22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

すかしたおっさんを見るとカンチョーしたくなり、調子こいてる小娘を見るとからかいたくなる。そんな嫌なジジイであるが、立派な人を前にすると、子犬のようにいい子になる。
藤野にも立派な人はいる。藤野論を綴る上では、その方をあえて思い浮かべぬようにしてきた。なぜなら、闘志が萎えるからである。
だがそうもいかなかった。思いがけず、藤野立派婦人との接点が生じた。あんまり藤野をdisっていると、姫が悲しまれるのではないか。そんなわけで逡巡が芽生えている。
ところが、まだまだネタが尽きないから困ったものだ。ネタ帳には10個以上の論点がメモされていて、書きかけのエントリーも3本ある。
一方、文字数を勘定してみたら9万字を超えていた。新書1冊ぶんはゆうに書いたことになる。
こんな局地的かつ感情的な文章が商業出版されるとは思えないが、磨きをかければ、教育論として出色の出来映えになるものと自負している。
この藤野論をいかなるかたちで着地させるか、そろそろ真剣に考えたほうがよさそうだ。

「夫婦いいね」は藤野独特の風習だ。学生時代の友人や仕事仲間では、夫婦でおたがいに「いいね」しあうなんて、まずお目にかかることはない。
家内もフェイスブックを始めたばかりの頃は、私の記事にいいねしていた。悪い気はしなかったが、すこし息苦しく感じた。
その後、家内がフェイスブック離れしたからいいものの、あのままだったら、私のほうが離脱していたことだろう。
いずれ坊やもSNSを始めることになる。その時、私は「友達」になるべきだろうか。答えは明快だ。なるべきではない。
行動や考え、交友関係が親に筒抜けで、それらが「いいね」か否かの評価が下され、さらには折々コメントを入れられる。そんなの、私だったらまっぴら御免だからだ。
以前、藤野は「ラブラブ夫婦のまち」であると述べた(藤野論25)。「ラブラブ」とは夫婦円満というわけではなく、その実態は、妻主導・夫追従のカカア天下だと指摘した。
そんな藤野のご婦人にとって、SNSは最強の制御システムだ。そこに書かれない行動は「秘密」となり、そこで綴られた言葉は「言質」となる。
「なんで私が、いいねしなかったかわかる?」という藤野婦人のジロリに、藤野紳士はゾゾォーと顔面蒼白。こんな様子が目に浮かぶw
一度取り込まれたら最後、「交流権」と「自己表現権」は生涯、妻の監督下に置かれてしまうのだから、たまったものではない。
夫婦でも親子でも「距離=プライバシー」は大事だ。藤野ベタベタ家族は、強者たる母親にとっては楽園だろうが、従属する弱者(おもに少年)にとっては魂の牢獄に他ならないのだ。

伯父の葬儀に藤野の親戚も駆けつけた。そのなかの2人からそれぞれ、こう切り出されて驚いた。
「息子さん、シュタイナーだったよね?」
「ええ幼稚園までは。小学校から都内にしました(汗)」と答えると、安心したように顔をほころばせた。
私と違って、我が縁類は控えめで穏やかだ(私の気質は父方の九州系だ)。そんな藤野ネイティブが「自称芸術家」という言葉を使っていたのは印象的だった。
話を聞いてみると、自称芸術家は不気味。新藤野民とその「カルチャー」に言いしれぬ違和感を抱いているようなのである。
以前、アートギャラリー経営者と直島に行った。
私は現代アートというものに懐疑的なので、いくつか意地悪な質問を投げつけた。
彼女曰く、現代アートそのものの価値はよくわからない。今は投資先として盛り上がっているから、いいビジネスになる。
作品そのものというより、アーティストのイメージをつくりあげて、計画的に価値を生み出してビジネスにしているところもある。
「霊感商法みたいだね」と向けると、彼女は「そんな面もあるね」と笑っていた。
自称芸術家は霊感商法の詐欺師。市井の人びとは、こんなふうに認識しているのかもしれない。関わるとへんな宗教に入れられて、へんな物を買わされると。
そういえば、藤野にはその昔、とある宗教団体の拠点が築かれそうになった(住民運動で撃退した)。
当時の忌まわしい記憶が「自称芸術家」によって思い起こされるのかもしれない。
むろん、先祖代々藤野で生きてきたネイティブにとって、これがきわめて正常な感覚であることは言うまでもない。
むしろ芸術に酔い、アートにラリっている新藤野民のほうに危うさはある。芸術やアートというだけでひざまずき、両手を振り上げてひれ伏してしまうからだ。
もしここに、強烈なアートカリスマが降臨したら、藤野は一大カルト王国になってしまうんじゃないか。
マンガ「20世紀少年」を読んでいたら、そんなことを夢想してしまったw

