合は、親に対する怒りだ。それが淵源となり、その後の人生のテーマとエネルギーをかち得た。
『英雄問答』は父への怒り、古老からの聴き書き集は、愛する祖母を蔑む親類への怒りが根底にあった。
こんにち、日本では「芸術教育」が花ざかりである。
ふた昔前なら博士か大臣、ひと昔前なら医者か弁護士だったのが、いまや芸術家にシフトした。
だが、わたしに言わせれば、それは芸術風職人あるいは、芸術業界関係者になるためのものである。
その理由は、言うまでもなく、根底に「怒り」がないからだ。
怒りを訴えたい、怒りを昇華させたい。その強烈なエネルギーが創作の原動力になる。
それなくしては、メッセージもないのに、文章教室に通って小説を書こうとするのと変わらない。
古今東西、貴族の子女など、衣食住の心配から隔絶した者たちは、より上位のテーマを持ちうる。だが、それはごく少数だ。
適度に家族円満で、適度に衣食住が満たされ、適度に愛情や刺激が満たされた一般家庭には、そんな有閑活動人=芸術家の存在は許されない。
「早く芸術をひと通り勉強して、いい仕事に就きなさい」では、芸術の芽は育まれない。
そんな現世利益主義者が芸術家の「怒り」に感応できるはずもなく、むしろ、芸術家をつぶす側に立つのがオチだ。
芸術は、荒くれ者の聖域だ。安易に関わると、それにともなう業までも引き受けなければならなくなるだろう。

多様性を言うのなら、ヒモや妾もひとつの生き方として認めてはどうだろうか。LGBT同様、それは一種の性的かつ社会的マイノリティーだからである。
女に面倒をみてもらうヒモは、社会的通念からすれば肩身の狭い存在だ。
だが、男は経済的に自立なければならないという考えも、もはや古めかしい。ヒモは男のあり方の一つとして認知されてもよいだろう。
妾にしても同様だ。夫と共に家を経営するのが正妻だとすれば、バイトのように気楽な妾のほうがいいという人もいるはずだ(それも、けっこう多いはず)。
わたしの父は妾の子である。川を挟んで本宅と妾宅があり、酔っ払っては、夜な夜なふんどし一丁で川をザブザブと行き来していたと聞く。
亡き祖母といえば、プロレスを観ながら、酒を飲みタバコを吸っている姿が思い出される。
だらしない印象の人であったが、彼女には分限者の二号さんが似合っていたように思う。
何事においても折り目正しい母方の祖母とは、拠って立つところが根本的に異なると、子供の目にも映った。
じっさい、わたし自身、最初の結婚をしているとき、「妾(愛人ではなく妾と言われたw)にしてほしい」と言われたことがある。
相手が多少エキセントリックな人であり、また、そんな甲斐性もないのでとぼけて逃げた。
そういえば、「そのへんの男の妻になるくらいなら、アラブの王様の第三婦人になりたい」という美女もいた。
昨今の生涯独身者の増加の背景には、こんな事情があるのかもしれない。
つまり、家庭を共同経営する正妻は荷が重い。気楽な妾だったら、なってもいいけど、浮気男はたくさんいても、丸ごと面倒みてくれるような旦那衆は見た当たらない…
批判を承知でいえば、動物としての人間は、一夫四妻くらいがちょうどいいのではないか。
結婚にあぶれた男は、お茶を引いている女房のところに裏口から現れる。
間男する馬喰や夜這いする若衆こそ、ナチュラルでサステイナブルな生態系を現出するのではないか。
ヒモ諸君、妾諸君、いまがチャンスだ。LGBTを突破口にして社会的地位を確立しよう。