藤野婦人「みんな隠れてやってますよ。黙っていればいいんですよ」
私「隠れてコソコソやるような人間にはなって欲しくないなあ」
iPadを持たせ、いっしょにゲームをして、寝床でマンガを読む。坊やの日常は、いずれもシュタイナー小学校の「規則」に抵触する。
これでシュタイナー小学校に入ったら坊やもつらいし、学校も迷惑だと思い、入学は辞退した。
それはさておき、冒頭の藤野婦人の言葉にあるように、藤野ではコソコソしなければならないことが多い。
SNSでみんな繋がっているので、そこに流す記事にしても、藤野的か否かセルフ検閲を加える必要がある。
自省することは大事なことだが、自粛するのは真に厳粛なときくらいでよくないか。
日常的に自粛ムードが漂っているのが藤野の困ったところだ。そんな所で「創造」「自由」なんてハードル高いぞw
ちなみに冒頭の婦人は穏健派だ。私の言葉を受けて、「それもそうですね…」と困惑顔になった。
そんな婦人の力になりたいと思う。これからも元気はつらつで、藤野を論じてゆきたいと思う。

シングルマザーの藤野婦人から相談を受けたことがある。
思春期の息子が急に反抗的になってきて、わけがわからない。どうしたらいいのかと言う。
私は「おろおろしなさい」とアドバイスした。
男というものは、女に対して「守ってあげたい」という心情を持ちたがる。むろん母親に対してもである。
だが、そのためには「かよわい」必要がある。
以前、男性器は弱きものに力を発揮するが、強きを挫く機能は持ち合わせていないと述べた。
これと同様に、男の優しさも、かよわき女にしか発揮されないようにできているのだ(フニャチン男の媚びは強き女に発揮されるがw)。
おろおろする母親を前にすると「安心してね、お母さん。僕が守ってあげるから」と肩に手を置く。
メソメソする女性を前にすると(君を守れるのは、俺しかいない)と心に期す。男とはそういうものだ。
その点、かの婦人もそうなのだが、藤野婦人は強すぎる。
いや、それは本当の「強さ」ではない。「強引」「勝ち気」といったほうが適切だろう。ゆえに「ツヨイ」とでもいっておこう。
少年の権利を蹂躙し、夫の制止も一撃で砕く。そんな「ツヨイ母親」はレジスタンスの対象にしかならない。
息子さんも長年、耐えてきたのではないか。それが思春期パワーを拠り所にして、ついに決起したのである。
「これは喜ぶべきこと。今こそ、おろおろしなさい。そうすれば、彼は一個の男として自立してゆくだろう」そう彼女を励ました。
しばらくして、婦人は藤野を出た。「女の論理」が支配的な藤野から離れることは、少年の自立に向けての大きな一歩となったのではないか。

上から目線に「憐れみ」が加わったら最悪だ。
(ああ、そうなのですね。お気の毒さま。意識が高くなったら、そのうちわかりますよ)という、相手の未熟に理解を示してやったような、上からの眼差しだ。「藤野目線」にさらされるたび腸が煮えくり返ったものだ。
以下は、神学者・高橋御山人氏(当財団評議員)の論考だ。あの不快で侮辱的な「藤野目線」の正体は、酩酊した万能感だったのだ。
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〈寄稿〉「万能感」を戒める「倫理観」を〜高橋御山人

盛池塾長と「藤野」について話すうち、問題の主役たる親達は高学歴で、藤野の親達と同じ問題を持ってたという塾長の両親も高学歴であり、「高学歴親」特有の問題があることが浮き彫りになった。

そして、そこに共通するのは、親達の「万能感」だということも。

親に限らず、高学歴というものは、人に「万能感」をもたらしがちだ。現代社会においては、高学歴であることが「人生の勝者」であるように言われて来たのだから、当然と言えば当然である。

いい大学を出ていい会社に入る(あるいは官僚になる)、それが「上流階級」参入の為のパスポートとして広く喧伝され、事実そう機能して来たことは、今更言うまでもない。

いや、かつての社会においても、そうであった。因果が逆のところもあるが、高等教育機関への入学は、そもそも「上流階級」でなければ難しかった。少なくとも、経済的な余裕が必要であった。

一方で、近代以前の社会においては、高等教育機関は基本的に宗教に付随したものであることが多かった。玄奘三蔵が仏典を求めたナーランダ大学は、世界最古の大学の一つと言われる。中世ヨーロッパで至高の学問とされたのは神学だ。

しかし、宗教というものは、「万能の神」を認めることはあっても、それを信じる人間自身を万能とすることはない。むしろ、人間自身が自分を万能と錯覚する事を戒める。人間自身が万能であるなら、信仰というものが生じる余地はない。

無論、いにしえにも、己を万能と錯覚する宗教者は少なからずいただろうが、少なくとも、表立って振りかざす事は出来なかったし、余程の不心得者でなければ、信仰は少なからず己が万能感を抱く事を抑制する「重石」となったことだろう。

また、近代以降の社会であっても、例えば日本の近代黎明期には、「公への貢献」──故郷や母国の人々の暮らしを良くしたい、といったような目標の為に大学へ行くのは、珍しいことではなかった。

才能があるにも関わらず、経済的に恵まれない少年少女の為に、郷土の「上流階級」が、これを支援するということも、よく行われた。それは、郷土や母国繁栄の為の「投資」だからだ。

このような「公への貢献」「郷土への貢献」という意識は、宗教的倫理観とよく似ている。神道のような氏族・郷土に根差した宗教にあっては、信仰の核心とさえ言える。

それは神道が「氏神さん」を重視することでも分かる。氏神とは古くは名の通り氏族の祖神であり、かつて同一集落内の居住者は基本的に同一氏族とその係累だった為、郷土の守護神を意味するようになった。

だから、「公への貢献」「郷土への貢献」もまた、己が万能感を抱く事を抑制する「重石」となっただろう。己の万能感に酔っていては、郷土や母国の繁栄など覚束ない。

西洋も驚くトンネル技術によって掘られ、日本初の水力発電、日本初の市電をもたらし、遷都に伴って衰退しつつあった京都を復興させた琵琶湖疏水は、21歳の若さで抜擢された田辺朔郎が設計したものであり、彼はまさに神の如き能力を発揮したのだが、その万能感になど酔っていただろうか。

かつて、高度な知識は、高度な倫理を伴っていたのである。必ずという訳でもないが、高等教育機関への進学に宗教的倫理観が付随する状況が、現代よりもはるかに多く、高度な知識を持つ事で、過度な万能感を持ってしまう危険が、ある程度回避されていたように思う。

知識とは武器である。それは己や己の属する社会の未来を切り拓く武器となるが、使い方によっては、人の未来、己の未来をも破壊する武器ともなる。高度な知識は、大量殺戮兵器ともなり得るのだ。核兵器も毒ガスも、高度な知識なしに作る事は出来ない。

高度な知識は、高度な倫理とともにあるべきである。高学歴は、高倫理とともにあるべきなのだ。

初等から高等まで、多くの教育機関は、校訓などに倫理的内容が含まれていないということはまずない。それは、もちろん単純に社会の成員となる為の倫理教育という意味もあるだろうが、同時に、知識という刀を授ける際に、同時に倫理という鞘をも授ける必要があるからなのではないだろうか。今では名目だけとなり、教育者自身その理由を分かっていないことも少なくないだろうが。

高度な倫理が伴わず、高度な知識だけ持ってしまった、高倫理が伴わず、高学歴だけ持ってしまった極端な例が、連合赤軍であり、オウムということであろう。

オウムは宗教であるが、ここで言う宗教的倫理観が欠如していたことは言うまでもない。連合赤軍とて、理想社会の実現という一種の宗教的目標があったはずだが、それに見合った倫理観は欠落していた。

もっと踏み込めば、近代に至り「神は死んだ」と叫ばれた後、高学歴者達の倫理不在が、二度の世界大戦のような愚行を産んだとさえ言い得る。

無論、近代以前にも悲惨な殺戮はいくらでもあった。しかし、知識(とその結晶としての技術)自体がそこまで高度でなく、それを持つ人も少なかった為に、世界大戦のような同時多発的大量殺戮はなかった。

そして、危険な武器たる高度な知識を持つ者が、己の叡智を際限なく殺戮に資するというようなことも少なかったが、それは高度な知識とセットであった、高度な倫理観が「重石」となった影響もあるだろう。宗教教団が営む高等教育機関で、大量殺戮技術を研究することは、少なくとも表向きは憚られたのだから。

そもそも、いかに「上流階級」やその支援を受けた人々であっても、現代のような高度な文明に囲まれていなかった人達が、現代人ほど過剰な万能感を持つはずがない。貴族であっても、容易に伝染病に倒れる時代もあったのだ。

人類が持つ知識は、高度化する一方である。だから、それに伴って万能感を持つことを抑制する倫理観を、高等教育で授けるべきだろう。

その為に、人の子の親が万能感を持たないようにすることは、言うまでもない。繰り返しになるが、倫理観の欠如した高学歴者が過剰な万能感を持った結果が、連合赤軍やオウムなのだ。

彼らは、自分が万能と錯覚し、世界が自分の理想と異なるのを見て、一足飛びに己の理想を実現しようとした。それは安易である。

人は万能ではない。だから、人の世も完全ではない。己が理想が必ずしも良き結果をもたらすとは限らず、信念を持ってはいても絶えずそのチェックは必要で、さらに、その理想を実現するにも、長い年月がかかる。

社会的な理想を実現するというのは、簡単なことではないのだ。どこか「理想郷」に行けばそれが実現するとか、金を出せば簡単に買えるとかいうようなものではない。残酷なことかもしれないが、「藤野に行けば理想が叶う」とか、そういった安易なことではない。

子供の教育とて同じである。人は不完全であるから、親も不完全であり、子も不完全である。一足飛びに理想が実現する事はなく、「理想郷」に行けば理想の子が育つとか、金さえ出せば理想の子になるとか、そういうことはないのだ。長い時間をかけ、どこまでも本心で向き合う、それ以外にあるまい。

企業においてさえ、最重要なことは構成員が「腹を割って話し合う」ことだと、海外の著名なコンサルタントが指摘している。それさえ出来ればそもそもコンサルなど必要ないと。いわんや、親子においてをや。

さて、蛇足ではあるが、二十二世紀志向の当育英会としては、末尾に未来志向の話を一つ。

高度な知識に高度な倫理が伴うべきなら、AIも高度な倫理を伴うべきであろう。事実、現在開発中の自動運転では、緊急時に何を優先すべきかというテーマが重要な検討事項となっている。これなど見ても、高度な知識に高度な倫理が伴うべき証左と言えるだろう。