追記 ただし、妾やヒモの元に生まれた子供がハッピーかどうかは微妙だ。我が父は、おのれの境遇をよしとはしていなかったからだ。

経営者でなくもない。教師でなくもない。投資家でなくもない。作家でなくもない。政治家でなくもない。職業を尋ねられると、毎回困惑する。
ただこの困惑は、私が22世紀型人間であることの証拠なのかもしれないw
いま第一線で活躍する人たち、たとえばホリエモンや落合陽一といった人たちは、一つの肩書きでは括りれない活動をしている。
たとえば、今をときめく落合陽一は科学者、芸術家、経営者、作家、大学教師という顔を持つ。だが、それはむしろ「落合陽一」というタレントが科学、芸術、経営、文筆、教育を手がけているといったほうが的確だろう。
こんなダヴィンチ人間が今後増えていくことは確実だ。
医者の誰それ、東大卒の誰それ、なんとか銀行の誰それ。そんな肩書きは旧時代のアイデンティティとなるのだ。
とはいえ、いまだ世の中は、肩書きで相手を理解しようとする人が大半だから、わたしのような小ダヴィンチは胡散臭い目で見られる。
落合陽一やホリエモンのように、今後、わたしのブランドが確立されるかどうかは微妙だ。生涯、すわりの悪い思いをしながら、名声を博する日を夢見たい。
さて、視点を家庭文化に向けると、今後「ブランド確立」は自立や個性に替わる教育の基軸となるだろう。
これにともない、稼ぐ力から投資(期待)される力へと、求められる力もシフトせざるを得ない。
投資されるような人物になるには、よりよい未来をつくるためのビジョンやそのためのよき人間関係を語る必要がある。おのれ一個の損得で生きる者は見向きもされないからだ。
利己の時代から利他の時代へーー人間社会は着実に進化してゆく。世の中はどんどんよくなっていくようにできているようである。

しばらく前になるが、幼稚園のパパ友数名で懇親会を企画した。
会場は幹事たる我が仕事場。聞きつけた坊やも行きたいというので、おいでと言った。
数日後、参加者のAさんから「子供の参加はいかがなものか」というメッセージが入った。
私は「翌日休みだし、さっさと寝てしまうから問題なし」とこれを一蹴。
すると、こんどは参加者Bさんからも横槍が入った。
なにやら奥歯に物が挟まったような言い方なので尋ねてみると、Aさんの奥さんから圧力がかかったらしい。それも、Bさんの奥さんを介してだ。
私はスルーした。Bさんの奥さんに、そんな要求をされる筋合いはないからだ。
当時、坊やが通っていた幼稚園は、シュタイナー教育に基づいていて、食事、衣服、言葉遣いなど、じつにさまざまなルール(明文化されていないから空気を読むw)が多かった。そのひとつに早寝早起きがある。
もちろん早寝早起きはいいことだ。うちでも、子供たちは8時には床に就いている。だが、それを他人に勧めるつもりもないし、ましてや強いることなどありえない。なぜなら、そんな言動は子供をもっとも害すからである。
瑣末なことにピリピリして、意に染まぬからと騒ぎ立て、平然と他人に強要する。こんな親の言動を真似した子供たちは、いずれ社会で孤立することになる。これでは、早寝早起きして健康になったところで何の意味もない。
木を見て森を見ず。目先のドグマに縛られて、より高次の価値が見ないのだ。
視点を高めるためには、おのれに対する苛烈なまでの客観視が不可欠だ。だが、教育熱心な小皇帝たちがそのような成熟の機会を持つことは期待しにくい。
だからといって、ツノ突き合わせるのは愚の骨頂。そんなことより、自分のなかに、同様の視野狭窄がないか検証しつつ逃げを打とう。
ここがドラクエと違うところだ。世のモンスターは戦うために存在していない。上手に回避することで経験値になるのだ。


小3でサンタさんの正体は親だと知って以来、何年も知らぬふりをしていた。妹が3人もいるので、それは5年にも及んだ。
「いつまでもサンタさんを待つ純情な子供でいて欲しい」
子供をめぐるファンタジーは、親ならば誰しも持ち得る。だが、その「虚構」の維持にともなう「犠牲」も念頭に置きたい。
ある親が、子供にお金を「見せない」よう四苦八苦しているという話を聞いた。信奉するシュタイナー教育に則った取り組みだということだ。
大学時代、シュタイナー教育をかじったわたしには、その解釈は飛躍が過ぎるように思える。シュタイナー教育というより、主導する母親独自の考え方なのだろう。
それはともかく、その子供は小学校高学年になるが、いまだに「お金」を手にするどころか、見たこともないという。ここに至る当事者たちの苦労は想像するにあまりある。
母親はもちろん、父親や縁類、そして周囲の人たちもお金を見せないように神経をとがらせ、テレビはもちろん見せない。買い物もひっそりと。そんなストレスフルな暮らしが目に浮かぶ。
しかし誰よりもストレスをためているのは子供当人だろう。
さすがにその時期まで、お金を見たことがないとは思えない。親の気持ちを汲んで、見ていないことにしてあげていたのではないか。
子供は親思いだ。親を喜ばせよう、親を悲しませまいと、そんな演技もいとわない。わたしのサンタさん体験もそんな心情によるものだ。
だが、そんな気遣いを子供にさせるのはいかがなものか。「のびのび」というのは、こんな忖度をさせない気楽さのことではないか。
相手の意を汲むという技法は、社会に出れば、いやでも学ばざるを得ない。必要な時期に体得すべきだ。
私見ではあるが、幼少期から忖度を強いられている子女は一見成熟して見えるが、内実は疲弊していて元気を感じない。一様に目が虚ろなのである。
当時のわたしも、今にして思えば消耗著しかった。その後、いくつもの親のファンタジーを蹴散らしたので回復したが、当時の息苦しさは今のわたしには耐えられないw
だが、最後にその「虚構」にもがき苦しむのは親自身なのかもしれない。みずからしつらえた蟻地獄に落ちて這い上がれなくなるのだ。やがて家全体が疲弊し、活力が失われてゆく。
過激なことはしないほうがいい。自戒したい。

子供の頃は好きでもなかった根菜や青魚がじつにうまい。だからといって、我が子に「こんなうまいもの、なぜ食べないんだ」と言うつもりはない。
人にはそれぞれ発達段階がある。味覚同様、価値観も段階を経ながら培われてゆくものだ。
段階無視の跳躍強制は、幼少期のトラウマとなりかねない。いずれ相応の反動が起こることを覚悟しておくべきだ。
ところが、家庭教育においては、こういうことが頻繁に起こる。
たとえば、いま流行りの農業。農作業は子供の情操教育にいいという(その物言いは健康食と通底している)。
わたしも三十代半ばになったあたりから土いじりの愉しさに目覚めた。紅葉や青葉の美しさにも感じ入るようになった。
その頃から、無性に田舎暮らしがしたくなって、新潟や京都の山村に物件を探し回った。よくロハス雑誌を読んだりしたものだ。
とくに子供を持つと、この傾向は強まり、「よい環境」に対する意識は俄然高まる。
だが、大人にとって「よい環境」は果たして子供にとっても「よい環境」なのかは疑わしい。
わたし自身、山や川に囲まれた緑豊かな「よい環境」に育った。だが、子供心にそれはじつに退屈に思えた。
わたしは都市=「悪い環境」に憧れるようになり、田舎=「よい環境」を脱出するべく、もがきあがいた。
こんな経験は、わたしにかぎったことではない。
コンビニもろくにない所より、マクドナルドやゲーセンのある所のほうがワクワクするのが子供の心情だ。その発達段階を尊重してあげたい。
それどころか、「よい環境」を強いられると「悪い環境」に憧れるようになる。「よい食い物」を強いられると「悪い食い物」を渇望するようになる。そんな哀しき反動こそ、理想に燃える親は警戒すべきではないのか。
親たちは、おのれが長年かけて到達した価値観を、いきなり子供の口の中に押し込むようなまねは慎むべきだ。
もし、子供にロハス暮らしや「よい食い物」を日常にしてもらいたいのなら、自分が本心から愉しんで喜んでいる姿を見て、真似するようになってもらうほかない。
うわっつらのポーズや演技など、子供は見抜いている。「よい子」だから、それを包み隠して無邪気を演じているだけだ。
彼らの真意を見過ごすと、いずれ暴発か無気力という末路をたどることになる。
子供は子供。「小さな大人」にしていると、長じて「大きな子供」になってしまうのである。