AIですら、不完全な選択肢しかない状況に追い込まれ、倫理を必要とする。そんな時代に、人間程度の知能で、万能感に酔っている場合ではない。

北朝鮮に民主主義があれば、わざわざ朝鮮「民主主義」人民共和国と主張することはあるまい。
ひょっとしたら、自由ヴァルドルフ学校(シュタイナー学校の本場ドイツでの呼称)の「自由」についても、それがいえるのではないか。
シュタイナー教育では「自由」が高らかにうたわれる。藤野のシュタイナー学校のサイトにも、次のような一文がある。
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子どもたちが、外側からの権威や価値にもたれかからずに、自分で考え、自分の感情を膨らませ、自分の意志を行動と結び付ける「自由」をもった大人になれるように育むこと。これが《自由への教育》です。
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この理念を体現しているのは、他ならぬ私だ。
〈自分で考え、自分の感情を膨らませ、自分の意思を行動と結びつけて〉日々「藤野論」を展開している。これは〈外側からの権威や価値〉との対峙なくしてはなし得ない。
シュタイナー教育の目指す「自由をもった大人」の私であるが、シュタイナー教育の標榜する「自由」には首をかしげてしまう。
次の一文を読んでいただきたい。先ごろ配信されたシュタイナー学園のメルマガからの抜粋だ。
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私が「こんなに先生が子どもを一人ひとり見てくれて、自由な学校はないよ」というと、(注:娘は)「もう自由はいらない」と言い放ち、他の高校に進学を決めました。
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シュタイナー教育のいう「自由」とはいったい何を意味するのか。「もう自由はいらない」と言い放った少女にとって「自由」とはいったい何だったのか。
シュタイナー教育における「自由」とは、ひょっとしたら「覚醒」や「解脱」のような、宗教的ステージを指すのかもしれない。
導師「覚醒すれば〈自由〉になれるのです。そのためには、今こそ気持ちをたしかに持たなければならないのです」
少女「もう〈自由〉なんていりません。お願いだから、ここから出して」
こんなシーンを妄想してしまったw
かくして、この少女は「自由」を獲得した。〈自由〉から逃れて、今ごろ真の自由を満喫していることだろう。
こんな時、つくづく女は強いなと思う。行動が一直線だからだ。少年だったら、そこまでの果敢な行動はとれないだろうな…。だからこそ、私は藤野少年を憂える。藤野少年に光あれ!

3年ほど前、小学4年の少年が不審死した。警察は自殺としたが、あまりにも不可解な死に、私はたいへんな衝撃を受けた。
その後、この小学生はシュタイナー学校(藤野ではない)の生徒だったと判明した。
ネット上には、シュタイナー教育との関係を取り沙汰する書き込みがあふれたのは言うまでもない。
ことの真相は私にはわからない。ただ親御さんや学校の責任を問うのは、あまりにも酷だと思う。したがって、ここでは「自殺」とシュタイナー教育の因果関係を述べるつもりはない。
私がこの件を引いたのは、以下の報道記事を紹介するためである。
〈同校近くの住民からは「あそこの学校は親同士の仲はいいけど、生徒同士が笑顔で話しているところはあまり見ないんですよね」という奇妙な声も聞かれる。〉(東スポ ウェブ版からの抜粋)
東スポにしては、じつに歯切れの悪い文章であるが、云わんとするところは汲みとれる。
思うところはあるが、この件については、やはりやめておく。
あらためて、亡くなった少年を悼み、遺族、関係者にお悔やみを申し上げる。

「急に集中力がついてきて、子どもが片っ端から本を読み始めました」――こんなシュタイナー学校の体験談を最近読んだ。
だがこれは本当に「教育効果」なのだろうか。
子供をシュタイナー学校に入れる親はいずれも高学歴だ。彼らの小学生時代も「急に集中力がついて、片っ端から本を読み始め」たのではないかな。要は「遺伝のたまもの」であると言いたいのだ。
知能や性格、そして身体能力はほぼ遺伝で決まる。差別につながるので、大声では言えない御時世だが、もはや真理といってもよいだろう。
ひるがえれば、後天的な教育などというものは、たいして意味がないということになる(ただし、習得しようという意欲があれば話は別だ。ただし、そう思えること自体が遺伝的資質ともいえる)。
親の夢を託し、エゴを満たすために施された「教育」など、数年を経ずしてメッキが剥がれてしまうのだ。気づけば、親と同じような人生を歩んでいる。これが厳しい現実だ。
遺伝と教育については、以前、以下のようなエントリーを書いた。ご参考に。
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『日本人の9割が知らない残酷な真実』(橘玲)はタイトル通り残酷な本だ。
子供の未来を「学校」に託そうとする親たちに、冷や水をかけることになるからだ。
音楽、執筆、数学、スポーツといった分野において、遺伝の影響度合いは80〜90パーセントになるという。
同様に、知能も性格も遺伝であるというから、教育は意味ないのではないかと絶望する親も少なくないだろう。
このスクールで勉強すれば、食いっぱぐれない資格が取得できますよ。この学校で教育を受ければ、芸術性が育まれますよ。
おのれが成しえなかった「理想」への変身を願う親にとって、こうした囁きかけは魅力的に映る。
だがそれは、しょせん開運ペンダントやパワースポットめぐりのようなもので、お望みの結果につながらないのが現実らしい。
自分には才能がないにも関わらず、子供に医者やらアスリートやら芸術家になってもらいたいなどと期待するのは「頑張って血液型を変えろ」というようなものだ。
そんな無茶振りをされた身にもなってみるがいい。それは教育ではなく虐待だ。
だが、悲観的になる必要はない。忌まわしき遺伝的制約を「持ち前」と言い換えてみてはどうだろうか。
遺伝を積極的に受け入れ、それを社会に適合させてゆく力。これこそ教育の本質に他ならない。
先祖代々、営々と受け継がれた所与の持ち前をいかにして生かすかが、当代たる我々に問われているのだ。
遺伝を通じて子供と共有した「持ち前」。これに磨きをかけてゆくという夫婦親子の共同事業。これが親が成しえる最高の取り組みなのではないか。
こんな崇高ないとなみを、学校にアウトソースするのはもったいなさすぎる。

「僕たち、ゲームとかスマホとかやらないけど、不幸じゃありません」
シュタイナー学校(藤野ではない)の説明会で登壇した在校生の弁だ。
申し訳ないが、額面通り受け取れなかった。本心とはほど遠い、強弁に聞こえてしまったのだ。
若い頃の強がりは大事だ。意地を張ることは、血気のあかしだ。強がって強くなる。そんなこともままある。
だがそれも度を過ぎると、憐れみを惹起してしまうから怖い。
女性諸氏にはわかりにくいであろうが、男にとって最もつらいのは同情されることだ。
「本当は羨ましいのでしょうね。かわいそうだから、優しくしてあげましょうね」こういう眼差しが、いちばんこたえる。
「おれ、めちゃくちゃゲームとかやりたいんですけど、うちの学校はだめなんですよね。卒業したら、ソッコーでスマホとか買います」くらい吹っ切れていればいうことはない。
だが、シュタイナー少年たちは賢いので周囲を慮る。冒頭の弁には、その忸怩たる思いがにじみ出ていた。
ゲームに通じて友情を育み、好きな女の子とLINEして心ときめく年頃だ。ふつうに青春を謳歌させてあげたいと思うのは、私だけではあるまい。
また不足体験は、いずれ過剰なかたちで帳尻を合わせられることになる。
「欲しがりません勝つまでは」と我慢を強いられた日本国民は敗戦後、物欲にまみれた。
幼少期に不足を感じたものを生涯追い求めるのが人間のさがであるともいう。
そのあたり、シュタイナー翁はどのように考えていたのだろうか。もう一度学び直す必要がありそうだ。

「今『ドラえもん』という言葉が聞こえてきましたが?(まさか、ドラえもんを読んでいるのじゃないでしょうね)」と先生。
漏れ伝え聞いた、シュタイナー学校でのひとコマである。
「ドラえもん」はシュタイナー教育では御法度だ。キャラクターものは衣類を含め、接することは禁じられている。
一方、うちの坊やはいま「ドラえもん」にのめり込んでいる。
「書籍代は青天井」という父以来の方針にのっとり、毎日のようにドラえもんを買い与えているので、全45巻のコンプリートも目前だ。
ドラえもんは私も読破した。少年に行動を促し意欲を高めてくれる最高のマンガといえる。坊やが「日記を書きたい」などと言い出したのもドラえもん効果だ。
マンガを否定するのは簡単だ。「絵でイメージが固定されやすい」とかなんとか御託を並べればよい。だが、教育というものはそういうものではあるまい。
エデュケーションはラテン語の「educatus(引き出す)」を語源とする。意欲や行動の起点を引き出し、育むことが教育の本質なのだ。
その点、意欲や行動の芽を摘んでしまうシュタイナー教育には首をかしげざるを得ない。
やりたいことはことごとく弾圧され「心身によいこと」ばかり強要される。これはもはやパワハラだ。
パワハラにさらされた子供は、パワハラを平気でやる人間になりやすい。なぜなら、それは彼にとって「普通のこと」だからだ。
「ブラック」の連鎖がいま藤野で始まろうとしている。これを地元民として傍観することはできない。

「ずいぶん待たされたって怒ってたよ」と藤野婦人。知り合いの藤野民が、妹のいとなむ歯科医院で待たされたことに憤っているというのだ。
それは申し訳ない。「ごめんごめん。伝えておくよ」と私はお詫びしておいた。
ところが実情はまったく違っていた。当該の藤野民が大遅刻してきたので、ほかの患者さんを先に通したのだった。
この一件は、いかにも藤野的だ。自分のことは棚に上げて平気で怒る。さらには、当事者でもない者が、同じく当事者でもない私に因縁をつけているあたりがだ。
ほとんどの藤野民は穏健な常識人であるが、類は友を呼ぶ。藤野には、面倒くさい人の比率はかなり高い。
たとえばPTAでご一緒する高尾婦人には、この手の人がまったくいないから、じつに対象的だ。
今後、個人向け「信用格付け」が進展するなか、一人ひとりの品性が問われるようになる。クレーマーや面倒くさい人は、どんどん忌避され排除される世の中になるのだ。
「藤野」の民度がこのままであれば、早晩「申し訳ありません。藤野の方は特別料金になります」ということになりかねない。
藤野在住というだけでレーティングを下げられ、買い物も割増価格、サービスを受けるにも保証人が必要という事態になるかもしれないのだ(すでにヤクザはクルマも買えなくなった)。
パーマカルチャーをうたうのであれば、藤野を品位あるものにしてゆくことだ。藤野婦人よ、まずはお行儀をよくすることから始めよう。