1週間後に控えた人間ドックに、この1ヶ月鬱々としている。
再検査なんて言われたらどうしよう。緊急入院なんて言われたらどうしよう。
28年前にはガンノイローゼ、16年前にはエイズノイローゼを経験している。
父や末の妹も同様に杞憂がちであることを思えば、わたしの神経症は遺伝性の疾患といっていい。
ある医師は「そんな心配がストレスになり、本当に病気になるよ」と脅す。
友人の医師は「そういう心配性の人は健康に気をつけるから長生きだ」と激励する。
どちらもごもっとも。ありがとう。
ともあれ、当日まで、悶々とした気持ちで過ごすのであろう(毎年そうだ)。
ちょうど五木寛之さんの『健康という病』を読み終えた。
健康情報に振り回され、日々おのれの健康に神経質になっている健康病者の存在が指摘されている(まさに、わたしのことだw)。
人にはそれぞれの健康があり、身体の声を聴きながら、養生していくほかないとおっしゃる。
おおいに賛同するのだが、わたしはそんな悠長に構えていられない。この性格は変えられない。
それも含めての我が心身であるとあきらめて、せいぜいこれ以上失調を来さぬよう心がけるしかない。
いずれ息子か娘(あるいはその子孫たち)がこの気質を受け継ぐことになるのかもしれない。
彼らがよりスムーズな人生を歩むために、ご先祖様として、この薄氷体験から得た知見を残しておくことにしよう。

坊やは夏休みが始まるやいなや姿を消し、祖父母や妹たちの親族4家族十数人の中に身を置き、日々楽しそうにしている。
妻と娘は1週間ほど前から広島に帰省し、ぬくぬくとしているらしい。来週あたりには戻ってくるだろうが、まあいつでもいい。
わたしはひとり家に残り、日々読書とジョギングにいそしんでいる(時々、坊やのところに顔を出すが)。
そんな離散家庭であるが、今後の一つの理想的家族モデルたりうる考えている。
そもそも昔の家族なんてこんなものだった。子のない親類に養子に出したり、祖父母が育てたりなんてふつうにあった。
ちょうど読んでいる『強父論』の著者阿川佐和子さんも幼少の折、両親がアメリカに留学するため、1年間、伯父伯母に育てられたという。
家庭が一糸乱れぬ結束と運営が迫られるようになったのは、せいぜいこの三、四十年なのである。
こんにちの核家族に対して、わたしは以前から批判的だ。それは、子供の「逃げ場」がないからだ。
少子化のなか、ただでさえ少ないきょうだい。日頃顔を合わせるのは母親ばかり(父親は勤めで不在がち)。
こんな濃厚で多様性に欠ける環境は、子供にとって息苦しいことこの上ない。
魚にしても、無機質な金魚すくいのタライよりも草木が生い茂り、緩急おり交ぜた流れがあるほうがいいに決まっている。
これは子供にとっても同じことだ。いろいろな価値観、年齢、関係性の人たちがいる。さらには居場所も多様であったほうがさらにいい。
その日その時の気分で自由気ままに回遊する。坊やの日常はまさに川魚のごとし。その生活環境は一見複雑であるが、その複雑さが気楽さをもたらすのだ。
わたしがつくりあげたいのは、こんな分散型で多様性あるビオトープ的環境なのである。
昨今、多様性が叫ばれているが、そんな意識高い系家庭が意外にも一様性に陥っていることが少なくない。じつは、わたし自身、そんなパワフルな一様性家庭に育った。
わたしの場合、そんな「牢獄」からの脱出願望が社会で生きる上でのエネルギーとなったが、その道程は不毛であった。もっと質の高い苦労もできたはずだ。
複雑怪奇な社会を生きる上で必要なのは気楽さと多様性であろう。子供にとっていちばん毒なのは、単一価値観が横溢した閉鎖環境なのである。