「藤野」に失望して出てゆく人は少なくない。そんな場面に出くわすと、地元民として申し訳ない気持ちになる。責任すら感じてしまう。
「藤野離脱」の最大の要因はシュタイナー教育であろう。
藤野のシュタイナー教育はガラパゴス化していると、多くの離脱体験者は口を揃える。すこし関わった程度の私ですら「なんか、ちげくね?」というシーンに何度も出くわした。
外面的にはシュタイナー教育然としているのだが、そこにはシュタイナー翁の精神が宿っていないように思えてならないのだ。
ゲームやマンガの禁止から始まり、性的成長が促進されるから鶏肉を食わせるなやら、写真を撮らずに心に刻めやら、こまごまとした「規則」がごまんとある。
シュタイナー教育者のその場の気分で方針が立ち上がったり、それを忖度した親がお互い自制自粛したりで、次々と「法制化」されてゆく。その瞬間を、私は何度も目撃した。
たちの悪いことに、これらは明文化されない。だから「空気」をよみながら行動しなければならないのだ。
さらには「空気汚濁」を感知するセンサーがいたるところに張り巡らされ、それに抵触しないよう神経を尖らせる必要もある。これはたいへんなストレスだ。
この本末転倒ぶりは連合赤軍を想起させる。気高い理想を掲げながら、そのドグマによって自縄自縛となっていく構造と道程は、じつによく似ている。
私が泰斗・子安美智子先生から教えを受けたシュタイナー教育は、もっと気楽で伸びやかなものだった。その点、藤野シュタイナー教育はあまりにも苛烈で重苦しい。
藤野シュタイナー教育の実態は、しょせん教育ママによる過激な管理教育なのではないか。
「地上の楽園」を探し求めた挙げ句、「惨劇の現場」に行きつくことは少なくない。
藤野を「山岳ベース」にしてはならない。そのために必要なのは多様性の受容と寛容さなのだが、こればかりは一朝一夕にはどうにもならない。

「藤野論」を始めて1ヶ月、藤野におけるフェイスブック友達とはすっかり没交渉となった。盛池育英会のFBページはもちろん、私個人のタイムラインにおいても完全に交流が途絶えたのである(脱藤野者は除く)。
こうなることは予想できた。藤野はムラ社会だ。ムラへの批判は許されない。私の言動をして「反藤野分子」と目されたのであろう。
困ったことに、批判者のみならず、同調者にまで風当たりが強くなることも想定された。これには頭を悩ませた。そこで私は助走期間を設けることにした。昨秋から、藤野のFB友の記事に「いいね」しないことにしたのだ。
私から「いいね」してしまうと、律儀な藤野紳士淑女が「義理いいね」せざるを得なくなる。そんなことで苦境に追い込むわけにはいかない。
こうして身辺を整えてから、藤野論をスタートさせた。
当初、ごく少数の藤野民が「いいね」してくれたが、まもなく止んだ。周囲からの圧力があったのだろう。
こうしてSNS村八分になったのであるが、私はべつにかまわない(多少忸怩たる思いはあるが)。
だがこれが、もし藤野少年だったらどうだろうか。「藤野」に対する疑念は表に出せまい。出したら即、社会的死が待っている。
親きょうだい、学校の友達、近所の人。リアルでもバーチャルでも、やけに繋がっているのが「藤野しがらみ」。
年端もゆかぬ若者にとって、それは「人生」であり「世界」そのものだ。それに立ち向かうのは容易なことではない。
私が憂えるのはまさにここだ。藤野は類まれな「ムラ社会(「村社会」とは異なる)」だ。ここまでの閉鎖性は、こんにち地方の村落に行ってもなかなかお目にかかれないだろう。
これが藤野版「郷に入れば郷に従え」なのか。「藤野」に疑問を持ったら隠忍するか脱出するしか選択肢はない。
だがその時、脱出するだけの元気を保持できているかどうかは微妙だ。ムラ社会は知らず知らずのうちうちに活力を奪うからである。

園長「みなさん、ぜひ、ご意見ご要望などお聞かせください」「……」
園長「さあ、ご遠慮なく。皆さんのご意見が園をつくるのです。さあ」
「では」と私はおもむろに切り出した。園長の呼びかけに応えるべく、ひと肌脱いだのである。
だが、意に反する意見だったのだろう、園長は目をそらし眉間に皺を寄せた。みんな息を凝らしている。
幼稚な私は、すかさず反撃した。「なんでも言えというから言ったのに、その態度はなんですか」
園長はさらに眉間の皺を深め、顔ををくしゃくしゃにしてうつむいた。
先輩父母によれば、園長(シュタイナー教育を施す幼稚園の園長。すでに退任)のダブルバインドは毎度のこと。だから、園長の意に沿うように立ち振る舞うのが賢明ですよ、とのことだ。
よくも悪くも、男というものは真に受ける。女はその点、言葉の綾を汲み取ることに長けている。
母親たちは、園長の独裁体質と綺麗事癖をひと目で見抜き、それに即したそつない対応ができるのだが、私のような阿呆はダブルバインド・トラップにみごとにひっかかってしまう。
私は歯向かうからまだいいが、同じような目に遭い、膝を屈してしまった藤野紳士もいた。それが原因とは思えないが、彼の一家は、まもなく藤野を去っていった。
冒頭の光景こそ「藤野」の縮図だ。「自由」を標榜しながら、じっさいは凄まじい「空気読め」圧力が横溢するのが藤野なのだ。
メンタルを病む一大要因はダブルバインドであるといわれる。大人の言行不一致が少年の心を蝕む最たるものだ。
相手の言葉を真に受けることができる、そんな素直な少年であればあるほど罠に落ちる。それが繰り返されるうちに、やがて少年の目は輝きを失ってゆく(あるいは詐欺師的にギラついてゆく)。
いずれにしても「藤野」に夢を託した親の理想とするところではあるまい。
社会的座標軸の確立と偏在する不可解磁場の解消。この2点が藤野少年の魂を救済することになるのだが、むろん容易なことではない。