先日のNHKスペシャルで、サーカスをいとなむ大家族のドキュメンタリーを放送していた。
主人公の小学生の少年は、興行にあわせて2ヶ月ごとに転校を繰り返し、トレーラーハウスに暮らし、日々鍛錬に明け暮れ、観客を前に危険な曲芸を披露する。
いわゆる「理想の教育環境」とはとうてい言えないが、子供たちの目は輝き、表情は溌剌としていた。それは、誇りと余裕すら感じさせた。
人生の主題に出会い、それに意欲的に取り組む。これが教育目標の最たるものではないか。
その点、この少年を取り巻く環境は成功しているように思える。
緊張感と責任感がともなう「主題」をみずから据え、これを家庭がサポートし、学校は見守る。
いかにも子供の教育環境など念頭になさそうな、それでいて元気溌剌としている両親が、結果的に子供の自立を現出し意欲を引き出している。
こと人生の主題を発見するという点においては「理想の教育環境」などさほど関係ないようだ。
むしろ、親による過度な整備と干渉が、子供の「人生の主題」との邂逅を妨げるほうが問題だ。自戒したい。

子供がうんこ好きなのはなぜなのか。ちょっと前に「うんこドリル」がバカ売れした。あれなど、いい例だ。
結論から言えば、「うんこ!」と言うと、緊張感がほぐれるからだ。
我々大人にしても、シリアスな状況になったとき、「うんこ! うんこ!」と叫んでみれは、リラックスできるはずだ。
子供たちは、我々が想像している以上に緊張している。純粋無垢で、日々伸びやかな心で生きているなどと思ったら大間違いだ。
学校に遅刻したらたいへんだ。ハンカチやティッシュを忘れたら怒られる。お巡りさんや駅員さんは怖い。こんな緊張感のなかで暮らしている。だから、時には「うんこ!」と叫びたくなる。
だから、うんこと叫んだときには、眉をしかめるのではなく、あたたかく見守ってやってほしい。できれば、唱和してやってほしい。
うちの子もさんざん「うんこ! うんこ!」と叫んでいたが、わたしがそれ以上に「うんこ‼︎ うんこ‼︎」と絶叫したので、最近はあまり言わなくなってきた。
それでも、すこし緊張しているようなときは、「うんこ!」と叫ばせて、リラックスさせている。

ろくに確認もせずに購入し、気に入らぬと即返品する。子供の習い事で代理コーチがついたからと即クレームを入れる。グルメサイトで理不尽な論評を書きまくる。
そんな「犯罪歴」は、生涯一人一人に紐付き共有される。ブロックチェーンの技術と思想は、そんな時代をもたらすであろう。
これまでは、アマゾンや食べログなどに見られるように、商品や店が矢面にさらされてきたが、これが個人に向いていくのである。
ここ十年で、ヤクザなど、いわゆる反社会的勢力が締め出され、クルマも買えない時代になった。これと同じ網が、クレーマーやモンスターといった厄介者に対しても掛けられることになるのは必至だ。
ひとたび厄介者フラグが立てられてしまうと、ネットショップは販売を拒み(あるいは、価格が吊り上げられ)、診察も拒否され、飲食店にも出禁になる。そんな時代もそう遠くはあるまい。
防犯カメラやドライブレコーダーの設置が犯罪抑止に効果を発揮しているように、サービスの提供者側にとっては、効果的な自衛策となろう。
一方で、個人に対する「評価」は、一人一人の人生において死活問題となってくる(むろん、高評価を得られている人には歓迎すべき時代になる)。
主張すべきことを主張するーーこれはだいじなことだが、度を過ぎるとクレームになり難癖になる。
旧時代の価値観に染まった家庭教育を施していると、その子供たちは苦しむことになる。なぜなら「低文化家庭」の出身者という烙印を押されることになるからだ。
そんな時代を迎えるにあたり、われわれ親たちが心がけるべきは平穏無事主義だ。
「波風を立てない」という一時は唾棄された生き方がいま復権しようとしている。いい時代になったものだ。

「こんな奇妙な読み方する人おるんやなァ」
 司馬遼太郎先生は、こう苦笑いされることだろう。
 私は司馬遼太郎作品を「自己啓発書」として読んできた。おのれの至らなさ不甲斐なさを少しでもよきものにするために必死で食らいついてきたのである。
 英雄は寡黙。議論などしない。
 英雄は温和で、言葉遣いが丁寧。
 英雄はなりふりかまわない。必要なら媚びへつらう。
 英雄は臆病。だから周到緻密に準備する。
 英雄はかっこつけない。阿呆を装う。
 司馬が描く英雄たちは、世間一般の英雄像とはだいぶ異なる。異なるというより、むしろ真逆だろう。
 武田信玄や上杉謙信に猫なで声を出す織田信長。
 家に居場所がなく、すぐ寝てしまう西郷隆盛。
 維新前夜、風雲急を告げるなか、お琴の先生を探させられる坂本竜馬。
 英雄といえども、目の前の現実にあがく一個の男にすぎない。ただし、彼らが凡夫と一線を画すのは「自己教育」――自分を躾け、戒め、教育することの威力を知っていて、それを実践したという一点に尽きる。
 英雄は生まれながらにして、「英雄」であったわけではない。自分を鍛錬することで、臆病者は勇者となり、小心者は大気者となったのだ。気魄の自己改革者――これが英雄の実像であるといえる。
 議論するな。断定するな。激語をつかうな。論評するな。詮索するな。差別するな。隙をみせよ。気楽にさせよ。不快感を与えるな。ゆっくり話せ。はしゃぐな。損得勘定するな。分際をわきまえよ――こうした戒めは、元来、議論好きで怒りっぽく、自己肥大して虚勢を張り、詮索好きで口が軽いという英雄的資質が欠落した私にとって受け入れがたいものであった。
 だが、直面する問題はこうした徳目の実践によって解決し、日々自戒することで、あきらかに人生の質が改善することを、私は身をもって体験した。この感動体験を悩めるオヤジたちと共有したい――私はそう奮い立った。
 そこで二年前、司馬遼太郎の全作品(『司馬遼太郎全仕事』に準拠した約三〇〇冊)を読み返し、独自に叡智を抽出し始めた。その数は三千三百項目にも及んだ。つぎにそれらを八つの切り口で整理し、「塾長」と「少壮」という二人の対話形式でまとめ上げたのが本書である。
 登場する「塾長」は現在の私である。いまだ多弁癖が抜けず、折々「誇りたがり」なところが顔を出す五十歳手前の中年男だ。
 一方の「少壮」は過去の私で、三十三歳のときを想定している。
 当時の私はラジオでインタビュアーをつとめていた。そこで本書では、塾長をゲストに迎えてインタビューするという設定にしてみた。
 当時の私は、気概も行動力も責任感もある男だった。会社を経営し、結婚して所帯を持ち、「いよいよこれから」という元気の盛りであったが不徳の致すところ、その後、離婚や事業失敗など、数々の失敗に見舞われることになった。
 私の失敗の原因は、今にして思えば明らかである。それは「ダンディズム」の欠落である。
 あの頃、司馬作品を「自己啓発書」として読めていたら、失敗のいくつかは防げたのではないか。無謀な〃戦争〃に突入する前の「少壮」に、本書の叡智を授けておきたかった。

 さて、本書の内容は、すべて司馬遼太郎作品に立脚している。したがって史実かどうかは問題にしていない。
 たとえば、正確には坂本「龍馬」であるが、司馬に倣って「竜馬」とし、じっさいは親子二代で国を盗ったとされる斎藤道三にしても、一代で国を盗ったものとして語っている。人物の紹介などについても、自己啓発書ということで最小限にとどめ流れを重視した。詳細は、ぜひ司馬遼太郎作品を紐解いてもらいたい。
 修行するオヤジが英雄になる――ともに学びともに鍛錬して、「おやじ受難の時代」を元気溌剌に生き抜いていこう。