伯父の葬儀できょうだいが集まった。とくに長妹一家とはご無沙汰していたので、子供たちの成長ぶりには驚いた。
娘は中1。九段の白百合学園に通っている。物腰のたしかさと清楚さには目をみはった(白百合の制服も最高!)。
弟はやんちゃな小5。勉強嫌いのゲーム好きだが、毎日を楽しんでいるようで何よりだ。
「皇室みたいだね。秋篠宮様の子供のようだ」と言うと義弟は「いやいや」と謙遜してみせた。
だがその後、娘のお受験にあたり、夫婦で皇室モデルを取り入れたのだと、家内を介して知った。最高w
私には妹が3人いる。しかも私を含めて全員に男児がいる。
私は藤野系母の圧政下で辛酸を舐めたものだから、当初、妹たちの育児は気がかりでならなかった。
変な信念にはまり、視野狭窄に陥り、息子の人生を蹂躙するのではないかと危惧したのである。
だが、いまこうして見渡してみれば、それは杞憂だったようである。少年たちの目は輝き、無駄なストレスにさらされている様子はないからだ。
そういえば、以前末妹が言っていた。「お兄ちゃんが親と対決してくれたおかげで、私たちは助かった」と。
母親というものは、愛するがあまり盲目になり、その結果、子供と社会的心中してしまうのは、なにも今に始まったことではない。
妹たちは母親の姿を見て、反面教師にしたのかもしれない。ちなみに、義弟たちも、妹たちの尻に敷かれることなく父権を保っている。
死した伯父も彼の地から、我が社稷の男児たちを見守り続けてくれることであろう。合掌

「でも結果的に、自由と創造性を掴むのかもしれませんよ」と藤野紳士。藤野論を踏まえての弁だ。
少年にとっての「藤野」は、息の詰まる、騒々しい、恥ずかしい、気苦労の多い、消耗著しい、なにかと面倒くさく、面白みのないコミュニティである。
だが、それがために、藤野を脱出したいという意欲が高まり、結果的に「自由」と「本物」を獲得するのではないか。彼はこう言うのである。
藤野的「アート」や藤野的言行不一致を反面教師にして、本物の創造や自分らしい生き方を発見する。
これはあり得る。なぜなら、私自身が歩んだ道のりでもあるからだ。
私は「藤野家庭」に育った。母親が全権を握り、父親はファッションで芸術を愛でるアーターであった。
私の半生は、両親の軛から逃れ、呪縛を解き、除染し、みずから座標軸を一から構築することに費やされた(まだ道半ばであるが)。
その点、先の藤野紳士の言うように、私は「藤野的環境」を逆手にとって、人生を切り開いてきたといえなくもない。
だが、万人が私のような元気者ではない。むしろ例外的存在といっていいだろう。
私は批判を浴びれば浴びるほど、孤立すればするほど、エネルギーがみなぎってくる変態だ。
いまの藤野に、そんな絶倫少年がどれだけいるだろうか。ほとんどいないのではないか。
座標軸がねじれ、磁場が入り乱れるコミュニティ。逃げ場のない、一様性価値観の支配する核家族。
母親の趣味と気分に振り回され、立ち向かおうものなら即座にねじ伏せられ、敗北感とおのれの無力さを痛感させられる日々(父親は不在か無力だ)。
いつしか目はうつろになり、力のない笑みを浮かべることで、その日その日をやり過ごす。こんな閉鎖環境に身を置いていれば無理もない。
「藤野」は女権社会の象徴ともいえる。こんにち、もはや社会的弱者は男だ。
男の解放なくしては、少子社会に歯止めをかけることはできないし、経済発展もなし得ない。世界平和も社会の成熟も、ひとえに「藤野少年」の肩にかかっている。
「藤野」に警鐘を鳴らすことは、22世紀に向けて果たすべき、当事者としての責務なのである。