「国語」という教科にずっと違和感があった。それは「実用」と「芸術」という二つの異質なジャンルが混在しているからである。
たとえば書道。これはあきらかに芸術分野であろう。
たしかに「国語」を成す日本語を書くわけだが、ワープロの文字と顔真卿の書を同列にするのはいくらなんでも変だ。
つぎに古典、そして小説。これらも日本語で構成されているとはいえ、論説文や小論文と同列に扱うわけにはいかない。
漢文についてはなおさらだ。「歴史」に区分されてもいいくらいだ。
では、そもそも「国語」とは何なのか? 
一般的に「国語力」とは、日本語による文語および口語のコミュニケーション能力を指す。
以前、「国語力に欠ける人はすぐキレる」というエントリーを書いたが、ここでいう国語力もそういう定義に基づいた。
論説文を読むことは、相手の言いたいことを論理的に汲み取り、小論文を書くことは、自分の言いたいことをわかりやすく表現するという訓練だ。それらが「国語」教科に組み込まれていることは理解できる。
しかし、古文、漢文、小説、さらには短歌、俳句、詩などが「論理的な言語操作」を旨とする「国語」に含まれるのはどうにも納得がゆかない。やはり、「芸術」にカテゴライズされるべきではないか。
このような国語をめぐる混同は、我々の生き方にも少なからぬ影響を与えているのではないだろうか。これについては、次回述べることにする。〈つづく〉

収録後のタクシーの車中。グロービスの堀義人さんが「まもなく4人めの男の子が産まれるんだよ」とおっしゃった。
3人の男児は(記憶が曖昧だが)、健人とか治人とか、「コンセプト+人」というパターンの名前だった。堀さんはそれぞれの命名に、政治家、経営者、アスリートになって欲しいという想いを込めたという。
次の子供の名前をいま考え中だというので「アートはどうですか?」とふってみた。
「アートか、芸術家。いいね。でも、どんな字をあてるの?」
「『噫』とかどうですか。噫人」
「うーん…」
こんにち芸術家がもてはやされるのは、その自由さゆえではなかろうか。
一方、銀行員をはじめとする、サラリーマンの人気がガタ落ちだが、その背景には「カネやステータスよりも自由気まま」という価値観の高まりがあるのではないか。
起業ブームについても同じことがいえる。起業家は自由気ままで楽しそう。嫌な上司もいないし、時間も自由。カネに不自由しないし、モテそう。
これらは多分に誤解なのだが、そんな上っ面のイメージだけで行動に移してしまうおっちょこちょいも少なくない。
最近の学生はしっかりしているが、それでも、30年前なら銀行員や広告代理店を目指したような面々がいま、芸術やら起業やらに流入しようとしている。
彼らがその道で成功するかどうかは微妙だ。なぜなら、芸術やら起業というものは、スキルとか経験というものではなく「体質」だからだ。
暑がり、酒飲み、肥満などと同様に、芸術家体質があり起業家体質がある。サラリーマン体質というと抵抗があるのなら、御家中体質というべきものもあり、それはそれで尊い。
それを変えようというのは、血液型を変えるくらい困難なことだ。その時間と労力は、自分の得意分野を伸長させる方につかうべきではないか。
さんざん事業失敗を繰り返してきたわたしであるが、じつは安定志向の権化である。安定するために起業を繰り返し、不安定にならないために勤め人になろうとしないだけのことだ。
これは、どちらがいい悪いという話ではない。体質なのである。受け入れた上で、戦略を立てる他ない。
さて、起業体質者の行動癖の一つに「逆張り」がある。
今こそ、サラリーマンになって、銀行に勤めるタイミングなのではないか――そんな妄想がふと頭をよぎることもある。だが、急激な体質改善は大病の元。もう、ジジイだ。ここは自重しておこう。