家内と娘は広島の実家に帰省。息子は妹家族や祖父母と旅行。私はひとりお留守番。男に不可欠な「孤独」を満喫している。
こんな時も、ほぼ全ての藤野家庭は一人欠けることなく、家族で行動していることだろう。
帰省したり旅行したり様々だろうが、男にとって、常に誰かといることは苦痛でしかない。「孤独」は男にとって、かけがいのないものなのである。
尾籠な話になるが、男は「溜まる」生き物である。五十近くになっても、まだまだ溜まる(私の祖父など、七十になってから二人の子をなしたw)。
ひとたび溜まったら、自分でいじるか嫁を御すくらいしか発散の方法はない。
むろん手近なのは「ひとり遊び」であるのだが、それには個室が必要だ。
昨今の個室否定ムードが蔓延しているせいか、藤野家屋を見ると「みんなのスペース」ばかりが重視され、個室は少ない。これには、男として胸が痛む。
中学生にもなれば、男は大いにさかんになるものだ。健康で野生的であればあるほど溜まる。しかし、出さなければ次第に溜まらなくなる。そんな話を以前、太平洋戦争から帰還した古老から聞いた。
つまり、発散しにくい環境に身を置いていると、胤が減ってくるのである。ここにも、藤野のサステナビリティの危機が見て取れる。
その点、私はまだいい。いよいよ妻と没交渉となれば、浮気するとか風俗に行くという手もあるからだ(もっとも、そんな甲斐性も衝動もなくなってしまったのだがww)。だが謹厳なる藤野紳士に、そんなオプションはない。
となると残るは、嫁との交渉ということになるのだが、司馬遼太郎が言うように「男の性衝動は、数千年来、弱き者に対してのみ能力を発揮する。強きをくじくようにはできていない」。
これまで述べてきたように、藤野婦人は最強だ。「強き」を前にして「能力を発揮」できるか、藤野紳士の真価が問われることになる。
ついでながら藤野婦人は白髪を放置し、ざっくりとした自然素材に覆われているせいか、体の線には無頓着のようでもある。これはあるいは、夫を欲情させないための「武装」なのかもしれない。
子をなすという使命をまっとうした男たちは用済みなのか。藤野紳士の目がうつろになるのも無理もない。

「なにこれ?(こんなもんが、なんであるの?)」と藤野婦人が冷たい視線を向けた先にあったのは日の丸だ。
我が家の応接室には日章旗がある。大統領執務室みたいな感じで、ソファの横に屹立している。
ずいぶん前、その方面の方からもらった。気に入っていて、忘れなければ、旗日には玄関先に掲げている。
だからといって、もちろん私は右翼ではない。右っぽいところもあれば、左っぽいところもある。選挙では、頼まれた人に投票してしまう意識低い系だ。
右だろうと左だろうと、私のような「観客」がヤジったところで世の中は変わることはない。歴史とはそういうものだ。
それに、この時代に、右やら左やら陣営を分けて考えるのもしっくりこない。
変わりゆく時勢を見据えながら、心静かに自分の打つべき手を考えることが、生活者としての爽やかな物腰なのではないかな。
冒頭の藤野婦人に見られるように、藤野では「反原発」「アベ政治を許さない」的なサヨク論調が支配的だ。
その点、私は「原発はイヤ」だが、「株上がったし、有効求人倍率もいいし、アベ政治なかなかいいじゃん」というノンポリだ(今後、変わるかもしれないけど)。
「一貫性がない」と、物分かりの悪い人から難詰されそうだが、そんなことはない。
むしろ「一貫性のある、それもお仕着せのイデオロギー」に縛られているほうが面倒くさい存在になっているんじゃないのかな。
イデオロギーに盲従していては「自由」は謳歌できない。仲間内で酔っ払って楽しいかもしれないが、そのぶん、言動に制約がかかるからだ。
成熟した紳士が政治と宗教を語らないのは、そんなタコツボに入りたくないからであろう。
語ったとたん、わらわらと面倒くさい「仲間」ができて、しがらみは増える一方。それに、一度関わると、足抜けは容易なことでない。
こんなこと、自由と多様性を標榜する藤野人なら先刻承知かと思いきや、意外とそうでもないようだ。あるいは、その「タコツボ」こそが藤野の実態なのかもしれないが。

「(あんたのところとは違って、藤野婦人は)みんなダンナラブだから云々」と面罵されたことがある。どんな文脈だったか忘れたが、こんなひとコマも藤野ならではといえよう。
たしかに藤野婦人は、総じて「ダンナラブ」だ。だが、実態を知る者からすれば、やりたい放題に文句ひとつ言わないダンナに、ラブという名の免罪符を一つ二つ発行しているだけとも思える。
うちは、私がやりたい放題なので、しばしば家内の反乱を招く。その点、藤野的ラブには欠けるが、オス・メス的お盛ん度は藤野夫婦の追随を許さないだろうw
尻に敷かれてもスマーイル、振り回されてもスマーイル。そんなナイスパパぶりは、とうてい私にはできぬ芸当だ。だが、藤野紳士はそれができる。彼らは「大人」なのだ。
諦めるべきは諦め、果たすべき役割は果たす。「藤野」にエリートサラリーマンが多いのもうなずける。
会社で耐えがたきを耐え、家庭で忍びがたきを忍ぶ。藤野紳士たちの滅私奉公ぶりには心底頭が下がる。
さて、かの暴言婦人の夫君。ダンナラブとは名の元に、じっさいにはかなり虐げられていることを私は知っている。
気の毒極まりない身の上なのだが、彼はたとえ血が逆流しようとも耐え忍ぶだろうな(あるいは失踪?)。
ひょっとしたら、父の哀れな姿を見た孝行息子あたりから反乱の火の手があがるのかもしれない。
ともかく、妻のいう「ラブラブ」なんぞ、夫の臥薪嘗胆の上に成り立っている「幻」でしかない。
夫婦の真実は「ダンナの野性」を見れば一目瞭然だ。夫婦の実相はラブラブではなくビンビンに表れるのである。

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