太宰治は津軽の名門・津島家の面汚しであった。
あの時代、文学にうつつを抜かし、挙げ句の果て、女と入水自殺をはかるなど、勘当されても当然の愚か者だった。
もっとも、その逆境との対峙が、太宰を芸術家たらしめているわけで、親が全面的にバックアップしていたら、彼はアーターに堕ちていたであろう。
こんにち「芸術」に興味を持った子供に困惑する親はほとんどいない。むしろ将来有望と小躍りするのではないか。
わたしはこの風潮を揶揄したり侮蔑するつもりはない。ただ、アーターへと道を踏み外さぬよう注意を喚起したいだけだ。
アーターはアートをファッションとして身にまとう。「学歴はもう古い。これからはアートぜよ」
流行に敏感なアート家庭の熱気は、ひと昔前のお受験家庭を想起させる。早々と「アート」に舵を切った彼らの嗅覚には感嘆するが、アート戦略は偏差値戦略とは事情がだいぶ違うということをわきまえておきたい。それは、教わって育まれる能力ではないからだ。
北京で現代アートのギャラリーを営んでいる旧友がこんなことを言っていた。
「中国の若手アーティストにはメッセージがある。日本の若手にはそれがない。小手先の技術の人が多いのよね」
芸術は技術ではない。技術には職人という道もあり、それは尊い。だがそれと芸術家を一緒くたにしてはならない。
両者を隔てるものは、内なる情動だ。訴えたいこと、伝えたいことなくして、芸術は成り立たない。魂なき真似事は、本来の芸術から一番遠い所に漂着させることになる。
芸術の時代は到来する。物質的に満たされた我々が、精神的な豊かさを充足させようとするのは自然の流れだ。
そのためには、たしかに芸術はうってつけだ。創作であれ、趣味であれ、研究であれ、没頭できる対象を追い求められる者は、大ヒマ時代の成功者とされるだろう。
そんな直感から、世の親たちは我が子を「芸術」方面に向けようとしているのだろう。その気持ちもわかる。
それなら、道は二つしかない。一つは、芸術教育に身を捧げ、それを教える教師になることだ。
受験勉強体験を生かして、教師になるようなものだ(だが、これは芸術家ではなく、芸術系教師ということになる)。
だが、これを望む親はごく少数だろう。やはり、“真性芸術家”になってもらいたいと願うはずだ。
では、どうすればいいのか。それは、親自身が自分の天命や使命、つまり「物語」に生きることだ。
おのれの物語に覚醒した者は、自然とメッセージがほとばしる。その姿を目の当たりにしたら、子供が自分の物語に出会う道筋を見出す可能性は高まる。
そのためにまずやるべきは、ジャンクなアート消費を慎むことだ。
週末に展覧会に行ったついでに買い物して食事を楽しむ。家族でアートイベントにお出かけ。温泉旅行ついでに、ゆかりの芸術家の記念館に立ち寄る。そんなアート消費者=アーターは、アーター産業のカモでしかない。
そんな消費活動にうつつを抜かすくらいなら、自分の仕事に渾身でのぞむことだ。どんな仕事でもいい。全身全霊で打ち込むことだ。
そうするうちに、その仕事は、芸術の芳香を漂わせるようになる。
おのれの天命、自分の物語に出会えるのは、そんな瞬間なのである。

わたしほどPTAに向いている男はいないのではないか。日ごとにその思いを強くしている。
まず、PTAはヒマ人でなければつとまらない。
つぎに、男であることも大きい。坊やの学校のPTAは、わたし以外全員女だ。
だから、男のわたしがいることは、必要以上にありがたがられる。ちなみに、「PTA会長は男性が望ましい」という暗黙の了解もあるらしい。
極めつけは、わたし自身がPTA活動に意欲的なことである。元来、なんでも体験してやろうという気持ちが強いものだから、PTAという”魔境”への潜入にも心ときめくものがある。
わたしはいま、PTA広報委員長をつとめている。ぐいぐいとチームを引っ張るものだから、及び腰のお母さんたちからは感謝され、主体的に取り組んでいるお母さんたちからは信望を得ている。
これだけありがたがられることなんて、これまであっただろうか。すっかりのぼせあがっている。
今後の社会動向を展望すれば、わたしのように、PTAに関わらざるを得ないお父さんが激増することだろう。
そんなヒマ人父さんに、わたしは「PTA=忌避すべきもの」という思い込みからいったん離れて、あえて踏み込むことをお勧めする。
中年以降、男たちを襲う無力感と諦念がくつがえされ、さらには、思いがけぬロマンスにめぐりあえるかもしれない。
ユングのいう「中年の危機」を救うのは、じつはPTA活動なのかもしれない。ヒマ人父さん諸君、PTA活動で青春を取り戻そう。

↑このページのトップヘ